第5話 センターの女王
翌日。
灯は、控室の隅でノートを開いていた。
昨日のページには、三島沙耶の赤が入っている。
選べなかった負け。
その文字を、灯は何度も見返していた。
一走目の六着は、弾かれた負けだった。
二走目の六着は、選べなかった負けだった。
同じ六着。
けれど、中身は違う。
それを知っただけで、昨日までの自分より少しだけ前に進めた気がした。
ただ、前に進めたからといって、強くなったわけではない。
灯は新しいページに、三島から出された課題を書いていた。
一マークで見る艇を二艇に絞る。
準備では六人を見る。
本番では二艇を見る。
迷ったら、その二艇に戻る。
何度も書いた。
けれど、手は途中で止まった。
二艇に絞る。
言葉では分かる。
でも、どの二艇を見ればいいのか。
それが分からなかった。
一号艇を見るべきなのか。
二号艇を見るべきなのか。
攻める三号艇なのか。
カドの四号艇なのか。
自分の前にいる五号艇なのか。
六コースから見える水面は広い。
広すぎる。
昨日、全部を見ようとして、何も選べなかった。
だから二艇に絞る。
それは分かる。
でも、絞るためには、まず何が大事なのかを決めなければならない。
そこが、まだ灯には分からなかった。
「止まってるね」
声がして、灯は顔を上げた。
三島沙耶だった。
今日も表情は静かだった。
派手さはない。
けれど、その落ち着きが、今の灯には少し眩しく見えた。
「すみません」
「謝るところじゃない」
三島は灯のノートを見た。
「二艇に絞るところ?」
「はい」
灯は正直に頷いた。
「どの二艇を見ればいいのか、分からなくて」
三島は控室のモニターへ視線を向けた。
「自分の進路を作る艇と、自分の進路を消す艇」
灯はペンを持つ手を止めた。
「自分の進路を作る艇と、消す艇……」
「そう」
三島は淡々と言った。
「六コースなら、たとえば五号艇が内へ入るかどうか。四号艇が攻め切るかどうか。そこが自分の前の水面に関係することが多い」
灯は、昨日の一マークを思い出した。
四号艇が攻める。
五号艇が内へ切る。
その後ろに自分がいる。
確かに、灯の進路を直接作ったのは、前の二艇だった。
「一号艇や二号艇も大事。でも、全部を同じ重さで見ると遅れる」
三島は続けた。
「自分の艇がどこにいるかで、見る相手は変わる」
灯はノートに書いた。
自分の進路を作る艇。
自分の進路を消す艇。
「それを決めるのが、準備ですか」
「そう」
三島は頷いた。
「水面に出る前に、ある程度決めておく。本番で初めて探すと遅い」
灯は、ノートに目を落とした。
昨日、自分は本番で探そうとした。
全部を見て、その場で選ぼうとした。
だから間に合わなかった。
その時、モニターに次のレースの出走表が映った。
三島が少しだけ目を細める。
「ちょうどいいレースがある」
灯も顔を上げた。
四号艇。
月城澪。
級別、A1。
灯は、その名前を見た瞬間、わずかに息を呑んだ。
月城澪。
名前は聞いたことがある。
女子レーサーの中でも、センターからの組み立てが抜群に上手い選手。
三コース、四コースから水面を支配する。
支部でも、控室でも、その名前は何度か耳にしていた。
センターの女王。
誰かが、そう呼んでいた。
「月城さん……」
灯が呟くと、三島は静かに頷いた。
「見ておいた方がいい」
「月城さんを、ですか」
「うん」
三島はモニターから目を離さなかった。
「あの人は、見る相手を選ぶのが早い。というより、相手に選ばせるのが上手い」
灯には、すぐには意味が分からなかった。
相手に選ばせる。
水面を見る話をしていたはずなのに、三島はまるで別の競技のことを言っているようだった。
灯は、出走表を見る。
一号艇はB1。
インは守るが、今節の足は目立たない。
二号艇もB1。
差し構えだが、壁としてはやや弱い。
三号艇はA2。
カド受けになる位置。
四号艇が、月城澪。
A1。
五号艇は展開待ちのB1。
六号艇はB2。
相手関係だけを見れば、月城澪が抜けている。
「A1の一般戦……」
灯が小さく言うと、三島は言った。
「勝つと思う」
淡々とした言い方だった。
予想というより、確認に近かった。
「でも、見るのは勝つかどうかじゃない」
「何を見るんですか」
「どうやって水面を動かすか」
灯は顔を上げた。
「水面を、動かす……」
三島は答えなかった。
ただ、モニターに映るピットを指した。
「始まる」
展示航走が始まった。
六艇がピットを離れる。
一号艇が内へ向かう。
二号艇がその外へ続く。
三号艇がスローの外に収まる。
そして四号艇の月城澪は、カドの位置へ入った。
四カド。
灯でも、その言葉は分かる。
スロー三艇の外。
助走距離を取って、一マークへ攻め込む位置。
競走の流れを変えやすい場所。
同時に、失敗すれば外に流れやすい場所でもある。
月城は、そこに静かに艇を置いた。
大きく構えるわけではない。
威圧するように艇を振るわけでもない。
けれど、位置がきれいだった。
三号艇との距離。
五号艇との間。
起こしまでの余裕。
その全部が、最初から決まっていたように見えた。
灯は、モニターを見つめた。
「三島さん」
「うん」
「月城さん、三号艇を見てるんですか」
「見てる」
三島は短く答えた。
「でも、三号艇だけじゃない」
「三号艇だけじゃない……」
「一号艇の逃げ。二号艇の差し。三号艇の受け。五号艇がついてくるかどうか」
灯は、思わずノートに書いた。
四カド。
見る艇。
一号艇、二号艇、三号艇、五号艇。
多い。
そう思った。
自分なら、そこで迷う。
何を見ればいいのか分からなくなる。
けれど、月城澪は迷っているように見えなかった。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
二号艇が差しに構える。
三号艇が、四号艇の攻めを受ける形で少し外へ張る。
月城は四カドから握る。
灯は、まくるのかと思った。
だが、違った。
月城は三号艇をただ潰しにいかない。
三号艇に受けさせる。
三号艇が受けようとして、少しだけ外へ艇を向ける。
その瞬間、内の水面が動いた。
一号艇の出口が外へ膨らむ。
二号艇の差し場が狭くなる。
三号艇の外には波が残る。
五号艇が、その後ろで一瞬待つ。
その全部を見た上で、月城の艇だけが出口へ向かっていた。
灯は、息を止めた。
「今の……」
言葉が続かなかった。
三島は静かに言った。
「あの人は、三号艇を倒したんじゃない」
灯は三島を見た。
「三号艇に受けさせたんですか」
「そう」
三島は頷いた。
「受けさせて、内の水面を動かした」
灯は、もう一度モニターを見た。
自分なら、空いた道を探す。
波が消える場所を探す。
前の艇が流れた後に、入れそうな場所を見る。
けれど、月城は違う。
三号艇に受けさせる。
一号艇を流れさせる。
二号艇の差し場を狭くする。
五号艇がついてこられる形を残す。
その結果、自分の出口を作る。
灯はノートを開いた。
月城澪。
四カド。
道を探していない。
内の艇を動かして、道を作っている。
書きながら、胸の奥がざわついた。
同じ水面を見ているはずなのに、まるで見ているものが違う。
月城澪は、空いた場所を探しているのではない。
空くように、水面を動かしている。
展示が終わった。
月城の展示タイムは悪くない。
けれど、数字だけでは分からないものがあった。
灯は、モニターから目を離せなかった。
本番の時間が来る。
控室の空気が、少し変わった。
出走する選手たちがピットへ向かう。
月城澪も立ち上がった。
姿勢は自然だった。
緊張しているようには見えない。
気負っているようにも見えない。
ただ、自分の仕事をしに行く人の背中だった。
灯は、その背中を見送った。
「強そうに見えない」
思わず、そう言っていた。
三島が少しだけ目を向ける。
灯は慌てて言い直した。
「いえ、強くないという意味じゃなくて……」
「分かる」
三島は短く言った。
「強く見せる必要がないんだと思う」
灯は、月城の背中をもう一度見た。
強く見せる必要がない。
それは、灯には遠すぎる言葉だった。
本番。
六艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇、月城澪。
五号艇。
六号艇。
三対三。
スロー三艇と、ダッシュ三艇。
月城は四カド。
起こし。
エンジン音が変わる。
スリットへ向かう。
月城のスタートは、極端に速いわけではなかった。
コンマ何秒で他を圧倒するような鋭さではない。
けれど、遅れてもいない。
むしろ、スリットを越えてからの艇の向きがきれいだった。
三号艇の外にいる。
でも、三号艇の外をただ回る位置ではない。
三号艇の受けを引き出しながら、一マークの出口へ向かう角度。
灯は、画面の前で息を止めた。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が、月城の攻めを受ける。
月城が四カドから握る。
今度こそ、まくるのかと思った。
けれど、やはり違った。
月城は三号艇を完全に潰しにいかなかった。
三号艇に、受けさせた。
三号艇が外へ張る。
そのぶん、内の水面がわずかに乱れる。
一号艇が先に回るが、出口で膨らむ。
二号艇が差し込もうとするが、差し場は狭い。
三号艇は受けた分だけ出口で止まる。
五号艇が月城の後ろについてくる。
その瞬間、月城は四カドから内へ切り込んだ。
まくり差し。
水面が、月城のために開いたように見えた。
いや、違う。
開いたのではない。
月城が開けた。
一号艇の外。
二号艇の差し場の先。
三号艇の受けた波の内側。
そこに、月城の艇だけがきれいに収まった。
バックストレッチ。
四号艇、月城澪が先頭。
その外から五号艇がついてくる。
一号艇が三番手で残る。
実況の声が一段上がった。
「四号艇、月城澪! カドから鮮やかなまくり差し! 先頭に抜け出しました!」
控室のモニター越しでも、その抜け方ははっきり分かった。
速い。
でも、ただ速いだけではない。
強い。
でも、力で押し切っただけではない。
三号艇に受けさせた。
一号艇を流れさせた。
二号艇の差し場を消した。
五号艇を連れてきた。
そして、自分だけが先頭に出た。
灯は、言葉を失った。
二マーク。
月城は無理をしない。
先頭に立ってからは、余計な勝負をしない。
五号艇が追ってくる。
一号艇も立て直す。
けれど、月城のターンは崩れなかった。
一周二マークを回り、二周目へ入る。
差は少しずつ開く。
派手な独走ではない。
それでも、追いつける気がしない。
月城は、そのまま一着でゴールした。
四号艇。
月城澪。
一着。
決まり手は、まくり差し。
場内に実況の声が響く。
観客席がどよめく。
けれど、月城本人は画面の中で特別な反応を見せなかった。
ただ、いつものように艇を戻している。
灯は、ノートを開いたまま固まっていた。
ペンの先が、紙に触れたまま止まっている。
三島が横から言った。
「見えた?」
灯は、すぐには答えられなかった。
「……見えた、と思います」
「何が?」
灯は、画面の一マークを頭の中で何度も戻した。
一号艇が先に回った。
二号艇が差した。
三号艇が受けた。
月城が握った。
五号艇がついてきた。
その全部が、一瞬で形を変えた。
「月城さんは……道を探してませんでした」
灯はゆっくり言った。
「三号艇に受けさせて、内の水面を動かして、自分の道を作ってました」
三島は頷いた。
「そう」
「一号艇が流れたのも、偶然じゃないんですか」
「たぶんね」
「二号艇の差し場が狭くなったのも」
「うん」
「五号艇がついてきたのも」
「月城さんの攻めで、そこに流れができた」
灯は、ノートに書いた。
道を探す人。
道を作る人。
水面を動かす人。
その三つの言葉を見て、胸の奥が重くなった。
自分は、まだ道を探している。
それも、見つけても入れなかったり、選べなかったりしている。
月城澪は、道を作っていた。
いや、それだけではない。
水面そのものを動かしていた。
同じプロの水面にいるのに、見えている景色が違う。
「三島さん」
「なに?」
「月城さんは、最初からあそこに入るつもりだったんですか」
三島は少し考えた。
「たぶん、違う」
灯は驚いた。
「違うんですか」
「最初から一つの進路だけを決めていたわけじゃないと思う」
三島はモニターを見た。
リプレイが流れている。
「でも、見る相手は決めてた」
灯は、息を呑んだ。
見る相手は決めていた。
昨日、三島に言われたことだった。
「三号艇が受けるか。二号艇が差せるか。一号艇がどこまで流れるか。五号艇がついてくるか」
三島は続けた。
「その中で、月城さんは一瞬で選んだ。全部を同じ重さで見ていない」
灯はリプレイを見る。
月城の艇が、四カドから一マークへ向かう。
三号艇に圧をかける。
三号艇が受ける。
内の水面が動く。
月城が内へ切り込む。
自分の出口を作る。
それは、灯が昨日できなかったことだった。
見る。
決める。
艇を置く。
そのすべてが速い。
「見えることと、決めることは違う」
灯は、小さく呟いた。
三島は何も言わなかった。
その時、レースを終えた月城澪が控室へ戻ってきた。
ヘルメットを外した月城は、画面の中で見た時と同じように落ち着いていた。
年齢は灯より上。
だが、威圧的な雰囲気ではない。
静かで、涼しい。
それなのに、近づいてくるだけで控室の空気が少し締まる。
A1。
センターの女王。
その言葉が、灯の中で急に現実のものになった。
三島が軽く頭を下げる。
「お疲れさまです」
月城は短く頷いた。
「お疲れさま」
その視線が、灯のノートに向いた。
「新人さん?」
灯は慌てて立ち上がった。
「はい。風見灯です。よろしくお願いします」
深く頭を下げる。
月城は、灯をじっと見た。
ただ見られているだけなのに、灯は胸の奥を覗かれているような気がした。
「さっきから見てたね」
灯は顔を上げた。
「はい。すみません」
「謝らなくていい」
月城は少しだけ笑った。
「私じゃなくて、一マークを見てた」
灯は言葉に詰まった。
確かに、そうだった。
月城本人を見ていたのではない。
月城が作った一マークの水面を見ていた。
月城は灯のノートに視線を落とした。
「書く子なんだ」
「はい」
「三島さんに捕まった?」
灯は一瞬、どう答えればいいか分からなかった。
三島が横から静かに言った。
「まだ捕まえてません」
月城は少しだけ口元を緩めた。
「なら、逃げるなら今のうちだね」
冗談のような言い方だった。
でも、灯は逃げたいとは思わなかった。
「逃げません」
灯は思わず言っていた。
自分でも少し驚いた。
月城は、灯を見た。
その目が、わずかに細くなる。
「見える子なんだ」
灯の胸が跳ねた。
「え……」
「さっきの一マーク。普通の新人は、私が抜けたところだけ見る」
月城は言った。
「あなたは、その前を見てた」
灯は息を呑んだ。
見られていた。
自分が見ていたことを、月城に見られていた。
「でも」
月城の声は、そこで少しだけ鋭くなった。
「見えてるのに遅い」
その一言が、灯の胸にまっすぐ刺さった。
見えてるのに遅い。
三島の言葉とは違う。
原因を説明する言葉ではない。
ただ、灯の弱点を一瞬で言い切る言葉だった。
灯は何も返せなかった。
悔しいと思うより先に、当たっていると思った。
見えている。
でも遅い。
見えてから迷う。
見えてから考える。
見えてから艇を向ける。
だから間に合わない。
初戦の一マークも。
二走目の一マークも。
全部、そこに戻ってくる。
月城は、それ以上責めるようなことは言わなかった。
「三島さんに見られるなら、そこは直されると思う」
そう言って、月城は自分の準備へ戻っていった。
灯は、しばらくその場に立ったままだった。
三島が言う。
「刺さった?」
灯は小さく頷いた。
「かなり」
「なら、書いておいた方がいい」
灯は椅子に座り、ノートを開いた。
手が少し震えている。
でも、ペンは止まらなかった。
月城澪。
A1。
センターの女王。
四カドから一着。
決まり手、まくり差し。
空いた道に入るのではない。
空くように水面を動かす。
三号艇に受けさせる。
一号艇を流れさせる。
二号艇の差し場を狭める。
五号艇を連れてくる。
自分の出口を先に作る。
灯は一度ペンを止めた。
そして、月城に言われた言葉を書いた。
見えてるのに遅い。
その文字は、重かった。
でも、目を逸らしてはいけない言葉だった。
三島がノートを見ながら言った。
「次のレース、見る二艇を決めてから走るよ」
灯は頷いた。
「はい」
「月城さんみたいに水面を動かそうとしなくていい」
灯は顔を上げた。
「まだ、ですか」
「まだ」
三島は即答した。
「今の風見さんがそれをやろうとしたら、また全部持ったまま遅れる」
灯は少しだけ苦笑した。
言われると思った。
「まずは、自分の進路を作る艇と、消す艇を見る」
「はい」
「道を作るのは、そのあと」
灯はノートに書いた。
まずは、道を探す前に見る相手を決める。
道を作るのは、そのあと。
水面を動かすのは、もっとあと。
灯は、もう一度モニターを見た。
リプレイは終わり、次のレースの準備に切り替わっている。
水面は、また別の六艇を待っていた。
さっき月城澪が動かした水面は、もうどこにもない。
けれど、灯の中には残っていた。
三号艇が受けた瞬間。
一号艇が流れた水面。
二号艇の差し場が消えた瞬間。
五号艇がついてきた流れ。
そして、四号艇の月城澪が抜け出した出口。
灯は初めて知った。
水面は、読むだけではない。
探すだけでもない。
動かすことができる。
けれど今の自分には、まだ動かせない。
まだ、探すことすら遅い。
それでも、見えたものはあった。
目指すべき遠さも、少しだけ見えた。
灯はノートの最後に、ゆっくりと書いた。
道を探す人。
道を作る人。
水面を動かす人。
私はまだ、探すことも遅い。
だから次は、見る相手を決める。
ペンを置く。
控室の外から、次のレースのエンジン音が聞こえてきた。
水面は止まらない。
一つの勝利も、一つの敗戦も、すぐに次のレースへ流れていく。
けれど、灯の中には確かに残った。
四カドから水面を動かし、一着で抜け出したA1レーサー。
月城澪。
その背中は、まだ遠すぎる。
遠すぎるからこそ、灯は目を逸らせなかった。
風見灯は、その日初めて見た。
自分が探している道の、ずっと先にいる人を。




