第6話 十一レースと十二レース
準優勝戦の日。
控室の空気は、朝から少し違っていた。
普段と同じように選手たちは準備をしている。
モーターを確認する音。
工具を置く音。
新聞をめくる音。
係員の声。
モニターから流れる実況。
けれど、そのどれもが少しだけ硬く聞こえた。
灯は、控室の隅でノートを開いていた。
自分の今日の出走は、すでに終わっている。
六号艇。
六コース。
六着。
また、最後尾だった。
けれど、今の灯はその六着をまだ整理しきれていなかった。
今日の水面には、これから準優勝戦がある。
十レース。
十一レース。
十二レース。
その三つのレースで、翌日の優勝戦に進む選手が決まる。
灯は、掲示板に貼られた出走表を見た。
準優十一レース。
二号艇。
三島沙耶。
A2。
灯の視線は、そこで止まった。
三島沙耶が、準優に乗る。
それだけでも、灯には十分遠いことだった。
けれど、三島はいつもと同じように、静かに準備をしていた。
派手な気合いを見せるわけでもない。
周囲に圧を出すわけでもない。
ただ、出走表を見て、モーターを見て、ノートを開いている。
その姿は、普段とほとんど変わらなかった。
だからこそ、灯には不思議だった。
「三島さん」
灯は、控えめに声をかけた。
三島が顔を上げる。
「なに?」
「準優って……緊張しないんですか」
三島は少しだけ考えた。
「するよ」
「そう見えません」
「見せても速くならないから」
灯は黙った。
三島は、ノートに目を落としたまま続けた。
「緊張してるかどうかより、何を見るかを決める方が大事」
「見る艇は、二艇ですか」
灯が聞くと、三島は小さく頷いた。
「今日の私は二号艇。まず一号艇」
「はい」
「それから三号艇」
「三号艇……」
「二コース差しは、一号艇だけ見ていればいいわけじゃない。三号艇が握ってくる角度で、自分の出口が変わる」
灯は、ノートに書いた。
二号艇。
見る艇。
一号艇と三号艇。
三島は続けた。
「準優は、優出するためのレース。でも、勝てる場所があるなら勝ちに行く」
その言葉に、灯のペンが止まった。
優出するためのレース。
でも、勝てる場所があるなら勝ちに行く。
三島は、取れる着を守るだけの選手ではない。
それは前から分かっていたはずだった。
でも、準優の出走表の前で聞くと、その言葉の重さが違った。
「三島さんは、勝ちに行くんですね」
灯がそう言うと、三島は少しだけ目を細めた。
「準優だからね」
「優出するために、二着でもいいんじゃ……」
言いかけて、灯は自分で口を止めた。
三島は怒らなかった。
ただ、静かに言った。
「二着でいい、と思って二着を取れるほど準優は甘くないよ」
灯は、胸の奥を刺された気がした。
「勝ちに行く準備をして、その結果として二着になることはある」
三島は言った。
「でも、最初から二着でいいと思って走ると、一マークで遅れる」
灯は、ノートに書いた。
準優。
二着でいいと思うと遅れる。
勝ちに行く準備。
三島は立ち上がった。
「十一レース、見ておいて」
「はい」
「私がどこを見て差すか」
灯は、顔を上げた。
「はい」
三島は、ヘルメットを手にピットへ向かった。
その背中は、やはり派手ではなかった。
けれど、静かな強さがあった。
灯は、その背中を見送りながら思った。
三島沙耶は、準備で勝ちに行く人なのだと。
準優十一レース。
展示航走が始まった。
六艇がピットを離れる。
一号艇が内へ向かう。
二号艇の三島が、その外へ入る。
三号艇は少し外へ余裕を取る。
四号艇がカド。
五号艇、六号艇が続く。
灯はモニターの前でノートを開いた。
見るのは一号艇と三号艇。
三島が見ると決めた二艇。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
三島が二コースから差す。
三号艇が外を握る。
灯は、三島の艇の向きを見た。
深く入りすぎていない。
でも浅くもない。
一号艇の懐へ入る準備をしながら、三号艇の握りで外に波ができることも見ている。
その位置。
そこへ艇を置くまでが、灯にはとても早く見えた。
「三島さん、もう決めてる……」
灯は小さく呟いた。
展示が終わる。
三島の展示タイムは目立って抜けてはいない。
一号艇も悪くない。
三号艇も攻める気配がある。
数字だけ見れば、簡単なレースではない。
けれど灯には、三島の準備が見えた気がした。
勝ちに行くために、どこを見るかを決めている。
そして、その場所へ艇を置く準備をしている。
本番。
準優十一レース。
六艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
一号艇。
二号艇、三島沙耶。
三号艇。
四号艇。
五号艇。
六号艇。
起こし。
エンジン音が変わる。
スリットへ向かう。
一号艇はスタートを決めた。
三島も遅れない。
三号艇も握る気配を見せる。
一マークまでの水面が、一気に詰まる。
一号艇が先に回る。
インから逃げる形。
大きく流れたわけではない。
しかし、出口がほんの少し外へ向いた。
その瞬間、三島が入った。
二コースから差す。
ただ安全に差すのではない。
一号艇の懐へ、勝ちに行く角度で艇を入れる。
灯は、思わず身を乗り出した。
「入った……!」
三島の艇先が、一号艇の内側へ届く。
三号艇が外を握る。
その波が外へ広がる。
けれど、三島はそこに飲まれない。
最初から、その波の外側ではなく、内側の出口を見ていた。
バックストレッチ。
二号艇、三島沙耶が先頭。
一号艇が追う。
三号艇は外を回った分だけ少し遅れた。
実況の声が響く。
「二号艇、三島沙耶! 差し抜けた! 準優十一レース、先頭に立ちました!」
灯は、ノートに急いで書いた。
一号艇、出口少し外。
三島さん、差し。
三号艇の握りを受けない位置。
差し場だけじゃなく、出口を見ていた。
一周二マーク。
三島は先頭で回る。
一号艇が差し返しを狙う。
しかし、三島は出口を締める。
無理に大きく握らない。
差される場所を残さない。
二周目。
三島は崩れない。
一号艇は追う。
三号艇も立て直してくる。
それでも、三島の艇は揺れなかった。
派手な独走ではない。
けれど、追わせない。
三周目。
最後の二マークを回った時、灯はようやく息を吐いた。
ゴール。
一着、三島沙耶。
準優十一レース。
二号艇。
二コース差し。
一着。
優勝戦進出。
控室の中に、少しだけざわめきが起きた。
灯はノートを握りしめていた。
三島が勝った。
あの静かな準備で。
あの淡々とした目で。
勝ちに行って、勝った。
しばらくして、三島が控室へ戻ってきた。
表情は大きく変わっていない。
けれど、灯には分かった。
さっきの三島とは違う。
勝って戻ってきた選手の空気があった。
「三島さん」
灯は立ち上がった。
「一着、おめでとうございます」
三島は軽く頷いた。
「ありがとう」
「差し、入ってました」
「入れた」
「一号艇だけじゃなくて、三号艇も見てたんですよね」
三島は少しだけ目を細めた。
「見えた?」
「少しだけ」
灯はノートを見た。
「一号艇の出口が少し外へ向いた時に差して、三号艇の波が来る前に出口を取ってました」
三島は静かに頷いた。
「なら、見た意味はあったね」
灯の胸が少し熱くなった。
褒められたわけではない。
でも、今の自分には十分だった。
三島はノートを開きながら言った。
「ただ、完璧ではない」
「一着でも、ですか」
「一着だから書く」
三島はすぐに答えた。
「勝ったレースほど、次に使えるものがある」
灯は、その言葉もノートに書いた。
勝ったレースほど、次に使えるものがある。
三島は、勝っても書く。
負けても書く。
それが、準備で走る人の強さなのだと、灯は思った。
そして、準優十二レースの出走表がモニターに映った。
四号艇。
月城澪。
A1。
灯の胸が、また少しだけ硬くなる。
三島が十一レースを勝った。
次は、月城澪の十二レース。
しかも、四号艇。
四カド。
前に見た、あの位置だった。
「月城さん、また四カド……」
灯が呟くと、三島もモニターを見た。
「うん」
「勝ちますか」
灯が聞くと、三島はすぐには答えなかった。
珍しく、少しだけ間を置いた。
「一号艇が強い」
灯は出走表を見た。
一号艇。
A1。
今節の仕上がりは抜けている。
スタートも安定。
インから逃げる力がある。
二号艇は差し構え。
三号艇はカド受け。
四号艇が月城。
五号艇は展開待ち。
六号艇は外。
前に見た一般戦とは、相手の厚みが違った。
「月城さんでも、届かないことがあるんですか」
灯は聞いた。
三島は、静かに言った。
「あるよ」
その言葉は、少し意外だった。
灯の中で、月城澪は水面を動かす人だった。
四カドから内を動かし、自分の出口を作る人。
前に見たレースでは、あまりにも簡単そうに勝っていた。
その月城でも、届かないことがある。
「でも」
三島は続けた。
「届かない時に崩れないのも、A1の強さ」
灯は、ノートに書いた。
届かない時に崩れない。
A1の強さ。
準優十二レースの展示航走が始まった。
六艇がピットを離れる。
一号艇が内へ向かう。
二号艇。
三号艇。
四号艇、月城澪。
五号艇。
六号艇。
進入は枠なり。
三対三。
月城は四カドに構えた。
灯は、前に見た一般戦の月城を思い出した。
三号艇に受けさせる。
一号艇を流れさせる。
二号艇の差し場を狭める。
五号艇を連れてくる。
自分の出口を作る。
その形。
今回も、同じように見えた。
けれど、三島が言った通り、一号艇の気配が違う。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
ターンが強い。
流れない。
二号艇が差しに構える。
三号艇が月城の攻めを受ける。
月城が四カドから握る。
内の水面は動いた。
三号艇が受ける。
二号艇の差し場が狭くなる。
五号艇が後ろからついてくる。
けれど、一号艇が崩れない。
出口で艇が残る。
月城の艇は、まくり差しの角度に入っている。
しかし、一号艇の出口が消えない。
灯は、息を止めた。
前に見た形に似ていた。
でも、同じではない。
一号艇が流れない。
それだけで、水面の形がまったく変わっていた。
「三島さん……」
「うん」
「月城さん、攻めてますよね」
「攻めてる」
「でも、一号艇が……」
「残ってる」
三島は短く答えた。
灯はノートに書いた。
同じ四カド。
でも、一号艇が流れない。
展示が終わった。
本番の時間が近づく。
月城澪は、控室で静かに準備していた。
一般戦で一着を取った時と、ほとんど変わらない顔だった。
けれど灯には、少しだけ分かった。
あの人も、何も感じていないわけではない。
一号艇が強いこと。
勝ち切るのが簡単ではないこと。
それを分かったうえで、四カドに立つ。
本番。
準優十二レース。
六艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇、月城澪。
五号艇。
六号艇。
三対三。
月城は四カド。
起こし。
エンジン音が変わる。
スリットへ向かう。
一号艇がスタートを決める。
二号艇も遅れない。
三号艇が月城を受ける準備をする。
月城のスタートも悪くない。
極端に抜けてはいない。
けれど、四カドから一マークへ向かう角度は鋭い。
一マーク。
一号艇が先に回る。
二号艇が差しに構える。
三号艇が月城を受ける。
月城が握る。
灯は、モニターの前で息を止めた。
前と同じ。
いや、違う。
月城は三号艇に受けさせた。
三号艇が外へ張る。
二号艇の差し場が狭くなる。
五号艇が後ろからついてくる。
月城は内へ切り込む。
まくり差し。
そこまでは、前に見たレースと同じだった。
しかし、一号艇が流れない。
インのターンが強い。
出口で艇が残る。
月城の艇先は届く。
でも、突き抜けない。
バックストレッチ。
一号艇が先頭。
四号艇、月城澪が二番手。
五号艇が三番手争い。
実況の声が響く。
「一号艇、しっかり逃げる! 四号艇月城澪、カドから攻めましたが二番手!」
灯は、胸の奥が少し震えるのを感じた。
月城が勝てない。
あの月城澪でも、届かない水面がある。
けれど、月城は崩れていなかった。
まくり差しで届かなかった後、外へ流れて終わるのではない。
しっかり二番手に残っている。
五号艇を連れてきたが、その前にいる。
二号艇や三号艇に飲まれていない。
勝ちに行ったうえで、優出の位置を逃していない。
二マーク。
月城は一号艇を追う。
ただ二着を守るだけではない。
一号艇の出口が少しでも甘くなれば差す構え。
しかし、一号艇は崩れない。
月城は無理に突っ込みすぎない。
二着を失うような角度には入らない。
その判断が速い。
灯は、ノートに書いた。
勝ちに行く。
届かない。
でも崩れない。
二周目。
月城は、もう一度一号艇を追った。
一号艇のターンを見て、差し場を探す。
けれど、届かないと見ると、すぐに自分の出口を確保する。
三番手以下との差を詰めさせない。
勝ちに行く目と、優出を逃さない目。
その二つが、同じターンの中にあった。
灯には、それが怖かった。
強い人は、勝つ時だけ強いのではない。
勝てない時の残し方まで強い。
三周目。
一号艇は先頭を守る。
月城は二番手。
五号艇が三番手。
最後の二マーク。
月城は、最後まで一号艇の隙を見た。
でも、無理はしなかった。
ゴール。
一着、一号艇。
二着、月城澪。
月城は準優十二レース、二着で優勝戦進出。
場内に結果が表示される。
月城澪。
二着。
灯は、モニターを見つめたまま、しばらく動けなかった。
前に見たレースでは、月城は四カドから水面を動かして勝った。
今日も、四カドから水面を動かした。
でも、一号艇は崩れなかった。
それでも月城は二着を取り切った。
勝てない形でも、優勝戦へ進んだ。
三島が横で言った。
「見えた?」
灯は、ゆっくり頷いた。
「月城さん、勝ちに行ってました」
「うん」
「でも、一号艇が流れませんでした」
「うん」
「それでも、二着を外しませんでした」
三島は小さく頷いた。
「そこが強い」
灯は、ノートに書いた。
月城さん。
四カド。
勝ちに行った。
一号艇が流れない。
届かない。
でも崩れない。
二着で優出。
三島は言った。
「勝てる水面を作れない時もある」
灯は、顔を上げた。
「月城さんでも、ですか」
「月城さんでも」
三島は答えた。
「でも、作れなかった時に何を残すか。そこまで速い」
灯は、月城のレースを思い返した。
攻める。
届かない。
すぐに二着を確保する。
でも、守りに入ったわけではない。
最後まで一号艇を見ていた。
勝ちに行く姿勢を残したまま、優出を逃さなかった。
それがA1なのだと、灯は思った。
しばらくして、準優十二レースを終えた選手たちが控室へ戻ってきた。
月城澪は、二着でも大きく表情を変えていなかった。
悔しそうではある。
けれど、崩れてはいない。
灯には、その顔が少し怖く見えた。
月城は三島の近くまで来ると、短く言った。
「三島さん、一着だったんだ」
三島は頷いた。
「はい」
「いい差しだった?」
「悪くはなかったです」
月城は少しだけ笑った。
「三島さんらしい」
三島は、月城を見る。
「月城さんは、届きませんでしたね」
灯は、その言葉に少しだけ息を呑んだ。
けれど月城は怒らなかった。
むしろ、静かに頷いた。
「一号艇が強かった」
それだけだった。
言い訳ではない。
敗因を一つ置いただけの言葉だった。
「でも、優勝戦は乗りました」
三島が言うと、月城は軽く肩をすくめた。
「乗ったら、勝ちに行くよ」
その言葉に、灯の胸が跳ねた。
乗ったら、勝ちに行く。
三島も同じことを言っていた。
三島は準優を勝って、優勝戦へ進む。
月城は準優で届かず、それでも二着で優勝戦へ進む。
勝ち方も、負け方も違う。
でも、二人とも次の水面へ向かっている。
準優三レースが終わり、優勝戦の出走表が発表された。
灯は、掲示板の前に立った。
一号艇。
準優十レース一着のA1。
二号艇。
三島沙耶。
準優十一レース一着。
三号艇。
準優十二レース一着。
四号艇。
月城澪。
準優十二レース二着。
五号艇。
準優十レース二着。
六号艇。
準優十一レース二着。
灯は、そこに並ぶ名前を見つめた。
三島沙耶。
二号艇。
月城澪。
四号艇。
二コースの三島。
四カドの月城。
一マークで、二人は違う場所から同じ優勝を狙う。
三島は二コースから差す。
月城は四カドから水面を動かす。
その二つが、明日の優勝戦でぶつかる。
灯は、ノートを開いた。
準優十一レース。
三島さん、一着。
一号艇と三号艇を見て、差しで勝った。
準優十二レース。
月城さん、二着。
四カドから勝ちに行った。
一号艇に届かず、それでも二着を取った。
勝って上がる人。
届かなくても残る人。
その二人が、優勝戦に乗る。
灯は、最後にもう一行を書いた。
明日。
二号艇、三島沙耶。
四号艇、月城澪。
まだ自分には届かない水面。
ペンを置いた。
控室の外では、準優勝戦を終えた場内のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。
けれど灯の胸の中は、静かにならなかった。
三島が勝った水面。
月城が届かなかった水面。
そのどちらも、灯には遠かった。
遠い。
けれど、見えないわけではない。
灯はノートを閉じ、掲示板の優勝戦出走表をもう一度見た。
翌日。
優勝戦。
二号艇、三島沙耶。
四号艇、月城澪。
灯がまだ知らない水面が、そこに待っていた。




