第7話 勝ちにいった二着
翌日。
優勝戦の日。
控室の空気は、朝から少し違っていた。
いつも通り、選手たちは準備をしている。
モーターを確認する音。
工具を置く音。
新聞をめくる音。
係員の声。
モニターから流れる実況。
その一つ一つは、昨日までと変わらない。
けれど、空気の奥にある重さが違った。
今日、この節の優勝者が決まる。
灯は、掲示板の前に立っていた。
優勝戦の出走表。
一号艇。
準優十レース一着のA1。
今節の中心。
インから逃げて優勝を狙う、本命の選手。
二号艇。
三島沙耶。
A2。
準優十一レースを、二コース差しで勝った選手。
三号艇。
準優十二レース一着。
センターからも攻められる実力者。
四号艇。
月城澪。
A1。
準優十二レース二着。
四カドから攻め、届かなかったが、崩れず優出を決めた選手。
五号艇。
準優十レース二着。
展開を拾えるベテラン。
六号艇。
準優十一レース二着。
外からでも着を残す選手。
その六人の名前が並んでいた。
灯は、二号艇と四号艇の名前から目を離せなかった。
三島沙耶。
月城澪。
昨日の準優勝戦で、二人は違う形で優勝戦へ進んだ。
三島は勝って進んだ。
月城は勝ち切れず、それでも二着で進んだ。
勝ち方も、負け方も違う。
けれど、今日の水面では同じものを狙う。
優勝。
灯には、まだ遠すぎる言葉だった。
けれど、その遠すぎる言葉の前に立つ二人を、今日は見ることができる。
灯はノートを開いた。
優勝戦。
二号艇、三島さん。
四号艇、月城さん。
三島さんは差し。
月城さんは四カド。
そこまで書いて、ペンが止まった。
差し。
四カド。
言葉で書くのは簡単だった。
けれど、その二つが同じ一マークでぶつかった時、水面がどうなるのか。
灯にはまだ、想像しきれなかった。
「見てるね」
声がして、灯は振り返った。
三島沙耶だった。
いつもと同じように落ち着いている。
けれど、その目の奥には昨日よりも硬い光があった。
「はい」
灯は答えた。
「三島さん、今日……優勝戦ですね」
「うん」
三島は出走表を見た。
「二号艇」
「勝ちに行くんですよね」
灯が言うと、三島は少しだけ灯を見た。
「もちろん」
その返事は短かった。
迷いがなかった。
「優勝戦で、二着を取りにいく選手はいない」
昨日聞いた言葉だった。
けれど、今日の出走表の前で聞くと、さらに重く聞こえた。
灯はノートに書いた。
優勝戦で、二着を取りにいく選手はいない。
三島は続けた。
「今日、私が見るのは一号艇と四号艇」
灯は顔を上げた。
「四号艇……月城さんですか」
「そう」
三島は頷いた。
「一号艇がどこまで先に回るか。月城さんが四カドからどの角度で来るか」
「三号艇は見ないんですか」
「見る。でも、最初に戻る場所はその二艇」
灯は、急いで書いた。
三島さん。
見る二艇。
一号艇と四号艇。
「二コースから差すなら、一号艇を見る」
三島は言った。
「でも、今日は月城さんが四カドにいる。三号艇が受ける形になる。その外から月城さんが水面を動かしてくる」
灯は、前日の準優十二レースを思い出した。
月城は四カドから攻めた。
三号艇に受けさせ、二号艇の差し場を狭め、五号艇を連れていった。
けれど、一号艇が流れず、月城は届かなかった。
それでも二着を取り切った。
今日も、月城は四カド。
だが、今日は優勝戦。
昨日とは違う水面になる。
「三島さん」
「なに?」
「怖くないんですか」
灯は、同じような質問をまたしてしまったと思った。
けれど、三島はやはり怒らなかった。
「怖いよ」
静かに答える。
「怖いまま走る」
灯は、ノートを握った。
「怖いままでも、勝ちに行くんですか」
「そう」
三島は出走表から目を離さなかった。
「怖いから準備する。怖いから見る艇を決める。怖いから、決めた場所へ迷わず入る」
灯は、その言葉を一つずつ書いた。
怖いから準備する。
怖いから見る艇を決める。
怖いから迷わず入る。
それは、今の灯にはまだ難しすぎることだった。
灯は怖いと迷う。
怖いと見るものが増える。
怖いと決められなくなる。
三島は違う。
怖いからこそ、決める。
「見ておいて」
三島は言った。
「はい」
「私が勝ちに行って、どこまで届くか」
その言葉に、灯は息を呑んだ。
勝つかどうか、ではない。
どこまで届くか。
三島は、すでに自分の勝ち筋と、その先にある届かない場所の両方を見ようとしている。
灯にはそう感じられた。
その時、少し離れた場所から月城澪が歩いてきた。
四号艇のカポックを手にしている。
静かだった。
前に四カドから勝った時とも同じ。
準優で二着だった時とも同じ。
大きく気負っているようには見えない。
だが、近づいてくるだけで、控室の空気が少し締まった。
月城は三島の前で足を止めた。
「三島さん」
「はい」
「今日、差してくるよね」
三島は静かに答えた。
「優勝戦なので」
月城はわずかに笑った。
「だよね」
その短いやり取りに、灯は息を止めていた。
月城は、三島が勝ちに来ることを分かっている。
三島も、月城がそれを読んでいることを分かっている。
分かったうえで、二人は水面に出る。
月城の視線が、灯に移った。
「新人さん」
「はい」
灯は背筋を伸ばした。
「今日も一マークを見るの?」
「見ます」
「じゃあ、三島さんの差しだけ見てると遅れるよ」
灯は目を見開いた。
月城は続けた。
「三島さんが差すと、水面が動く。私はその動いたところも使う」
言葉は軽い。
けれど、内容は鋭かった。
三島の差しを使う。
灯は、その意味をすぐには掴みきれなかった。
月城はそれ以上説明しなかった。
「じゃあ、水面で」
そう言って、ピットへ向かった。
三島も、ヘルメットを手に歩き出す。
灯は、二人の背中を見送った。
二号艇。
三島沙耶。
四号艇。
月城澪。
差しで勝ちに行く人。
四カドから水面を動かす人。
その二人が、同じ優勝戦へ向かっていく。
優勝戦の展示航走が始まった。
六艇がピットを離れる。
一号艇が内へ向かう。
二号艇の三島が、その外へ入る。
三号艇がスローの外。
四号艇の月城は、カドの位置へ向かう。
五号艇。
六号艇。
進入は枠なり。
三対三。
一号艇、二号艇、三号艇。
そして、四カドの月城。
灯はモニターの前でノートを開いた。
見る二艇。
三島さんは、一号艇と四号艇。
自分は何を見る。
灯は考えた。
今、自分は走っていない。
だから全体を見られる。
でも、全部を同じ重さで見たら、また分からなくなる。
灯はノートに書いた。
見る二艇。
三島さんの進路を作る艇、一号艇。
三島さんの進路を消す艇、四号艇。
そこまで書いて、ペンを止めた。
本当は、三号艇も見たい。
月城の進路を作る艇だから。
五号艇も見たい。
月城についていくかもしれないから。
でも、多い。
やはり多い。
その時、三島の言葉を思い出した。
本番で迷ったら、二艇に戻る。
灯は線を引いた。
まず見るのは、一号艇と四号艇。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
三島が二コースから差す。
三号艇が月城を受ける。
月城が四カドから握る。
その瞬間、灯は息を止めた。
水面が一気に動く。
一号艇の出口。
三島の差し場。
三号艇の受け。
月城の角度。
五号艇の追走。
それらが、ひとつの一マークに重なっていた。
三島の差しは深い。
勝ちに行く差し。
一号艇の懐へ艇を入れる。
月城は、その外で三号艇に受けさせながら、一号艇と三島が作る水面の外側を見ている。
灯はペンを走らせた。
三島さん、差し。
一号艇の懐。
月城さん、四カド。
三号艇に受けさせる。
三島さんの差しで水面が動く。
展示が終わる。
灯は、ノートを見た。
書いた文字が少し震えていた。
展示だけでも、情報量が多かった。
これが本番になれば、もっと速い。
もっと重い。
もっと迷う。
灯は、自分がまだその水面に立てないことを痛いほど感じた。
優勝戦の本番が近づく。
場内のざわめきが大きくなる。
モニターには、優勝戦の選手紹介が流れている。
一号艇。
二号艇、三島沙耶。
三号艇。
四号艇、月城澪。
五号艇。
六号艇。
名前が呼ばれるたびに、観客席の空気が揺れる。
灯は、ノートを握った。
自分の名前がそこに載る日は、まだ想像できない。
けれど、今は見る。
見て、書く。
それが今の自分にできることだった。
「優勝戦、出場選手、ピットへお願いします」
係員の声が聞こえた。
六人がピットへ向かう。
三島は静かだった。
月城も静かだった。
一号艇の選手は、イン本命らしい集中した顔をしていた。
三号艇は、月城を受ける位置に入ることを分かっている顔だった。
全員が、勝ちに来ていた。
本番。
六艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
一号艇。
二号艇、三島沙耶。
三号艇。
四号艇、月城澪。
五号艇。
六号艇。
三対三。
四カド、月城。
二コース、三島。
起こし。
エンジン音が変わる。
灯は、モニターの前で瞬きも忘れていた。
一号艇がスタートを決める。
三島も遅れない。
三号艇も、月城を受けるために位置を取る。
月城のスタートは、極端に抜けてはいない。
けれど、四カドから一マークへ向かう角度が鋭い。
一号艇は逃げる。
三島は差す。
三号艇は受ける。
月城は攻める。
その四つの意思が、一マークへ向かって重なった。
一マーク。
一号艇が先に回る。
イン本命らしいターンだった。
大きく流れたわけではない。
崩れたわけでもない。
けれど、ほんの少し、出口が外へ向いた。
その瞬間、三島が入った。
二コースから、迷いなく差す。
灯は、思わず声を漏らした。
「三島さん……!」
守っていない。
着を拾いに行っていない。
三島の艇は、一号艇の懐へ鋭く入っていた。
優勝を取りにいく差し。
一号艇の内側に、三島の艇先が届く。
バックに出れば、先頭まである。
灯にも、そう見えた。
しかし、その外で月城澪が動いていた。
三号艇が、月城を受ける。
受けるために外へ張る。
その分、内の水面がわずかに乱れる。
一号艇は、三島の差しに抵抗する。
三島は、懐へ入る。
その二艇が作った水面の外側。
月城は、そこを見ていた。
四カドから握る。
ただし、ただ外から潰すのではない。
三号艇に受けさせ、一号艇と三島の間に水を動かし、その外側の出口を自分の場所にする。
灯は、月城が言った言葉を思い出した。
三島さんが差すと、水面が動く。
私はその動いたところも使う。
その通りだった。
三島の差しが水面を動かした。
一号艇の抵抗が水面を押した。
三号艇の受けが外の波を作った。
月城は、その全部を使った。
四号艇の艇が、内へ切り込む。
まくり差し。
水面が開いたのではない。
月城が、開かせた。
バックストレッチ。
四号艇、月城澪が先頭。
二号艇、三島沙耶が二番手。
一号艇が三番手。
五号艇がその外で続く。
場内が大きくどよめいた。
実況の声が響く。
「四号艇、月城澪! カドから鮮やかなまくり差し! 二号艇三島沙耶も差して続く! 一号艇は三番手!」
灯は、モニターの前で動けなかった。
三島は勝ちに行った。
確かに入った。
一瞬、優勝に届きかけた。
けれど、そのさらに外に、月城がいた。
三島の差しが弱かったわけではない。
一号艇が大きく失敗したわけでもない。
月城が、その先にいた。
二マーク。
月城が先に回る。
三島は追う。
ここで、三島は二着を守るだけのターンをしなかった。
月城の内を狙う。
届かないと分かっても、艇を向ける。
月城の出口を見て、差し場を探す。
月城は、それを許さない。
先頭の艇が、きれいに水面を締める。
三島の艇は、内へ入りかけて、わずかに届かない。
だが、崩れない。
一号艇の追撃は受け止める。
二周一マーク。
三島はもう一度仕掛けた。
月城のターンが少しでも外へ膨らめば、差す。
その構えだった。
月城は膨らまない。
むしろ、三島が見ている差し場を先に消してくる。
二周二マーク。
三島は外を握る。
勝ちに行く。
それでも届かない。
月城は先頭を守る。
三島は二番手。
一号艇は三番手。
最後の一周。
灯の手に力が入る。
もう差は大きくは変わらない。
それでも、三島は追う姿勢を崩さなかった。
二着でいい、という走りではなかった。
優勝に届かないことが見えても、勝つための道を探していた。
ゴール。
一着、月城澪。
二着、三島沙耶。
三着、一号艇。
場内に歓声が広がる。
実況は、月城の勝利を高く伝えている。
四カドからのまくり差し。
優勝。
月城澪。
灯は、その言葉を聞きながら、ノートに目を落とした。
何も書けていなかった。
ただ、ペンを握ったまま、手が止まっていた。
勝ちにいった。
三島さんは、勝ちにいった。
けれど、届かなかった。
月城さんは、その勝ちにいった差しまで使って勝った。
それを書こうとして、書けなかった。
言葉にするには、まだ水面が大きすぎた。
少しして、優勝戦を終えた選手たちが控室へ戻ってきた。
月城澪は、優勝した選手とは思えないほど静かだった。
もちろん、表情には少しだけ柔らかさがあった。
けれど、大きく喜ぶわけではない。
ただ、自分が勝つべき水面で勝った、という顔だった。
三島沙耶は、その後ろから戻ってきた。
二着。
優勝には届かなかった。
それでも、灯にはその背中が小さくは見えなかった。
むしろ、昨日までより大きく見えた。
三島は、勝ちに行って負けた。
それが分かったからだった。
月城が三島の方を見た。
「三島さん」
三島は顔を上げる。
「はい」
「差してくるの、待ってた」
灯は、その言葉で顔を上げた。
三島は静かに息を吐いた。
「利用されましたか」
「利用した」
月城は、少しだけ笑った。
「でも、あそこに来られないと、私も勝てなかった」
控室の空気が、少しだけ変わった。
月城の言葉には、勝者の余裕だけではないものがあった。
三島の差しを、月城は必要としていた。
三島が勝ちに来たから、水面が動いた。
その動いた水面を、月城がさらに上から使った。
三島は淡々と答えた。
「なら、次は利用されない場所まで届きます」
月城は目を細めた。
「それ、嫌だな」
それだけ言うと、月城は優勝者インタビューへ向かっていった。
控室に、少しだけ静けさが残る。
灯は、三島に近づいた。
何を言えばいいのか分からなかった。
「三島さん」
「うん」
「悔しいですか」
聞いてから、また失礼だったかもしれないと思った。
でも、三島は怒らなかった。
むしろ、いつもよりはっきり答えた。
「悔しいよ」
灯は、黙って三島を見た。
三島は自分のノートを取り出した。
「勝ちにいったからね」
その言葉に、灯の胸が強く揺れた。
勝ちにいったから、悔しい。
三島は続けた。
「二着を守ったんじゃない。優勝を取りにいって、月城さんに届かなかった」
灯は、唇を結んだ。
「私には、三島さんの差しが入ったように見えました」
「入ったよ」
三島は言った。
「でも、出口が足りなかった」
「出口……」
「差し場に入るだけじゃ足りない。優勝戦では、その先の出口まで取らないと勝てない」
三島はノートを開いた。
そこには、もう文字が書かれていた。
一周一マーク。
一号艇、先マイ。
出口やや流れ。
二コース差し、懐に入る。
差しは入った。
ただし、月城さんの出口が先。
自分は差し場を見た。
月城さんは、差しで動いた水面の外側と出口を見ていた。
次に同じ形なら、差し場の奥ではなく、出口の角度を見る。
灯は、その文字を見つめた。
三島も、負けを書く。
優勝戦の二着でも、書く。
しかも、悔しいと答えた直後に。
灯の六着とは違う。
けれど、同じだった。
負けを、そのままにしない。
悔しいで終わらせない。
どこまで届いて、どこから届かなかったのかを書く。
「三島さんも、負けを書くんですね」
灯が言うと、三島は少しだけ灯を見た。
「書くよ」
「優勝戦でも」
「優勝戦だから」
その言葉は、灯の中に静かに沈んだ。
優勝戦だから書く。
勝ちに行ったから書く。
悔しいから書く。
届かなかった場所を、次に見るために書く。
三島はノートを閉じた。
「風見さん」
「はい」
「今日のレース、どう見えた?」
灯は、すぐには答えられなかった。
月城のまくり差し。
三島の差し。
一号艇の逃げ。
三号艇の受け。
その全部が頭の中で揺れている。
でも、灯は一つずつ言葉にした。
「三島さんは、二着を守ったんじゃなくて、勝ちに行きました」
「うん」
「一号艇の懐に入りました。でも、月城さんはその外の出口を先に取っていました」
三島は黙って聞いている。
「月城さんは、三島さんの差しまで使って、水面を作りました」
言いながら、灯は自分でその意味の大きさに気づいた。
月城は、一号艇だけを見ていたのではない。
三号艇だけを動かしたのでもない。
三島が勝ちに来ることまで、水面の一部にしていた。
三島は小さく頷いた。
「そう見えたなら、今日は十分」
灯は、少しだけ息を吐いた。
十分。
それは褒め言葉ではないかもしれない。
でも、今の灯には大きかった。
三島は続けた。
「次に走る時、今日の優勝戦を真似しようとしないこと」
灯は顔を上げた。
言われると思っていた。
「はい」
「月城さんみたいに水面を動かそうとしない。私みたいに優勝戦の差しを狙おうともしない」
「はい」
「今の風見さんがやるのは、見る二艇を決めること」
灯はノートを開いた。
「自分の進路を作る艇と、消す艇」
「そう」
三島は頷いた。
「今日の優勝戦も、そこから見る」
灯は、もう一度モニターを見た。
リプレイが流れている。
一号艇が先に回る。
三島が差す。
三号艇が受ける。
月城が四カドからまくり差す。
灯は、今度は全体を見ようとしなかった。
三島の進路を作った艇。
一号艇。
三島の進路を消した艇。
月城。
三島は、その二艇を見ていた。
そして、勝ちに行った。
月城は、その三島まで見ていた。
だから勝った。
灯は、ノートに書いた。
三島さん。
見る二艇。
一号艇と月城さん。
差しで勝ちに行った。
月城さん。
三島さんの差しまで見ていた。
出口を先に取った。
その下に、もう一行。
勝ちに行った負け。
手が止まった。
その言葉は、重かった。
灯の六着とは違う。
けれど、いつか自分もそこへ行かなければならない。
勝ちに行く。
そして、届かなかったら、その負けを書く。
それがプロなのだと、灯は初めて思った。
月城澪は優勝した。
三島沙耶は二着だった。
けれど、その二着は守った二着ではない。
勝ちにいった二着だった。
灯は、ノートの最後にゆっくりと書いた。
優勝戦で、二着を取りにいく選手はいない。
勝ちにいったから、負けが残る。
負けが残るから、次に変えられる。
ペンを置く。
控室の外では、優勝者インタビューの声が聞こえていた。
月城澪の名前が、場内に響いている。
その声を聞きながら、灯は三島のノートを思い出していた。
差しは入った。
ただし、月城さんの出口が先。
次に同じ形なら、差し場の奥ではなく、出口の角度を見る。
勝てる人も、負けを書く。
ただ、その負けの見方が、自分とはまるで違っていた。
灯は、その差を悔しいとは思わなかった。
まだ、悔しがれる場所にも立っていない。
ただ、遠いと思った。
優勝戦の水面は、あまりにも遠い。
でも、その遠さを見たことだけは、灯の中に残った。
月城澪は、水面を動かして勝った。
三島沙耶は、勝ちに行って届かなかった。
その二人を見て、灯は初めて知った。
勝ちに行く負けがあることを。
そして、いつか自分も、その負けを書ける場所まで行かなければならないことを。




