第8話 四つの6着
優勝戦が終わった。
場内には、まだ熱が残っていた。
月城澪の名前が、何度も響いている。
四カドから水面を動かし、優勝を掴んだA1レーサー。
その隣で、三島沙耶は二着だった。
守った二着ではない。
勝ちにいった二着。
優勝を取りにいって、届かなかった二着。
灯は、そのレースをまだうまく言葉にできずにいた。
控室の隅でノートを開いたまま、ペンを持っている。
けれど、文字はなかなか進まない。
一号艇が先に回った。
三島が差した。
月城が四カドからまくり差した。
三島の差しが水面を動かした。
月城は、その動いた水面まで使った。
そこまでは見えた。
でも、それを自分の言葉で書こうとすると、すぐに足りなくなる。
水面が大きすぎた。
灯の今の力では、まだ全部を書けない。
「全部書こうとしなくていいよ」
声がして、灯は顔を上げた。
三島沙耶だった。
優勝戦を走り終えたばかりなのに、もうノートを閉じている。
負けを書いた後の顔だった。
悔しさはある。
けれど、それに飲まれてはいない。
灯は、自分のノートを見た。
「でも、書かないと忘れそうで」
「忘れてもいいところは忘れていい」
三島は静かに言った。
「今の風見さんが書けるところだけ書けばいい」
灯は、ペンを握り直した。
今の自分が書けるところ。
全部ではなく、一つ。
灯は、ゆっくりと書いた。
三島さんは、勝ちにいった。
月城さんは、その差しまで使って勝った。
書いた文字は、少なかった。
けれど、今の灯にはそれが精一杯だった。
三島はノートを覗き込み、小さく頷いた。
「それでいい」
「これだけで、いいんですか」
「今は」
三島は言った。
「あとで分かることもある。今日分からないことまで、無理に答えにしなくていい」
灯は、少しだけ息を吐いた。
答えにしなくていい。
その言葉で、胸の奥が少し軽くなった。
水面を見る。
でも、すぐ答えにしない。
三島に何度も言われたことだった。
灯は、ノートを閉じかけて、ふと別の紙に目を向けた。
成績表。
自分のデビュー節の結果が載っている。
風見灯。
B2。
そこに並んでいる数字を見た瞬間、胸の奥が静かに重くなった。
六着。
六着。
六着。
六着。
何度見ても、変わらない。
月城澪は優勝した。
三島沙耶は、勝ちにいって二着だった。
そして自分は、四回走って、四回とも最後だった。
全走六コース。
全走六着。
未勝利。
舟券絡みなし。
成績表には、それだけが残っていた。
灯は、その紙を見つめたまま動けなかった。
「全部、六着でした」
思わず、声に出ていた。
三島は隣に立ったまま、その成績表を見た。
「うん。全部、六着だったね」
甘い言葉はなかった。
大丈夫とも、頑張ったとも、惜しかったとも言わなかった。
全部、六着。
その事実だけを置いた。
灯は唇を結んだ。
事実だった。
逃げようがなかった。
「でも」
三島は、灯のノートを指した。
「全部同じ六着ではない」
灯は顔を上げた。
三島は、灯のノートを開いた。
最初のページ。
デビュー戦。
六号艇。
六コース。
六着。
三島が赤を入れたページ。
「一走目は、弾かれた負け」
灯は、その文字を見る。
五号艇の後ろ。
一瞬入った。
波に弾かれた。
あの時、灯は見えた道へ入ろうとした。
けれど、入った後の逃げ道を見ていなかった。
艇は波に弾かれ、外へ流れた。
「狙いはあった」
三島は言った。
「でも、弾かれた後がなかった」
灯は頷いた。
「はい」
次のページ。
二走目。
同じ六コース。
同じ六着。
けれど、違う負けだった。
「二走目は、選べなかった負け」
三島の声が静かに響く。
灯は、あの一マークを思い出した。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇。
全部見ようとした。
全部見えた気がした。
けれど、何も選べなかった。
五号艇の後ろか。
外か。
落とすか。
握るか。
考えた一瞬で、水面は閉じた。
「見えることと、決めることは違う」
三島が言った。
灯は、小さく頷いた。
「はい」
三島はページをめくる。
三走目。
五号艇。
灯は、そのページを見るだけで少し苦くなった。
五号艇をもらった時、ほんの少しだけ思った。
今日は、五コースから走れるかもしれない。
六コースではない場所から、何かできるかもしれない。
けれど、進入で内を欲しがる選手が動いた。
経験のある選手が、当然のように位置を作る。
灯は主張できなかった。
五号艇なのに、気づけばまた外だった。
六コース。
そして、六着。
「三走目は、外へ出された負け」
三島は言った。
灯は、ノートに書かれた言葉を見る。
枠番は、居場所ではない。
新人は、与えられた場所すら守れないことがある。
その一文は、自分で書いたものだった。
書いた時は悔しかった。
悔しくて、少しだけ手が震えた。
五号艇なのに、外へ出された。
でも、それもプロの水面だった。
枠番をもらうことと、そこに居続けることは違う。
位置は、与えられるだけではなく、守らなければならない。
灯には、まだそれができなかった。
「ここは、大事」
三島は言った。
「外へ出されたことを、ただ仕方ないで終わらせないこと」
「はい」
「でも、無理に抵抗すればいいわけでもない」
灯は顔を上げた。
三島は続ける。
「今の風見さんが無理に主張しても、進入で深くなるだけかもしれない。だから、まずは知ること。自分はまだ、場所を守れない」
灯は、その言葉を飲み込んだ。
痛かった。
でも、必要な痛さだった。
三島は、さらにページをめくる。
四走目。
デビュー節最後の走り。
六号艇。
六コース。
六着。
ただ、この時だけは少し違っていた。
灯は、レース前に見る二艇を決めていた。
四号艇と五号艇。
自分の進路を作る艇。
自分の進路を消す艇。
一マークで迷いかけた時、灯はその二艇に戻った。
四号艇が攻める。
五号艇が内へ切る。
その二つだけを見た。
前より、迷いは少なかった。
けれど、艇を置く準備が遅れた。
見た。
決めた。
でも、身体が追いつかなかった。
結果は、また六着。
「四走目は、決めたけど届かなかった負け」
三島は言った。
灯は、そのページを見つめた。
見る二艇は決めた。
でも、艇を置くのが遅い。
そう書いてある。
「前より悪くはない」
三島は言った。
灯は顔を上げた。
「でも、六着です」
「うん。六着」
三島は否定しない。
「ただ、二走目の六着とは違う。二走目は選べなかった。四走目は選んだ。でも遅かった」
灯は、ゆっくり息を吸った。
成績表には、同じ六着としか残らない。
でも、ノートには違う言葉が残っている。
弾かれた負け。
選べなかった負け。
外へ出された負け。
決めたけど届かなかった負け。
四つの六着。
全部、違う負け方だった。
灯は、成績表をもう一度見た。
六。
六。
六。
六。
公式の数字は冷たい。
そこに、灯がどこで迷ったかは載らない。
どの波に弾かれたかも載らない。
何を見ようとしたかも載らない。
少しだけ選べたことも載らない。
でも、ノートには残る。
水面の上で起きた、自分だけの負け方が残る。
「成績表には、何も残ってないみたいです」
灯は言った。
「六着だけで」
三島は、少しだけ灯を見た。
「成績表にはね」
灯はノートを見た。
「でも、ここには残ってる」
「そう」
三島は頷いた。
「負けを残せるなら、次に持っていける」
灯は、ゆっくり頷いた。
次に持っていく。
それは、勝利ではない。
自信でもない。
誇れる結果でもない。
持っていくのは、四つの負けだった。
それでも、何もないよりずっといい。
灯は、ノートの新しいページを開いた。
一番上に書く。
デビュー節。
その下に、事実を書く。
全走六コース。
全走六着。
未勝利。
舟券絡みなし。
書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
でも、目を逸らさずに書けた。
さらに、その下に続ける。
一走目、弾かれた。
二走目、選べなかった。
三走目、外へ出された。
四走目、決めたけど届かなかった。
そこまで書いて、ペンを止めた。
三島が言った。
「次の課題も書いておいて」
灯は顔を上げた。
「次の課題……」
「見る二艇を決めたあと」
三島は言った。
「その二艇が動く前から、艇を置く準備をする」
灯は、すぐに書いた。
見る二艇を決める。
その二艇が動く前から、艇を置く準備をする。
「一マークで決めるんじゃ、遅いんですね」
灯が言うと、三島はすぐに頷いた。
「遅い」
短い言葉だった。
「一マークに入ってから考えると、もう水面はできてる。入れる場所を探すだけになる」
「はい」
「スリットから一マークまでに、もう決め始める」
灯は、ペンを握る手に力を込めた。
スリットから一マークまで。
まだ水面が完全に形になる前。
そこで、四号艇が攻めるか。
五号艇が内へ入るか。
自分はどこに艇を置くのか。
その準備を始める。
今の灯には難しい。
でも、次に持っていく課題としては、はっきりしていた。
「三島さん」
「なに?」
「次の開催でも、見てもらえますか」
聞いてから、灯は少しだけ不安になった。
甘えている気がした。
けれど、言わずにはいられなかった。
三島は、少し間を置いてから言った。
「次の開催、私は別の場」
灯は、ペンを止めた。
「別の場……」
「うん」
三島は、掲示板の斡旋予定を見た。
灯もそちらを見る。
次開催の欄に、自分の名前があった。
風見灯。
B2。
けれど、その近くに三島沙耶の名前はない。
月城澪の名前もない。
三島は言った。
「だから次は、自分で書いて、自分で決める」
灯は、言葉を失った。
分かっていたはずだった。
プロは、いつも同じ人と走れるわけではない。
同じ場に師匠がいるとは限らない。
でも、実際に三島の名前がない斡旋表を見ると、急に胸の奥が冷えた。
「一人で、ですか」
「レースは、いつも一人で乗るものだから」
三島の声は冷たくなかった。
ただ、事実だった。
「教えることはできる。でも、水面の上で選ぶのは風見さん」
灯は、前にも聞いたその言葉をもう一度受け取った。
今度は、前より重かった。
次の開催には、三島はいない。
レース前に「広い」と言ってくれる人はいない。
レース後すぐに、赤を入れてくれる人もいない。
一マークで迷った時、三島の声は聞こえない。
見る二艇を決めるのも。
進路を選ぶのも。
負けを言葉にするのも。
次は、自分でやらなければならない。
灯は、不安を押し込めるようにノートを見た。
デビュー節。
四つの六着。
次の課題。
見る二艇を決める。
その二艇が動く前から、艇を置く準備をする。
三島は言った。
「全部できなくていい」
灯は顔を上げた。
「え?」
「次の開催で全部できるとは思ってない」
三島は淡々としていた。
「でも、一つは持って帰って」
「一つ……」
「六着でもいい。五着でもいい。着順じゃなくていい。自分で決めて、自分で書いたものを一つ持って帰る」
灯は、その言葉をノートに書いた。
自分で決めて、自分で書いたものを一つ持って帰る。
「それを持って帰ってきたら、見ますか?」
灯が聞くと、三島は少しだけ口元を緩めた。
「見せに来るなら」
灯は、深く頷いた。
「はい」
少しだけ、胸の奥に熱が戻った。
三島がいないのは怖い。
でも、完全に切り離されたわけではない。
次の水面で、自分で見て、自分で決めて、自分で書く。
それを持って帰る。
そこで初めて、三島に見てもらえる。
「風見さん」
「はい」
「次は、六コースをただ遠い場所だと思わないこと」
灯は目を瞬かせた。
「六コースを……」
「デビュー節は、全部外だった。だから怖い場所になってると思う」
図星だった。
六コース。
押し出された場所。
届かなかった場所。
何もできなかった場所。
灯の中では、六コースはすでにそういう場所になりかけていた。
三島は続けた。
「でも、外だから見えるものもある」
灯は黙って聞く。
「内からは見えない水面もある。外からだから見える動きもある」
「それを、使うんですか」
「いつかは」
三島は言った。
「今はまず、外で何を見るかを決める」
灯は、ノートに書き足した。
六コースは、遠いだけじゃない。
外からだから見えるものがある。
その時、掲示板の次開催出場予定選手欄に、一つの名前が目に入った。
轟朱音。
灯は、その名前をまだ知らなかった。
けれど、近くにいた選手が小さく言った。
「轟もいるのか」
別の選手が笑う。
「また大外だろうな」
大外。
その二文字だけが、灯の耳に残った。
大外。
自分が何もできなかった場所。
そこを、何かの意味を持って呼ばれる選手がいる。
灯は、少しだけその名前を見つめた。
轟朱音。
まだ知らない名前。
まだ知らない水面。
三島がその視線に気づいた。
「気になる?」
「少し……」
「見ておくといいよ」
「どんな選手なんですか」
三島は、少し考えてから言った。
「外を選べる人」
灯は、息を呑んだ。
外を選べる人。
自分は、外へ出された。
その人は、外を選ぶ。
同じ六コースでも、意味が違う。
灯は、ノートの余白にその名前を書いた。
轟朱音。
大外。
外を選べる人。
書いた文字を見て、胸の奥が少しざわついた。
怖さではない。
不安でもない。
知らないものに触れる前の、落ち着かない感覚だった。
その日の夕方。
開催が終わり、レース場の空気が少しずつ静かになっていった。
観客席から人が減っていく。
モニターの音も小さくなる。
水面には、夕方の光が落ちている。
デビュー節の最初に見たプロの水面とは違って見えた。
怖い場所。
遠い場所。
何もできない場所。
それはまだ変わらない。
けれど、それだけではなくなっていた。
月城澪が水面を動かした。
三島沙耶が勝ちに行って負けを書いた。
そして自分は、四つの六着をノートに残した。
プロの水面は、灯を待ってはくれない。
負けても、次のレースが来る。
六着でも、次の斡旋が来る。
その水面に、また自分の名前が載る。
灯は、最後にもう一度ノートを開いた。
第2章の最後のページ。
そう決めて、ゆっくり書いた。
デビュー節。
全走六コース。
全走六着。
成績表には、六着が四つ並んでいるだけ。
けれど、ノートには四つの負けが残った。
弾かれた負け。
選べなかった負け。
外へ出された負け。
決めたけど届かなかった負け。
次は、三島さんがいない。
自分で見る。
自分で決める。
自分で書く。
灯は、そこでペンを止めた。
少し迷ってから、最後に一行を足す。
六コースは、まだ怖い。
でも、もうただ怖いだけの場所ではない。
ノートを閉じる。
鞄にしまう。
立ち上がる。
掲示板には、次開催の斡旋表が貼られている。
風見灯の名前がある。
三島沙耶の名前はない。
そして、知らない名前が一つある。
轟朱音。
大外。
外を選べる人。
灯は、その名前をもう一度見た。
デビュー節は終わった。
何も飾れなかった。
全走六コース。
全走六着。
けれど、その四つの六着は、もう同じ負けではなかった。
そして次の水面には、三島沙耶はいない。
風見灯は初めて、自分一人で考えるプロの水面へ向かうことになった。




