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第1話 三島のいない開催

次の開催地へ向かう朝。

灯は、駅のホームでノートを開いていた。

鞄の中には、整備道具と着替え。

それから、養成所時代から使っているノートが入っている。

ページの端は少し擦れていた。

何度も開き、何度も書き、何度も閉じたからだった。

デビュー節。

全走六コース。

全走六着。

成績表には、それだけが残った。

六着。

六着。

六着。

六着。

どこから見ても、何も飾れない数字だった。

勝っていない。

舟券にも絡んでいない。

見せ場もほとんどない。

プロ初節の風見灯は、ただ後ろを走った新人だった。

けれど、ノートには違う言葉が残っている。

一走目。

見えた道に入ったが、波に弾かれた。

二走目。

見るものが増えすぎて、選べなかった。

三走目。

五号艇でも、進入で外へ出され、居場所を守れなかった。

四走目。

見る二艇は決めた。

けれど、そこへ艇を置く準備が遅れた。

全部、六着。

でも、全部同じ六着ではなかった。

灯はそのページを指先でなぞった。

三島沙耶に言われた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。

準備では六人を見る。

本番では二艇を見る。

自分の進路を作る艇と、消す艇を見る。

迷ったら、その二艇に戻る。

灯は、新しいページを開いた。

一番上に、ゆっくりと書く。

次開催。

その下に、もう一行。

自分で考える。

ペン先が止まった。

その言葉は、思っていたより重かった。

前の節では、三島がいた。

レース前に聞けた。

レース後にノートを見てもらえた。

間違っているところには赤が入った。

「広い」

「決めつけが早い」

「今回は選べなかった負け」

短く、正確に、逃げ場のない言葉をくれた。

それは怖かった。

でも、ありがたかった。

自分がどこで間違えたのかを、誰かが見てくれていた。

けれど、次開催の斡旋表に、三島沙耶の名前はなかった。

三島は別の場。

月城澪もいない。

あの四カドから水面を動かしたA1レーサーも、ここにはいない。

灯は一人で、次の水面へ行く。

「レースは、いつも一人で乗るものだから」

出発前、三島はそう言った。

冷たくはなかった。

ただ、事実だった。

「教えることはできる。でも、水面の上で選ぶのは風見さん」

灯は、その言葉をノートに書き写していた。

何度も見返していた。

けれど今、その意味がようやく重くなってきた。

水面の上では、誰も代わりに選んでくれない。

一マークで迷った時、三島の声は聞こえない。

ノートに赤を入れてくれる人も、すぐそばにはいない。

見る艇を決めるのも。

進路を選ぶのも。

負けた理由を書くのも。

次は、自分でやらなければならない。

電車がホームへ入ってきた。

灯はノートを閉じ、鞄にしまった。

車内に乗り込む。

窓の外の景色が、ゆっくり流れ始める。

レース場へ向かう道。

それは、養成所へ向かう道とも、デビュー節へ向かう道とも違っていた。

初めてではない。

でも、慣れてもいない。

一度プロの水面で負けたからこそ、余計に怖かった。

知らない怖さではない。

知ってしまった怖さだった。

外へ出される怖さ。

一マークで道が消える怖さ。

見えているのに間に合わない怖さ。

六着が、数字として残る怖さ。

灯は、窓に映る自分の顔を見た。

まだ弱い。

まだ遅い。

まだ何もできていない。

それでも、次の出走表にはまた自分の名前が載る。

プロの水面は、負けたからといって待ってはくれない。

次の開催地に着いたのは、昼過ぎだった。

荷物を持ってレース場へ入ると、空気が違った。

前の場とは匂いが違う。

水面の光り方も違う。

風の入り方も違う。

同じボートレース場なのに、同じ水面ではなかった。

灯は受付を済ませ、控室へ向かった。

初めての場ではない。

それでも、知らない選手の顔が多い。

A1。

A2。

B1。

B2。

級別の文字が、また現実のものとして灯の前に並ぶ。

誰かが笑っている。

誰かがモーターの話をしている。

誰かが出走表を見ながら、短く言葉を交わしている。

その中に三島はいない。

灯は、それだけで少し心細くなった。

控室の隅に荷物を置き、ノートを開く。

まずは、出走表。

自分の名前を探す。

初日。

風見灯。

六号艇。

灯は、少しだけ息を吐いた。

また、六号艇。

驚きはなかった。

新人B2。

全走六着で終えたばかりの選手。

内枠をもらえる理由は、まだほとんどない。

六号艇。

おそらく、六コース。

また、大外。

灯は、ノートに書いた。

初日。

六号艇。

六コース想定。

見る二艇を決める。

そこで、手が止まった。

誰を見る。

一号艇か。

四号艇か。

五号艇か。

自分の前にいる艇は、五号艇。

カドから攻めるのは、四号艇かもしれない。

三号艇が握れば、外に波が来る。

二号艇が差せば、内の水面が残る。

一号艇が流れれば、外まで波が広がる。

考え始めると、また全部が見えてきた。

全部を見ようとしている。

灯は、自分で気づいてペンを止めた。

それは、二走目の負け方だった。

見るものが増えすぎて、選べなかった負け。

同じことをしている。

灯は深く息を吐いた。

準備では六人を見る。

本番では二艇を見る。

なら、今は準備だ。

六人を見ていい。

ただし、本番で戻る二艇を決めなければならない。

灯は、出走表をもう一度見た。

一号艇。

B1。

イン実績はそこそこ。

ただ、今節のモーターはまだ分からない。

二号艇。

A2。

差し主体。

三号艇。

B1。

スタートに少しムラ。

四号艇。

A2。

カドなら攻めるタイプ。

五号艇。

B1。

展開待ち。

六号艇。

自分。

灯は、ゆっくり書いた。

自分の進路を作る艇。

五号艇。

自分の進路を消す艇。

四号艇。

四号艇が攻め切れば、五号艇の動きが変わる。

五号艇が内へ切れば、自分の前に波ができる。

六コースの灯に一番近いのは、その二艇だと思った。

正しいかどうかは分からない。

三島がいれば、赤が入るかもしれない。

「広い」と言われるかもしれない。

「決めつけが早い」と言われるかもしれない。

でも、今は自分で決めるしかない。

灯は、ノートに線を引いた。

本番で迷ったら、四号艇と五号艇に戻る。

書いた瞬間、少しだけ胸が落ち着いた。

正解だからではない。

決めたからだった。

その時、背後から声がした。

「すごい書くね」

灯は肩を跳ねさせた。

振り返ると、一人の女性レーサーが立っていた。

年齢は灯より少し上に見える。

髪は短めで、表情は明るい。

けれど、軽いだけの雰囲気ではなかった。

整備着の袖を少しまくり、片手に新聞を持っている。

「あ、ごめん。驚かせた?」

「いえ。すみません」

灯は慌てて立ち上がろうとした。

その人は、手で軽く制した。

「いいよいいよ。そんな固くならなくて」

灯は、それでも頭を下げた。

「風見灯です。よろしくお願いします」

「知ってる」

その人は少し笑った。

「デビュー節、全部六コースだった子でしょ」

灯は、胸が少し痛くなった。

知られていた。

良い意味ではない。

全走六コース。

全走六着。

その結果は、やはり人の目に入っている。

灯が言葉に詰まると、その人はすぐに言った。

「あ、嫌な言い方だったらごめん。馬鹿にしたわけじゃないから」

「いえ……事実なので」

灯は小さく答えた。

すると、その人は少しだけ目を細めた。

「事実って言えるなら、大丈夫そう」

灯は顔を上げた。

「私は日向まどか。B1。風見ちゃんより少しだけ先輩」

「B1……」

「うん。ちょっと前までB2だったから、風見ちゃんの気持ちは分かるよ」

まどかは、あっさりそう言った。

あまりに自然だったので、灯は反応に困った。

「強いわけじゃないよ」

まどかは笑った。

「でも、B2を抜けるために何を減らせばいいかは、少し知ってる」

灯は、その言葉に引っかかった。

「何を、減らす……」

「六着」

まどかは、軽く言った。

けれど、その言葉は灯の胸にまっすぐ刺さった。

六着。

デビュー節で四つ並んだ数字。

何度見ても重かった数字。

「B1に上がるのって、派手に勝つことだけじゃないんだよね」

まどかは、新聞を畳みながら言った。

「もちろん勝てるなら勝った方がいい。でも、勝てないレースで六着を減らすことも大事」

灯は、黙って聞いた。

勝てないレースで、六着を減らす。

それは、月城澪のように水面を動かす話ではない。

三島沙耶のように準優を勝つ話でもない。

もっと近い。

もっと現実的な話だった。

「風見ちゃん、ノート見てもいい?」

灯は少し迷った。

けれど、まどかの目に嫌な感じはなかった。

灯はノートを少しだけ向けた。

まどかは、最新のページを覗く。

初日。

六号艇。

六コース想定。

見る二艇。

四号艇と五号艇。

まどかは、小さく頷いた。

「いいんじゃない」

灯は驚いた。

「いいんですか」

「少なくとも、全部見ようとしてない」

まどかは新聞で自分の肩を軽く叩いた。

「外ってさ、全部見えるんだよね」

灯は黙って聞いた。

「一号艇も見える。二号艇も見える。三号艇も、四号艇も、五号艇も見える。風も波も、前の艇の動きも見える」

まどかは少しだけ苦笑した。

「で、全部見てるうちに、何もできなくなる」

灯は、胸の奥を突かれた気がした。

第2章の自分そのものだった。

見えていたのに、選べなかった。

「私もよくやった」

まどかは言った。

「B2の頃は特に」

「日向さんも……ですか」

「うん」

まどかは、変に隠さなかった。

できないことを、できなかったと言う。

弱かったことを、弱かったと言う。

それは卑屈ではなかった。

むしろ、妙に強く見えた。

「でも、一つだけ決めると変わる」

「一つだけ……」

「今日は一艇だけ前に置く、とか」

灯は、ノートを見た。

一艇だけ前に置く。

その言葉は、今の灯には現実的すぎて、逆に重かった。

勝つ。

三着に入る。

舟券に絡む。

そういう遠い目標ではない。

六着を五着にする。

一艇だけ前に置く。

それなら、今の自分にも届くかもしれない。

いや、届かないかもしれない。

でも、目指す場所としては見える。

「勝つのはまだ遠いよ」

まどかは、灯の考えを読んだように言った。

「でも、六着を五着にすることは、今日からできる」

灯は、その言葉をすぐにノートへ書いた。

六着を五着にすることは、今日からできる。

まどかはそれを見て、少し笑った。

「本当に書くんだ」

「すみません」

「謝らなくていいって。書けるのは武器だよ」

灯は、ペンを止めた。

武器。

自分のノートが、武器になる。

そんなふうに言われたのは初めてだった。

三島は、ノートを準備だと言った。

まどかは、武器だと言った。

どちらも、たぶん同じことなのだと思った。

その時、控室の別の場所が少しざわついた。

灯が顔を上げると、出走表の前に何人かが集まっている。

まどかもそちらを見た。

「ああ、来てるんだ」

「誰がですか」

灯が聞くと、まどかは新聞を軽く折った。

「轟朱音さん」

その名前に、灯は首を傾げた。

聞いたことはある気がする。

でも、まだはっきりとは知らない。

まどかは続けた。

「A2のアウト屋」

灯は、反射的に聞き返した。

「アウト屋……?」

「外が好きな人」

まどかは簡単に言った。

「五号艇でも六号艇でも、場合によってはもっと内でも、外へ出る。自分から大外を選ぶ人」

灯は、言葉を失った。

自分から外へ出る。

自分にとって六コースは、出された場所だった。

守れなかった場所。

届かなかった場所。

何もできなかった場所。

そこへ、自分から行く選手がいる。

しかも、A2。

外を選んで、そこまで来た選手。

「どうして……外に行くんですか」

灯が呟くと、まどかは少しだけ笑った。

「それは、私より本人のレース見た方が早いと思う」

灯は、出走表の前に視線を向けた。

轟朱音。

名前だけが、目に残った。

A2。

アウト屋。

大外。

その言葉が、灯の中で揺れる。

私は、六コースに出された。

その人は、六コースを選ぶ。

同じ外なのに、意味がまったく違う。

まどかが、灯のノートを軽く指した。

「風見ちゃん」

「はい」

「今日は、まず自分のレースね」

灯は、はっとした。

轟朱音。

アウト屋。

気になる。

気になって仕方ない。

でも、今日の自分の出走もある。

六号艇。

六コース想定。

また、外。

まどかは言った。

「外の上手い人を見るのも大事。でも、自分が外で何をするか決めないと、また流れるよ」

灯は、ノートに視線を戻した。

四号艇。

五号艇。

見る二艇。

今日、自分が戻る場所。

「はい」

灯は頷いた。

「今日は、四号艇と五号艇を見ます」

「うん」

「それで、一艇だけ前に置くことを考えます」

まどかは、少しだけ満足そうに笑った。

「いいと思う」

灯はペンを握った。

三島はいない。

でも、三島の言葉はある。

まどかがいる。

でも、まどかが代わりに走ってくれるわけではない。

轟朱音という、まだ知らない外の選手がいる。

でも、まずは自分の六コースだ。

灯は、新しいページの下に、もう一行を書いた。

今日の目標。

一艇だけ前に置く。

それは、小さな目標だった。

月城澪のように水面を動かすことではない。

三島沙耶のように優勝戦で差すことでもない。

轟朱音のように外を武器にすることでもない。

ただ、一艇だけ前に置く。

けれど、全走六着で終わった風見灯にとって、それは十分すぎるほど大きな目標だった。

控室のモニターでは、次のレースの展示が始まろうとしていた。

水面が光っている。

風が少しだけ吹いている。

六艇が、ピットを離れる準備をしている。

灯はノートを閉じた。

三島沙耶のいない開催。

自分で考えなければならない水面。

B1の日向まどか。

A2のアウト屋、轟朱音。

そして、外から始まる次の一走。

怖さは消えない。

不安も消えない。

けれど、見る場所は決めた。

戻る場所も決めた。

あとは、水面の上で選ぶだけだった。

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