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第2話 1艇でも前へ

展示の時間が近づいていた。

控室のモニターには、次のレースの出走表が映っている。

六号艇。

風見灯。

級別、B2。

その文字を見て、灯は小さく息を吸った。

また六号艇。

おそらく、六コース。

デビュー節と同じだった。

外から見る水面。

外から届かなかった水面。

外から何もできなかった水面。

けれど、今日は一つだけ違う。

灯はノートを開いた。

今日の目標。

一艇だけ前に置く。

その文字を、もう一度見た。

勝つことではない。

三着に入ることでもない。

舟券に絡むことでもない。

ただ、一艇だけ前に置く。

それは、月城澪のように水面を動かすこととは違う。

三島沙耶のように、優勝戦で差しを入れることとも違う。

もっと小さい。

もっと近い。

けれど、風見灯にとっては、十分すぎるほど大きい目標だった。

「固まってるね」

横から声がした。

日向まどかだった。

B1。

少し前までB2だった、現実を知っている先輩。

まどかは灯のノートを覗き込んで、軽く頷いた。

「一艇だけ前へ。いいじゃん」

灯は、少しだけ不安になって聞いた。

「本当に、それでいいんでしょうか」

「いいよ」

まどかはすぐに答えた。

「むしろ、今はそれでいい」

「でも、レースなのに……勝ちに行かないみたいで」

言った瞬間、灯は自分で引っかかった。

勝ちに行かない。

それは違う気がした。

優勝戦で三島は、最後まで勝ちに行っていた。

届かなくても、二着を守るだけではなく、勝つための道を探していた。

それを見たばかりだった。

一艇だけ前に置くという目標は、勝ちに行くことから逃げているのだろうか。

まどかは、灯の迷いを見たように少し笑った。

「一艇だけ前に置くって、勝ちに行かないって意味じゃないよ」

灯は顔を上げた。

「え?」

「今の自分が勝ちに行くために、まず一艇前に置くってこと」

まどかの声は軽かった。

けれど、その言葉はまっすぐだった。

「いきなり一着を取ろうとして、全部見て、全部取りに行って、結局六着。それよりは、一艇だけでも前に置く。その積み重ねで、B2を抜けるんだと思う」

灯は、ノートにその言葉を書いた。

今の自分が勝ちに行くために、一艇前に置く。

「六着を減らすって、地味なんだよ」

まどかは言った。

「でも、地味なことをやらないと、ずっと六着が並ぶ」

灯は、デビュー節の成績を思い出した。

六着。

六着。

六着。

六着。

成績表には、同じ数字しか残らなかった。

今日も、同じ数字が増えるかもしれない。

けれど、同じ六着にしないために、自分で決める。

灯は、ノートの下にもう一度書いた。

見る二艇。

四号艇。

五号艇。

自分の進路を消す艇。

四号艇。

自分の進路を作る艇。

五号艇。

四号艇が攻めるか。

五号艇が内へ切るか。

今日は、そこに戻る。

「行ってきます」

灯が言うと、まどかは軽く手を振った。

「行ってらっしゃい。全部見ようとしないこと」

「はい」

「迷ったら?」

灯は、ノートを閉じながら答えた。

「四号艇と五号艇に戻ります」

まどかは満足そうに頷いた。

「それでいい」

展示航走。

灯は六号艇に乗り込んだ。

エンジンの振動が身体に伝わる。

ピットを離れる前の、この短い時間が、いつも一番胸を締めつける。

怖さは消えていない。

むしろ、プロの水面を知った分だけ、怖さははっきりしていた。

外へ出される怖さ。

一マークで道が消える怖さ。

見えたのに届かない怖さ。

六着が、また増える怖さ。

それでも今日は、ただ怖がっているだけではなかった。

見る場所は決めた。

戻る場所も決めた。

六艇がピットを離れる。

一号艇が内へ向かう。

二号艇が続く。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

そして、灯。

進入は枠なり。

やはり、六コース。

大外。

灯は、外から水面を見た。

全部が見える。

一号艇の起こし。

二号艇の艇の向き。

三号艇の位置。

四号艇のカドの角度。

五号艇の構え。

自分の艇の伸び。

水面の波。

風。

全部が見える。

全部が気になる。

けれど、灯は自分に言い聞かせた。

四号艇。

五号艇。

今日は、そこに戻る。

展示の一マーク。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇がカドから攻める。

五号艇が、その内側を見ている。

灯は、四号艇と五号艇を見た。

四号艇の攻めは鋭い。

けれど、内を完全に潰すほどではない。

五号艇は外を握るのではなく、内へ切り込む気配がある。

その後ろ。

灯の前に、水面が一瞬だけ開くように見えた。

ここ。

そう思った。

しかし、展示の灯はそこへ入れなかった。

艇を向けようとした時には、五号艇の波が残っていた。

外へ流れる。

出口で遅れる。

それでも、以前とは違った。

何も選べなかったわけではない。

四号艇を見た。

五号艇を見た。

その後ろを見た。

けれど、艇を置くのが遅かった。

展示を終え、控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

展示。

六コース。

四号艇、攻める。

五号艇、内へ切る。

その後ろに入る形は見えた。

でも、艇を向けるのが遅い。

五号艇の波が残る。

灯は、ペン先を止めた。

見る二艇は決めた。

でも、艇を置く準備が遅れた。

同じ負け方を繰り返すのかもしれない。

その不安が胸に浮かんだ。

「書けてる?」

まどかが近づいてきた。

灯はノートを見せた。

まどかは短く読んで、頷いた。

「いいんじゃない」

「でも、また遅れてます」

「遅れてるって分かってるなら、展示の意味あるよ」

まどかは、あっさり言った。

「本番は、展示より少し早く決める。それだけ」

灯は顔を上げた。

「少し早く……」

「うん。全部変えようとしなくていい。展示で遅れたなら、本番では半艇分だけ早く見る。半秒じゃなくていい。半艇分」

その言い方は、三島とは違っていた。

三島は、原因を正確に切る。

まどかは、次にやることを小さくする。

灯には、それが今はありがたかった。

「半艇分、早く」

灯はノートに書いた。

五号艇が内へ切る前に、準備。

四号艇が攻め始めた時点で、艇を置く。

本番の時間が来た。

係員の声が響く。

「出場選手、ピットへお願いします」

灯はノートを閉じた。

指先が少し冷たい。

でも、デビュー節とは違う。

何を見ればいいか分からない怖さではない。

決めたものを本当にできるかどうかの怖さだった。

ピットへ向かう途中、モニターから実況の声が聞こえた。

六号艇、風見灯。

その名前は、まだ場内に何かを起こす名前ではない。

誰かが期待しているわけでもない。

舟券の中心でもない。

ただ、六号艇にいるB2の新人。

それでも、灯にとっては自分の名前だった。

自分で決めて、自分で走る名前だった。

本番。

六艇がピットを離れる。

進入は枠なり。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

六号艇、灯。

大外。

六コース。

起こし。

エンジン音が変わる。

艇が前へ出る。

灯はスリットを見た。

大きく遅れてはいない。

けれど、伸びているわけでもない。

内の艇が一マークへ向かっていく。

全部が見える。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

また、全部が視界に入ってくる。

灯は一瞬、三号艇も見たくなった。

三号艇が握るなら、外の波が変わる。

一号艇が流れるなら、外まで水面が広がる。

二号艇の差しも気になる。

でも、戻った。

四号艇。

五号艇。

今日はここに戻る。

四号艇がカドから攻める。

五号艇がその内を見ている。

一マーク。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇が攻める。

五号艇が内へ切る。

灯は、五号艇が切り込む前に艇を向けようとした。

展示より、少し早く。

半艇分だけ早く。

ここ。

そう思った。

だが、本番の水面は展示より速かった。

四号艇の波が思ったより外へ残る。

五号艇が内へ入る角度も、展示より深い。

灯は艇を向けた。

けれど、まだ遅い。

五号艇の後ろに入るには、半艇身足りない。

艇が波に当たる。

跳ねる。

出口で失速する。

また、六番手。

バックストレッチに出た時、前には五艇がいた。

胸が沈む。

また六着。

その言葉が頭をよぎった。

けれど、灯はすぐに視線を戻した。

まだ終わっていない。

一艇だけ前に置く。

一マークでできなかった。

なら、二マーク。

前の五号艇を見る。

五号艇は一マークで内へ入った分、出口で少し重そうだった。

灯は、外からその動きを見る。

二マーク。

五号艇が少し外へ膨らむ。

内に小さな隙間が見えた。

灯は艇を落とすか、外を回すか、一瞬迷った。

ここで迷えば終わる。

これまでなら、迷ったまま水面が閉じていた。

灯は五号艇だけを見た。

一艇だけ。

五号艇だけ。

内へ落とす。

灯はハンドルを切った。

艇が内へ向く。

しかし、入り切れない。

五号艇の引き波が残る。

灯の艇はそこで少し跳ねた。

出口で伸びない。

五号艇の後ろに届きかけて、届かない。

二周目に入っても、順位は変わらなかった。

六番手。

それでも、灯は前を見続けた。

五号艇。

一艇だけ前に置く。

二周一マーク。

五号艇のターンが少し大きくなる。

灯は、今度こそ内を見た。

けれど、距離が足りない。

艇を向ける準備も遅い。

入る前に、道が消える。

二周二マーク。

三周目。

最後まで追った。

追っただけだった。

実況は、前の争いを伝えている。

灯の名前は、ほとんど呼ばれない。

ゴール。

六着。

また、六着だった。

エンジンを止めた瞬間、身体から力が抜けた。

目標は、一艇だけ前に置くことだった。

できなかった。

四号艇と五号艇を見ることはできた。

迷ったら戻ることもできた。

けれど、五号艇を前から消すことはできなかった。

結果は、また六着。

数字は変わらない。

灯は、艇を降りて控室へ戻った。

誰かに何かを言われたわけではない。

怒られたわけでもない。

責められたわけでもない。

それが、逆に静かに刺さった。

六着は、プロの世界ではすぐに流れていく。

誰かの記憶に強く残ることもない。

次のレースが始まれば、場内の目はそちらへ移る。

だからこそ、自分で残さなければならない。

灯は控室の隅に座り、ノートを開いた。

三島はいない。

赤を入れてくれる人はいない。

だから、自分で書く。

六号艇。

六コース。

六着。

見る二艇。

四号艇と五号艇。

四号艇が攻めた。

五号艇が内へ切った。

そこは見えた。

展示より早く艇を向けた。

でも、五号艇の後ろに入るには遅かった。

二マークで五号艇を見た。

内へ落とそうとした。

でも、引き波で跳ねた。

一艇だけ前に置けなかった。

灯は、そこまで書いて手を止めた。

悔しい。

悔しいが、デビュー節の悔しさとは少し違った。

何もできなかった悔しさではない。

決めたのに、できなかった悔しさだった。

灯は、最後に一行を書いた。

自分で決めた六着。

その文字を見た時、胸の奥が少しだけ熱くなった。

良い結果ではない。

胸を張れる成績ではない。

でも、逃げた六着ではなかった。

誰かに言われた通りに書いた六着でもなかった。

自分で決めて、自分で失敗した六着。

「書けた?」

声がして、灯は顔を上げた。

まどかだった。

灯はノートを差し出した。

「また、六着でした」

「うん。見てた」

まどかは、ノートを読んだ。

灯は、少しだけ身構えた。

三島のように赤が入るわけではない。

それでも、誰かに読まれるのは緊張する。

まどかは最後まで読んで、言った。

「いい六着じゃない?」

灯は目を瞬かせた。

「いい六着……ですか」

「成績としては良くないよ」

まどかはすぐに言った。

「六着は六着。そこは変わらない」

灯は小さく頷いた。

「はい」

「でも、次に使える六着」

灯は、ノートを見た。

次に使える六着。

まどかは、ノートの一文を指した。

「今日は一艇前に置けなかった。でも、前に置きたい一艇は見えてた」

灯は黙った。

「それって、前よりかなり違うと思うよ」

「でも、届きませんでした」

「うん。届かなかった」

まどかは、そこも否定しない。

「じゃあ次は、もう少し早く置く。あるいは、二マークで無理に内へ落としすぎない。そうやって次を作る」

灯は、まどかを見た。

「六着でも、次を作れるんですか」

「作るんだよ」

まどかは言った。

「六着を減らす前に、まず六着の中身を変える」

その言葉に、灯は息を止めた。

六着を減らす前に、六着の中身を変える。

三島は言った。

全部同じ六着ではない。

まどかは言った。

六着の中身を変える。

言い方は違う。

けれど、同じ方を向いている気がした。

灯は、その言葉をノートに書いた。

六着を減らす前に、六着の中身を変える。

まどかは軽く笑った。

「また書いた」

「すみません」

「だから謝らなくていいって」

灯は、少しだけ笑った。

その時、モニターの表示が切り替わった。

次のレースの出走表。

五号艇。

轟朱音。

A2。

その名前を見た瞬間、灯の視線が止まった。

控室で聞いた名前。

アウト屋。

大外。

外を選べる人。

まどかもモニターを見た。

「次、轟さん出るよ」

灯は、画面を見つめた。

「五号艇ですね」

「うん」

「五コースですか」

灯が聞くと、まどかは少し笑った。

「たぶん、外行く」

「五号艇なのに、ですか」

「うん」

まどかは、はっきりと言った。

「あの人は、自分で外を選ぶから」

灯は、モニターに映る名前を見つめた。

轟朱音。

A2。

アウト屋。

自分が出され続けた六コースを、選ぶ人。

今日、灯はまた六コースで六着だった。

自分で決めた。

でも、届かなかった。

その外を、武器にする選手がいる。

灯は、ノートの新しい余白に名前を書いた。

轟朱音。

五号艇。

たぶん、六コース。

外を選ぶ人。

ペン先が止まる。

その意味を、灯はまだ知らなかった。

けれど、見なければならないと思った。

自分が怖がっている場所を。

自分が何もできなかった場所を。

自分から選ぶ人が、何を見るのか。

控室のモニターには、次のレースの展示準備が映っている。

灯はノートを閉じなかった。

今度は、自分のレースではない。

けれど、外を見るための水面が、そこにあった。

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