最終話 青で届かせる
A2の線が見えてから、灯の水面は少しだけ変わった。
大きく変わったわけではない。
急に強くなったわけでもない。
1着を量産する選手になったわけでもない。
ただ、数字の見方が変わった。
B1に上がったばかりの頃、灯は下を見ていた。
落ちないための数字。
崩れないための数字。
5着を重ねないこと。
6着を取らないこと。
4着で止めること。
その線は、足元にあった。
でも今、A2の線は上にある。
追いかける線。
届きたい線。
欲しがれば崩れる線。
見ないふりをすれば、届かない線。
灯は、毎日ノートに同じような言葉を書いた。
数字を見る。
でも、数字で走らない。
水面を見る。
でも、欲しい着から目を逸らさない。
A2が欲しい。
でも、A2を欲しがって水面を間違えない。
その言葉は、簡単に見えて、毎走難しかった。
1号艇で2着を取った日がある。
悔しかった。
でも、3着に落とさなかった2着だった。
6号艇で5着に沈んだ日もある。
悔しかった。
でも、6着にしなかった5着だった。
3号艇で1着を取った日もある。
嬉しかった。
でも、ノートにはこう書いた。
勝てた。
でも、勝ち方はまだ荒い。
出口で半艇身、重い。
半艇身。
その言葉は、灯の中でずっと残っていた。
オールレディースの予選最終走。
4号艇。
青。
1着条件。
半艇身届かず、準優に届かなかった水面。
あの日から、灯は4号艇を見るたびに、その距離を思い出した。
大きく届かなかったわけではない。
だからこそ、痛かった。
見えた。
入った。
追った。
それでも届かなかった。
その全部が、青の中に残っている。
期末が近づくにつれ、灯の数字は静かに張りつめていった。
勝率はA2圏内にあった。
けれど、安全ではなかった。
一走崩れれば、下がる。
6着を取れば、また線は遠くなる。
1着を取れば、少し上へ押し上げられる。
灯は、数字を見た。
そして、すぐにノートを閉じた。
見すぎると、手が硬くなる。
見なければ、勝負駆けができない。
両方見る。
それが、今の灯の仕事だった。
その節は、期末最後の斡旋だった。
4日間開催。
灯は初日から崩れなかった。
初日1走目。
2号艇で2着。
差しは届かなかった。
でも、外から来た5号艇を抑えた。
ノートには書いた。
2号艇。
2着。
勝てなかった。
でも、落とさなかった。
初日2走目。
5号艇で4着。
上は遠かった。
でも、6着の水面を早く消した。
2日目。
1号艇で1着。
逃げた。
差し場を残しすぎず、出口を重くしなかった。
レース後、灯は小さく書いた。
1号艇。
1着。
逃げながら、後ろの水面を見る。
少しだけ、榊原さんの1号艇に近づいた。
2日目後半。
6号艇で3着。
大外からの3着。
5着の水面ではなかった。
4着で十分な日でもなかった。
2周1マークで4号艇の出口が重くなった瞬間、灯はそこへ艇を置いた。
3着を取り切った。
3日目。
3号艇で2着。
勝てる水面は見えた。
でも、1号艇の出口が強かった。
無理に入れば4着だった。
灯は2着を取った。
その夜、得点率ランキングを見て、灯は初めて自分の名前を上の方に見つけた。
予選上位。
優出圏内。
A2の線だけではない。
もうひとつ、別の線が見えた。
優勝戦の線。
灯は、ノートに書いた。
見えたものを、なかったことにしない。
でも、欲しがって水面を間違えない。
この開催は一般戦。
予選上位6人が優勝戦へ乗る。
灯は、そこに届きかけていた。
3日目の最終走。
4号艇。
青。
灯は、その出走表を見た時、胸の奥が小さく鳴った。
また、この色だ。
3日目の4号艇は、勝負駆けの枠だった。
ここで大きく落とせば、優出は遠くなる。
ここで残せば、優勝戦が見える。
1着が欲しい。
でも、1着だけを見れば崩れる。
灯は展示で、勝つ水面を見た。
本番でも入った。
ただ、そこで無理に深くならなかった。
出口を見る。
後ろを見る。
前を見る。
結果は2着。
勝てなかった。
けれど、優出に必要な2着だった。
レース後、掲示板に灯の名前が載った。
予選4位。
優勝戦。
4号艇。
灯は、しばらく動けなかった。
優勝戦。
自分の名前が、その6人の中にある。
しかも、4号艇。
青。
オールレディースで半艇身届かなかった色。
Fを切った色。
B1として初めて勝った色。
そして今度は、初めての優勝へ届くかもしれない色。
灯は、掲示板を見ながら、静かに息を吸った。
嬉しさより先に、怖さが来た。
いつもそうだった。
届くかもしれない線は、怖い。
遠いものは夢でいられる。
近づいたものは、失う怖さを連れてくる。
その夜、沙耶から連絡が来た。
見た。
灯は、短く返した。
優勝戦に乗りました。
沙耶からの返事はすぐだった。
4号艇だね。
灯は、その文字を見て、少しだけ笑った。
はい。
沙耶から、続けて届いた。
青で届かなかった日、覚えてる?
灯は、ノートを見た。
あのページは、今もすぐ開ける場所にある。
覚えています。
沙耶の返事は短かった。
じゃあ、明日は忘れないで。
でも、引きずらないで。
灯は、その文字を何度も読んだ。
忘れない。
でも、引きずらない。
難しい言葉だった。
忘れれば、あの日の半艇身が軽くなる。
引きずれば、身体が硬くなる。
灯は、ノートを開いた。
優勝戦。
4号艇。
青。
忘れない。
でも、引きずらない。
あの日の半艇身を、今日の出口にする。
翌日。
優勝戦の出走表は、何度見ても変わらなかった。
1号艇、榊原理央。A2。
2号艇、久世航平。A2。
3号艇、片瀬梨央。A2。
4号艇、風見灯。B1。
5号艇、黒瀬真帆。A2。
6号艇、森川千夏。B1。
榊原理央が1号艇。
沙耶の師匠。
負け方を教えてくれた人。
欲しい着と取るべき着の違いを教えてくれた人。
そして、今日は優勝戦の1号艇。
灯の前にいる。
2号艇は久世航平。
差し屋。
灯が1号艇で差された相手。
3号艇は片瀬梨央。
欲しい顔をしている2号艇は4カドから見やすい、と笑った選手。
5号艇は黒瀬真帆。
オールレディースで半艇身届かなかった相手。
6号艇は森川千夏。
外からでも残す選手。
簡単な相手は、ひとりもいなかった。
それでも、灯の名前は4号艇にある。
優勝戦。
青。
灯は、ノートに展開を書いた。
1号艇、榊原さん。
逃げ。
ただし、後ろの水面を残さない逃げ。
2号艇、久世さん。
差し。
榊原さんの出口を読む。
3号艇、片瀬さん。
握るか、差しに構えるか。
4号艇、私。
カド。
5号艇、黒瀬さん。
私の出口を見る。
6号艇、森川さん。
大外から残す。
全部見る。
でも、優勝を見る。
灯は、そこでペンを止めた。
優勝。
初めて、その言葉を自分のページに書いた。
重かった。
A2とは違う重さだった。
級別は積み上げる数字。
優勝は、その節で一番前に出ること。
今まで灯は、優勝戦を外から見てきた。
沙耶が走る優勝戦。
天堂朱里が圧倒した優勝戦。
月城澪がセンターから奪った優勝戦。
黒瀬や篠原や榊原が、着を拾いながら前に出る水面。
それを見てきた。
でも、今日は自分がその中にいる。
控室で、榊原理央が静かに声をかけた。
「優勝、欲しい?」
灯は、青のカポックを見た。
「欲しいです」
榊原は頷いた。
「いい返事」
灯は少し驚く。
「いいんですか」
「欲しいって言えない選手は、優勝戦を走れない」
榊原は、淡々と言った。
「でも、欲しいだけの選手も勝てない」
灯は、ノートを開く。
榊原は続ける。
「今日は、負け方を考える日じゃない」
灯は顔を上げた。
「え……」
「もちろん、崩れたら終わり。でも、優勝戦で最初から負け方だけ見たら、勝てない」
榊原の声は、いつもより少しだけ低かった。
「今まで教えたのは、落とさないためだけじゃない」
灯は、息を止める。
「勝つ水面に入った時、最後まで勝ち切るためでもある」
灯は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
負け方を間違えない。
欲しい着と取るべき着を見る。
5着を4着にする。
3着を取り切る。
2着を落とさない。
それらは全部、守るためだけではなかった。
勝つ時に、勝ち切るためにも必要だった。
榊原は、自分の白いカポックを手に取る。
「今日、私を差せる水面が見えたら?」
灯は、少しだけ声を低くして答えた。
「入ります」
「黒瀬さんが外にいても?」
「出口まで見て、入ります」
榊原は、ほんの少しだけ笑った。
「なら、来なさい」
その言葉は、優しかったわけではない。
むしろ、挑むことを許されたような重さがあった。
灯は、深く頭を下げた。
展示航走。
水面は少しだけざわついていた。
向かい風。
強くはない。
けれど、1マークの出口で艇が少し重くなる風だった。
灯は4号艇。
青。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
榊原が1コース。
久世が2コース。
片瀬が3コース。
灯が4コース。
黒瀬が5コース。
森川が6コース。
起こし。
大時計。
灯は線を見る。
Fを切った記憶は消えていない。
けれど、今日はその記憶に手を引かれない。
線の手前で最大にする。
越えない。
置かない。
スリット。
展示ST、灯は0.11。
踏み込めている。
榊原は0.13。
久世は0.12。
片瀬は0.14。
黒瀬は0.13。
森川は0.16。
悪くない。
いや、良い。
でも、スタートだけでは勝てない。
1マークへ向かう。
榊原が先に回る。
久世が差す。
片瀬が外へ持ち出す。
灯は4コースから見る。
榊原の出口。
久世の差し。
片瀬の艇の向き。
黒瀬の位置。
その瞬間、灯には水面が見えた。
榊原の逃げが、いつもよりほんの少しだけ出口で重い。
向かい風のぶん、前が伸び切らない。
久世が差し込む。
その差しが、榊原を少し内に押し込む。
片瀬は握る。
その外と内の間に、灯の水面がある。
まくり差し。
深く入りすぎない。
でも、置かない。
出口まで残す。
灯は艇を向けた。
展示の1マーク。
入った。
見えた水面に入れた。
榊原の外。
久世の上。
片瀬の内。
そこに青の艇を置く。
出口。
艇は重くなりかけた。
しかし、灯はすぐに外へ逃がさなかった。
内へ固めすぎもしなかった。
前を向ける。
バックストレッチ。
榊原が少し前。
久世が内。
灯が外から並びかける。
黒瀬が後ろから来る。
半艇身。
灯は、その距離を見た。
また半艇身。
でも、展示では届かなかったわけではない。
出口を残せば、届く。
控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
4号艇。
ST 0.11。
踏み込めた。
1マーク。
榊原さんの出口が向かい風で少し重い。
久世さんの差しが内を使う。
片瀬さんが外。
間に水面。
入れる。
ただし、深くなると黒瀬さんに拾われる。
出口を残せば、榊原さんに届く。
灯は、その下に大きく書いた。
半艇身を、出口で消す。
その文字を見つめていると、黒瀬真帆が近づいてきた。
5号艇。
灯の外。
あの日、半艇身前にいた選手。
黒瀬は静かに言った。
「展示、見えましたね」
灯は頷いた。
「はい」
「本番も来ますよね」
「はい」
「なら、私は出口を見ます」
灯は、黒瀬を見る。
「分かっています」
黒瀬は少しだけ表情を緩めた。
「今日は、届かせるつもりですか」
灯は、青のカポックを見た。
「はい」
「なら、半艇身ぶん、残してください」
その言葉は、灯の胸に静かに落ちた。
半艇身ぶん、残す。
黒瀬は、それ以上言わなかった。
榊原も、久世も、片瀬も、それぞれ準備をしている。
誰も灯を待ってはいない。
優勝戦は、誰かの成長を祝う場所ではない。
勝つ選手を決める場所だ。
灯が届かなければ、誰かが勝つ。
それだけだった。
本番の時間が来た。
青の4号艇。
灯は艇に乗り込む。
水面の音が近い。
観客席のざわめきが遠い。
胸の奥に、いくつもの青が重なる。
Fを切った青。
B1として初めて勝った青。
準優に半艇身届かなかった青。
そして、今ここにある青。
初めての優勝戦の青。
灯は、大きく息を吸った。
忘れない。
でも、引きずらない。
あの日の半艇身を、今日の出口にする。
6艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
1号艇、榊原理央。
2号艇、久世航平。
3号艇、片瀬梨央。
4号艇、風見灯。
5号艇、黒瀬真帆。
6号艇、森川千夏。
優勝戦。
灯は4コースに艇を置く。
大時計。
線の手前。
Fの線。
勝負の線。
A2の線。
優勝の線。
全部が一瞬、同じところに重なった。
灯は、そこから目を逸らさなかった。
越えない。
でも、置かない。
手前で最大にする。
スリット。
灯のSTは0.10。
榊原は0.13。
久世は0.12。
片瀬は0.14。
黒瀬は0.13。
森川は0.17。
灯は、わずかに前にいた。
青が、出た。
けれど、まだ勝っていない。
1マーク。
榊原が先に回る。
久世が差す。
片瀬が握る。
展示と同じ形。
でも、本番の水面は展示より狭い。
全員が勝ちに来る。
全員が出口を残しに来る。
灯は、4コースから見る。
榊原の出口。
少し重い。
久世の差し。
内へ入る。
片瀬の艇。
外へ持ち出す。
黒瀬の位置。
後ろから灯の出口を見ている。
水面が見えた。
展示で見えた場所。
榊原の外。
久世の上。
片瀬の内。
勝つ水面。
灯は入った。
深くなりすぎない。
でも、恐れて置かない。
波を踏む。
艇が跳ねる。
前を向ける。
出口。
ここだ。
オールレディースで足りなかった場所。
黒瀬に半艇身届かなかった場所。
灯は、身体を前へ出しすぎなかった。
内に固めすぎなかった。
外を怖がりすぎなかった。
出口を残す。
青の艇が、前を向いた。
バックストレッチ。
1号艇、榊原。
2号艇、久世。
4号艇、灯。
三艇が並ぶ。
いや、青が伸びている。
榊原が内で残す。
久世が差して食らいつく。
灯は外から伸びる。
黒瀬が後ろにいる。
片瀬も止まっていない。
でも、灯は前を見る。
半艇身。
その距離が、目の前にある。
榊原の艇が、ほんの少しだけ前。
あの日の黒瀬と同じ距離。
灯は2マークを見る。
内は久世がいる。
深く入れば止まる。
榊原の内へ無理に差せば、久世と重なる。
外から回れば、黒瀬が差す。
どこへ行く。
一瞬で、いくつもの水面が閉じていく。
その中で、灯はひとつだけ残った水面を見た。
榊原の外。
久世の前。
黒瀬の差し場を残しすぎない角度。
外から前を向ける。
勝ちに行く水面。
守る水面ではない。
でも、欲しがって深くなる水面でもない。
灯は、そこへ艇を置いた。
2マーク。
榊原が内で粘る。
久世が差す。
灯は外から出口を作る。
波を越える。
艇が一瞬、浮いた。
落ちる。
前を向く。
出口で、青が伸びた。
榊原と並ぶ。
久世を少し出し抜く。
黒瀬の差しは届かない。
2周1マークへ向かう時、灯は初めて自分が先頭争いの中心にいることをはっきり感じた。
優勝戦の中心。
その水面に、自分がいる。
怖い。
でも、怖がっている暇はない。
2周1マーク。
榊原は内からもう一度残そうとする。
灯は外。
久世が後ろ。
黒瀬がさらに後ろ。
灯には榊原の出口が見えた。
榊原は止まらない。
さすがだった。
負け方を知っている選手は、勝ち方も簡単には崩さない。
灯は、無理に内へ入らない。
外から、出口を残して回る。
青の艇が伸びる。
榊原との差が、半艇身から、少し縮む。
半艇身。
まだ残っている。
2周2マーク。
灯はもう一度仕掛ける。
榊原の外。
外からでは届かないかもしれない。
でも、内へ入れば止まる。
灯は、黒瀬の言葉を思い出した。
半艇身ぶん、残してください。
半艇身ぶん、残す。
それは、余力を残すということではない。
勝つために、出口を残すということ。
灯は、最後まで艇を前へ向けた。
2周2マーク。
榊原が先に入る。
灯が外から合わせる。
波を踏む。
艇が重くなる。
ここで止まれば終わる。
灯は、身体を固めない。
出口。
前。
水面。
青が、伸びる。
バックストレッチ。
榊原と並んだ。
観客席の声が遠くで大きくなる。
久世が少し後ろ。
黒瀬がその外。
片瀬も追っている。
でも、先頭は白と青。
榊原と灯。
3周目。
最後の周回。
灯は、呼吸を忘れそうになった。
けれど、ノートの言葉が胸に戻る。
見えた。
入った。
届かなかった。
今日は、その先を書く。
3周1マーク。
榊原が内。
灯が外。
榊原は簡単に譲らない。
出口を閉じる。
灯の行き場を狭くする。
白い艇が、青の前に壁を作る。
以前なら、その壁を見て、灯は少し遅れた。
見えてから動いていた。
今は違う。
閉じる前に、出口を見る。
榊原が閉じるなら、その外の出口が少し重くなる。
久世は差し場を狙う。
黒瀬は灯の出口を見る。
灯は、その全部を一瞬で見た。
そして、外からではなく、少しだけ艇を内へ向けた。
深くない。
止まらない。
榊原の出口をなぞるように、青を置く。
艇が前を向く。
白と青が並ぶ。
3周バック。
灯は、榊原とほとんど並んでいた。
半艇身は、もうなかった。
並んでいる。
でも、前には出ていない。
最後の2マーク。
ここで全部が決まる。
榊原が内。
灯が外。
久世が後ろ。
黒瀬がさらに外。
優勝が、目の前にある。
欲しい。
灯は、はっきりと思った。
優勝が欲しい。
A2も欲しい。
青で届かせたい。
でも、その欲しさに身体を持っていかれない。
欲しいから、見る。
届きたいから、出口を見る。
最後の2マーク。
榊原が先に回る。
灯は外から合わせる。
榊原の出口が、ほんの少しだけ重くなった。
向かい風。
内の波。
久世の差しを受けた角度。
その全部が、白の出口を一瞬だけ鈍らせた。
灯には見えた。
半艇身ぶんの出口。
あの日、足りなかったぶん。
今日、残したぶん。
灯は、そこへ艇を向けた。
深くない。
浅くない。
止まらない。
逃げない。
青の艇が、水面を噛む。
出口で伸びる。
榊原の白が隣にある。
ゴールラインが近づく。
半艇身。
その言葉が、胸の奥で消えた。
青が、前へ出た。
ゴール。
1着、4号艇、風見灯。
2着、1号艇、榊原理央。
3着、2号艇、久世航平。
4着、5号艇、黒瀬真帆。
5着、3号艇、片瀬梨央。
6着、6号艇、森川千夏。
場内の音が、一瞬遅れて灯に届いた。
1着。
4号艇。
風見灯。
初優勝。
灯は、すぐには意味を掴めなかった。
水面の上で、まだ艇の振動が身体に残っている。
青のカポックが胸にある。
ゴールラインを越えた。
前に、誰もいなかった。
半艇身。
届かなかった距離。
その距離を、今日は越えた。
ピットへ戻ると、何人もの声が聞こえた。
「おめでとう」
「初優勝やね」
「風見さん、やったね」
灯は頭を下げた。
何度も下げた。
言葉がうまく出てこなかった。
控室に戻ると、沙耶がいた。
いつからそこにいたのか分からない。
A1の三島沙耶。
灯の師匠。
灯は、沙耶の顔を見た瞬間、ようやく息が震えた。
「沙耶さん」
沙耶は笑っていた。
でも、目は少しだけ赤かった。
「おめでとう、優勝レーサー」
その言葉で、灯の胸の奥がほどけた。
優勝レーサー。
自分に向けられた言葉とは思えなかった。
灯は、青のカポックを抱えたまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
沙耶は、灯のノートを見た。
「書く?」
灯は、小さく頷いた。
「はい」
「じゃあ、書きなさい」
灯は席に座った。
手は震えていた。
でも、ペンは持てた。
4号艇。
青。
優勝戦。
1着。
初優勝。
1マーク。
勝つ水面が見えた。
入った。
出口を残した。
2マーク。
半艇身残した。
3周2マーク。
榊原さんの出口が重くなった。
半艇身ぶん、前に出た。
青で、届かせた。
そこまで書いて、灯はペンを止めた。
涙が一滴、ノートに落ちた。
文字が少し滲んだ。
沙耶は何も言わなかった。
榊原理央が戻ってきた。
2着。
最後まで灯の前にいた選手。
最後に、灯に差された選手。
榊原は、灯の前に立った。
灯は慌てて立ち上がる。
「ありがとうございました」
榊原は、静かに頷いた。
「届いたね」
灯は、息を吸った。
「はい」
「半艇身」
灯は、ノートを見た。
「はい」
榊原は少しだけ笑った。
「今日は、出口が残ってた」
その言葉で、灯はまた胸が熱くなった。
「はい」
「負け方を間違えないっていうのは、負けるための言葉じゃない」
灯は顔を上げた。
榊原は続けた。
「勝つ時に、勝ち切るための言葉でもある」
灯は、その言葉をノートに書いた。
負け方を間違えない。
それは、勝ち切るための言葉でもある。
黒瀬真帆も戻ってきた。
4着。
オールレディースで灯の前にいた選手。
今日、灯の外で出口を見ていた選手。
黒瀬は、灯に軽く頭を下げた。
「届きましたね」
灯は頷いた。
「はい」
「あの時の半艇身、消えましたか」
灯は、少し考えた。
消えた。
そう言いたかった。
でも、違う気がした。
灯は、ノートを見た。
オールレディースのページ。
今日のページ。
どちらも、消えない。
だから答えた。
「消えてはいません」
黒瀬は、灯を見る。
灯は続けた。
「でも、今日の水面になりました」
黒瀬は、少しだけ口元を緩めた。
「いい答えです」
それだけ言って、黒瀬は離れた。
表彰式の声がかかるまで、灯は何度もノートを見た。
4号艇。
青。
1着。
初優勝。
その文字は、何度見ても現実感が薄かった。
でも、ゴールラインの感触は身体に残っていた。
最後の2マーク。
榊原の出口が重くなった瞬間。
半艇身ぶん、青が伸びた瞬間。
あれは、夢ではない。
表彰式のあと、期別成績の確認があった。
灯は、控室の掲示板の前に立った。
初優勝の余韻がまだ身体の中にある。
けれど、掲示板の数字はいつも通り冷静だった。
期末最終成績。
風見灯。
出走数、72走。
1着、11本。
2着、14本。
3着、15本。
4着、16本。
5着、10本。
6着、6本。
勝率、5.58。
2連対率、34.72。
3連対率、55.56。
A2昇級圏内。
灯は、その数字を見つめた。
5.58。
A2。
線が、今度は見えるだけではなかった。
届いていた。
B1維持のために見始めた数字。
準優の線を連れてきた数字。
半艇身届かなかった数字。
何期もかけて積み上げた数字。
その全部が、ここにつながっていた。
正式な級別審査の発表は、少し後になる。
けれど、出走回数も足りている。
勝率も、2連対率も、3連対率も、A2の線に届いている。
事故率も、B1として残ることを覚えてからは、大きく崩していない。
ほぼ確定と言ってよかった。
灯は、掲示板の前で静かに息を吐いた。
優勝。
そして、A2へ。
その二つが同じ日に並んでいた。
沙耶が隣に来た。
「見た?」
灯は頷いた。
「はい」
「どう見えた?」
その問いは、榊原に何度も聞かれた問いと同じだった。
灯は、少しだけ考えた。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
でも、それだけではない。
灯は、掲示板を見たまま答えた。
「線が、届きました」
沙耶は、何も言わなかった。
灯は続けた。
「でも、また次の線が見えます」
沙耶は、少し笑った。
「そうだね」
「A2になったら、A2として見られます」
「うん」
「今日の優勝も、次からは過去の数字になります」
「うん」
灯は、胸の奥に残る青を感じながら言った。
「だから、書きます」
沙耶は、静かに頷いた。
「それでいい」
灯はノートを開いた。
最後のページではない。
まだ先があるページ。
そこに、ゆっくり書いた。
初優勝。
4号艇。
青。
A2昇級圏内。
72走。
勝率5.58。
2連対率34.72。
3連対率55.56。
B1として残るために見ていた数字が、A2の線を連れてきた。
半艇身届かなかった青が、今日、届いた。
でも、これで終わりではない。
A2は、上がったら終わりじゃない。
ここから、A2として見られる。
ここから、もっと水面を消される。
ここから、もっと強い相手が来る。
それでも、今日の青を忘れない。
忘れない。
でも、引きずらない。
次の水面を見る。
灯は、ペンを置いた。
外ではまだ、水面の音が続いている。
レース場は、誰かの初優勝で止まってはくれない。
今日の歓声も、明日には次の出走表へ変わる。
優勝レーサーになっても、A2へ届いても、水面はまた最初から始まる。
灯は、青のカポックをもう一度見た。
線を越えた色。
初めてB1として勝った色。
半艇身届かなかった色。
そして、初めて優勝した色。
その色は、もう怖さだけではなかった。
でも、誇りだけでもなかった。
灯は、その青を胸に抱えて、小さく息を吸った。
水面を見る。
それは、B2の頃から何も変わっていない。
ただ、見える線が変わった。
足元のB1。
目の前のA2。
その先にあるA1。
そして、もっと遠くの水面。
灯はまだ、その全部を知らない。
けれど、今日、ひとつ届いた。
青で、届かせた。
灯はノートを閉じた。
風見灯。
B1最後の期。
初優勝。
そして、A2へ。
水面の上に、次の灯が静かにともった。




