第8話 半挺身届かない
4号艇のカポックを手に取った時、灯は一度だけ指を止めた。
青。
その色は、いつも少しだけ胸の奥に触れる。
Fを切った色。
線を越えた色。
沙耶のいない水面で、B1として初めて勝った色。
そして今日、準優へ届くかどうかを決める色。
灯は、カポックを胸に抱えた。
重くはない。
けれど、軽くもなかった。
1着条件。
その言葉が、ノートの上にも、胸の中にも、ずっと残っている。
5走26点。
得点率5.20。
1着なら36点。
得点率6.00。
準優ボーダー圏内ギリギリ。
2着以下なら届かない。
掲示板で見た数字は、まだ消えていなかった。
灯は、出走表をもう一度見た。
1号艇、佐伯真帆。B1。
2号艇、黒瀬真帆。A2。
3号艇、森川千夏。B1。
4号艇、風見灯。B1。
5号艇、榊原理央。A2。
6号艇、白川芽衣。B1。
4号艇。
4コース想定。
1着条件。
その並びは、何度見ても変わらない。
灯はノートに展開を書いた。
佐伯さん、イン先マイ。
黒瀬さん、差し。
森川さん、握る。
私は4コース。
榊原さん、5コースから私の出口を見る。
白川さん、大外。
黒瀬さんの差し。
佐伯さんの出口。
森川さんの握り。
榊原さんの外。
全部見る。
それでも、1着を見る。
灯は、そこでペンを止めた。
1着を見る。
その言葉は、危うい。
1着を欲しがることと、1着の水面を見ることは違う。
欲しがれば、身体が前へ出る。
前へ出すぎれば、艇は深くなる。
深くなれば、出口で止まる。
榊原理央の言葉が戻る。
1着が欲しい日ほど、1着だけを見ると半艇身足りなくなる。
半艇身。
その距離が、今はまだ実感として分からない。
けれど、怖かった。
1艇身ではない。
大きく届かない距離ではない。
届きそうで、届かない距離。
水面の上でいちばん悔しい距離。
灯は、ノートの下に書く。
1着を欲しがるのではない。
1着の水面を見る。
そして、出口を残す。
書いた文字を見て、少しだけ呼吸を整えた。
展示航走の時間が近づく。
控室では、ほかの選手たちも準備を進めていた。
誰も大きな声を出していない。
けれど、空気は張っている。
予選最終走。
誰かが準優へ届く。
誰かが届かない。
その線が、控室の中に見えない糸のように張られていた。
黒瀬真帆が2号艇のカポックを手にしていた。
黒。
2コース。
灯は、黒瀬を見た。
第6章に入って最初に灯の水面を消した選手。
1号艇の灯を差して勝った選手。
そして今日、灯の準優の線の前にいる選手。
黒瀬も、灯の視線に気づいた。
「1着条件ですね」
灯は頷いた。
「はい」
黒瀬は、少しだけ目を細める。
「見えたら来ますよね」
「はい」
灯は、迷わず答えた。
黒瀬は小さく頷いた。
「なら、私はそこを見ます」
灯の胸が少しだけ強く鳴った。
黒瀬は、灯が見る水面を見る。
灯が入ろうとする場所を、先に読む。
今日の黒瀬は、ただ差すだけではない。
4号艇の灯が1着を取りに来ることを前提に走る。
「分かりました」
灯が言うと、黒瀬は淡々と返した。
「分かっていても、消せない時はあります」
灯は顔を上げる。
黒瀬は続けた。
「でも、分かっていなければ、消す以前に取られます」
その言葉は、静かに重かった。
見られている。
でも、自分も見なければならない。
灯はノートに書いた。
黒瀬さん。
私が見える水面を見る。
分かっていても、消せない時はある。
でも、分かっていなければ取られる。
書き終えた時、榊原理央が近づいてきた。
5号艇。
黄色のカポックを持っている。
灯の外。
灯が欲しがって流れた時、その出口を拾う位置。
灯は、自然に背筋を伸ばした。
榊原は、出走表を見てから灯を見た。
「青、重い?」
灯は一瞬、言葉に詰まった。
それから、正直に答えた。
「重いです」
榊原は頷いた。
「線を越えた色だもんね」
灯は、息を止めた。
榊原がそれを知っていることに驚いたわけではない。
沙耶から聞いているのかもしれない。
レースを見ているのかもしれない。
それでも、言葉にされると胸が冷えた。
「はい」
「でも、勝った色でもある」
灯は顔を上げる。
「はい」
「今日は?」
灯は、青のカポックを見た。
「届かせなければいけない色です」
榊原は、少しだけ目を細めた。
「届かせたい、じゃなくて?」
灯は、すぐには答えられなかった。
届かせたい。
届かせなければいけない。
そのふたつは近いようで違う。
届かせなければいけないと思うほど、身体は前へ出る。
前へ出すぎると、半艇身足りなくなる。
灯は、ゆっくり言った。
「届かせたいです」
榊原は頷いた。
「その方がいい」
灯は、ノートへ書いた。
届かせなければいけない、ではない。
届かせたい。
でも、欲しがりすぎない。
榊原は、黄色のカポックを持ち直した。
「私は外にいる」
「はい」
「灯が深くなったら、拾う」
「はい」
「でも、私を怖がって手前にいたら、1着はない」
灯は顔を上げる。
榊原の声はいつも通り淡々としていた。
「外も見る。でも、外を怖がって勝つ水面から離れない」
灯は、深く頷いた。
「はい」
「行くなら、出口まで見て行きなさい」
その言葉を、灯はノートに書いた。
行くなら、出口まで見て行く。
入るだけでは勝てない。
出口を残す。
展示航走の時間が来た。
灯は4号艇に乗り込む。
水面の匂いが近い。
青いカポックが胸元にある。
少しだけ手が冷たい。
けれど、Fを切った時の冷たさとは違う。
怖い。
でも、逃げたい怖さではない。
届くかもしれない怖さ。
届かなければ消える怖さ。
1着条件という数字が、身体の中にある。
それでも、灯は大時計だけを見ないようにした。
相手を見る。
水面を見る。
出口を見る。
6艇がピットを離れた。
1号艇、佐伯真帆。
2号艇、黒瀬真帆。
3号艇、森川千夏。
4号艇、灯。
5号艇、榊原理央。
6号艇、白川芽衣。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
青の4号艇。
起こし。
大時計。
線の手前。
越えない。
でも、置かない。
手前で最大にする。
スリット。
展示STは、灯が0.13。
悪くない。
佐伯は0.15。
黒瀬は0.14。
森川は0.16。
榊原は0.15。
白川は0.18。
灯は、踏み込めている。
越えてはいない。
1マークへ向かう。
佐伯が先に回る。
黒瀬が差す。
森川が握る。
灯は4コースから水面を見る。
黒瀬の外。
佐伯の出口。
森川の内。
そこに、水面が見えた。
勝つ水面。
一瞬、胸の奥が熱くなった。
ここだ。
入れば前へ出られる。
灯は艇を向けた。
しかし、入った瞬間に分かった。
少し深い。
勝つ水面に入れている。
でも、出口が重い。
森川の内を見すぎた。
佐伯の出口に寄りすぎた。
黒瀬の差しを越えようとして、艇が少しだけ深くなった。
展示の1マーク。
灯は前に出かけた。
黒瀬と並ぶ。
でも、完全には出られない。
バックストレッチで、黒瀬がわずかに前。
灯は半艇身ほど後ろ。
外から榊原が、灯の出口を見ている。
展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
4号艇。
4コース。
ST 0.13。
踏み込めた。
1マーク。
勝つ水面は見えた。
入った。
でも、深い。
出口が重い。
黒瀬さんに半艇身前へ出られた。
榊原さんが外から私の出口を見ていた。
入るだけでは勝てない。
出口を残す。
灯は、最後の一行を強く書いた。
出口を残す。
その文字を見ていると、黒瀬が近くに来た。
「展示、来ましたね」
灯は頷く。
「はい」
「でも、出口が少し重かったです」
灯は、ノートを見る。
自分でもそう書いたばかりだった。
「はい」
黒瀬は静かに言った。
「本番、同じなら残します」
「はい」
「でも、出口まで残されたら、たぶん取られます」
灯は、顔を上げた。
黒瀬は、勝ち誇っているわけではなかった。
ただ、見えた水面の事実を言っている。
「ありがとうございます」
灯が言うと、黒瀬は軽く頷いて離れた。
灯はノートに書く。
同じなら、黒瀬さんに残される。
出口まで残せたら、取れる。
本番の時間が近づく。
灯は青のカポックをもう一度整えた。
展示で勝つ水面は見えた。
でも、勝てなかった。
水面に入るところまでは見えた。
そこから勝ち切る出口が足りなかった。
本番で、もう一度そこを見る。
ただし、1着条件が身体を押してくる。
早く入りたい。
前へ出たい。
黒瀬より先に。
佐伯より前へ。
榊原に拾われる前に。
その気持ちが出れば、また深くなる。
灯は目を閉じる。
1着を欲しがるのではない。
1着の水面を見る。
出口まで見る。
水面へ向かう。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
青の4号艇。
大時計。
スリット。
灯のSTは0.12。
踏み込んだ。
佐伯は0.14。
黒瀬は0.13。
森川は0.16。
榊原は0.15。
白川は0.18。
灯は、スリットで少し前にいた。
越えていない。
置いてもいない。
線の手前で、入れた。
その瞬間、胸が熱くなる。
でも、すぐに1マークを見る。
ここからだ。
スリットで前にいても、出口を残せなければ届かない。
佐伯が先に回る。
黒瀬が差す。
森川が握る。
灯は4コースから入る。
展示と同じ水面が見えた。
黒瀬の外。
佐伯の出口。
森川の内。
勝つ水面。
灯は、そこへ入った。
今度は、展示より半艇身ぶん外を見る。
深くなりすぎない。
でも、置かない。
黒瀬の艇が内から伸びる。
佐伯の艇が出口で少し流れる。
森川が外へ行く。
灯はその間に艇を置く。
波を踏む。
艇が跳ねる。
けれど、止めない。
前を向ける。
バックストレッチ。
2号艇、黒瀬が前。
4号艇、灯が外から並ぶ。
1号艇、佐伯が残す。
5号艇、榊原が後ろから来る。
灯は黒瀬に並んでいる。
届く。
そう思った。
いや、思ってはいけない。
まだ届いていない。
黒瀬の艇がわずかに前。
半艇身。
展示と同じ距離。
でも、展示より近い。
灯は2マークを見る。
ここで黒瀬の内が見えるかもしれない。
入れば逆転。
1着。
準優。
その言葉が、身体の中で大きくなる。
2マーク。
黒瀬が先に入る。
灯は外。
佐伯は内で残そうとする。
榊原が後ろから差し場を見ている。
灯には、黒瀬の内が見えた。
入れば、勝てるように見えた。
でも、深い。
そこへ入れば、黒瀬の波を踏む。
出口で止まる。
止まれば、榊原に差される。
3着になる。
それでも、1着条件。
2着では届かない。
この一瞬を逃せば、届かないかもしれない。
灯の身体が、内へ動きかけた。
その時、榊原の言葉が胸の奥で響いた。
1着が欲しい日ほど、1着だけを見ると半艇身足りなくなる。
外も見る。
でも、外を怖がって勝つ水面から離れない。
灯は、黒瀬の内だけを見なかった。
榊原を見る。
佐伯を見る。
出口を見る。
今入れば、止まる。
でも、外から出口を残せば、黒瀬を追える。
逆転の水面は、ここだけではない。
灯は、内へ深く入らなかった。
外から出口を残す。
黒瀬に半艇身残される。
でも、榊原には差されない。
バックへ出る。
1番手、黒瀬。
2番手、灯。
3番手、榊原。
佐伯が4番手。
灯は黒瀬を追う。
2着では届かない。
でも、2着を落とせばもっと遠い。
今は追う。
出口を残して、次を見る。
2周1マーク。
黒瀬が先に回る。
灯は外から迫る。
黒瀬の出口が少しだけ重く見えた。
灯は艇を向ける。
今度は深くなりすぎない。
出口を残す。
黒瀬との差が詰まる。
半艇身。
少し縮まる。
でも、まだ前には出ない。
榊原が後ろにいる。
灯が少しでも止まれば、3着へ落ちる。
2周2マーク。
灯にはまた水面が見えた。
黒瀬の外。
出口で伸ばせる水面。
内ではない。
外から前へ出す水面。
灯は、そこへ艇を置く。
黒瀬の艇と並ぶ。
観客席の声が、一瞬だけ遠くなる。
水面の音だけが聞こえる。
エンジン音。
波を叩く音。
自分の呼吸。
黒瀬が少しだけ前。
灯が外から追う。
3周目。
最後の周回。
黒瀬は崩れない。
A2。
派手ではない。
でも、落とさない。
灯が見た水面を、黒瀬も見ている。
灯が出口を残せば、黒瀬はそのさらに先の出口を残す。
灯が内を見れば、黒瀬は内を閉じる。
灯が外から伸びれば、黒瀬は前で止まらない。
差は、半艇身のまま動かない。
3周1マーク。
灯はもう一度仕掛ける。
黒瀬の出口がほんの少しだけ重い。
灯は外から回る。
深くなりすぎない。
でも、今までより少しだけ強く。
艇が伸びる。
黒瀬との差が詰まる。
半艇身より、少し短い。
届くかもしれない。
その思いが、また身体を前へ押す。
灯は歯を食いしばった。
欲しがるな。
見る。
出口を見る。
最後の2マーク。
黒瀬が先に入る。
灯は外。
榊原は3番手で後ろ。
佐伯がさらに後ろ。
ここで全部が決まる。
黒瀬の艇が少しだけ出口で重い。
灯には、外から伸ばす水面が見えた。
内へは入らない。
止まる。
外から出口を残す。
黒瀬の外。
最後の水面。
灯は艇を向けた。
波を越える。
艇が跳ねる。
それでも、前を向ける。
出口で伸びる。
黒瀬の艇が見える。
青の4号艇が、黒の2号艇に並びかける。
ゴールラインが近づく。
届く。
届く。
灯は、そう思いかけた。
けれど、黒瀬の艇が、半艇身だけ前にいた。
ゴール。
1着、2号艇、黒瀬真帆。
2着、4号艇、風見灯。
3着、5号艇、榊原理央。
4着、1号艇、佐伯真帆。
5着、3号艇、森川千夏。
6着、6号艇、白川芽衣。
半艇身。
それだけ、届かなかった。
灯は、モニターを見つめたまま動けなかった。
2着。
4号艇。
風見灯。
2着。
1着条件。
届かず。
得点率は、34点。
5.67。
準優ボーダーには届かない。
数字は、静かだった。
場内の音は流れている。
次のレースの準備も始まっている。
誰かが勝ち、誰かが負けた。
ただそれだけのように、水面は次へ進んでいく。
けれど灯の胸には、半艇身が残っていた。
大きく負けたわけではない。
手も足も出なかったわけではない。
勝つ水面は見えた。
入った。
追った。
最後まで伸ばした。
それでも、届かなかった。
控室に戻ると、灯はしばらくノートを開けなかった。
手が動かなかった。
書かなければならない。
分かっている。
Fの時も書いた。
6着の時も書いた。
勝った時も書いた。
だから、今日も書かなければならない。
灯は、ゆっくりノートを開いた。
4号艇。
4コース。
2着。
1着条件。
1着なら得点率6.00。
結果、2着。
得点率5.67。
準優には届かなかった。
1マーク。
勝つ水面は見えた。
入った。
でも、少し深かった。
出口が重かった。
黒瀬さんに半艇身届かなかった。
2マーク。
内は見えた。
でも、入れば止まった。
榊原さんに差された。
外から出口を残して追った。
3周2マーク。
最後まで追った。
でも、半艇身届かなかった。
灯は、そこでペンを止めた。
文字が少し歪んでいた。
悔しい。
その一言を書こうとして、書けなかった。
悔しいという言葉では足りなかった。
悲しいでもない。
惜しいでもない。
届かなかった。
それが一番近かった。
黒瀬真帆が戻ってきた。
1着を取った選手。
灯の準優の線の前に立った選手。
黒瀬は、灯の前で静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
灯は立ち上がった。
「ありがとうございました」
声は、少しだけ掠れていた。
黒瀬は灯を見た。
「見えてましたね」
灯は頷いた。
「はい」
「入ってきました」
「はい」
「でも、出口が少し重かったです」
灯は、ノートを見る。
自分でもそう書いた。
「はい」
黒瀬は、少しだけ間を置いた。
「あそこを残せるようになったら、たぶん届きます」
灯は、顔を上げる。
黒瀬の表情に、勝ち誇る色はなかった。
ただ、同じ水面を走った相手として、見たことを置いている。
「届きますか」
灯が言うと、黒瀬は小さく頷いた。
「今日のままだと、半艇身足りません」
灯は、胸の奥が痛むのを感じた。
でも、その痛みから目を逸らさなかった。
「はい」
黒瀬はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
灯は、ノートに書き足した。
黒瀬さん。
今日のままだと、半艇身足りない。
出口を残せるようになったら、届くかもしれない。
少しして、榊原理央が来た。
3着。
灯が欲しがって崩れていれば、榊原は2着を取っていたかもしれない。
けれど、灯は2着を落とさなかった。
それでも、1着には届かなかった。
榊原は、灯のノートを見た。
「欲しがり方は、間違えなかった」
灯は顔を上げる。
「でも、届きませんでした」
「うん」
「準優にも」
「うん」
榊原は、短く頷いた。
その短さが、今はありがたかった。
慰められたら、たぶん崩れてしまう。
灯は、ノートを握った。
「何が足りなかったんでしょうか」
榊原は、すぐに答えた。
「出口」
灯は、その言葉を繰り返す。
「出口……」
「勝つ水面に入るところまでは見えた」
「はい」
「でも、勝ち切る出口を残せなかった」
灯は、ノートに書いた。
勝つ水面に入るところまでは見えた。
勝ち切る出口を残せなかった。
榊原は続けた。
「1着を欲しがって崩れたわけじゃない」
「はい」
「2着は落とさなかった」
「はい」
「でも、1着には足りなかった」
その言葉は、冷たくはなかった。
でも、逃げ道もなかった。
灯は頷く。
「はい」
榊原は、少しだけ灯を見る。
「今日の2着を、良かったことにしなくていい」
灯は息を止める。
「でも、悪かったことだけにもしなくていい」
その言葉は、1号艇で2着を取った時に聞いた言葉と似ていた。
良い2着にしなくていい。
悪い2着にもしなくていい。
今日の2着として書く。
榊原は、淡々と言った。
「見えた。入った。届かなかった。そこまで全部書きなさい」
灯は、ゆっくり頷いた。
「はい」
榊原は、それ以上何も言わなかった。
灯は、ノートを見る。
4号艇。
青。
半艇身。
届かなかった水面。
涙は出なかった。
泣くほど、単純な負けではなかった。
大きく沈んだなら、悔しさは別の形になったかもしれない。
手も足も出なかったなら、まだ遠いと言えたかもしれない。
でも、見えた。
入った。
届かなかった。
それが一番苦しかった。
灯は、ゆっくり書いた。
4号艇。
青。
B1として初めて勝った枠。
今日は、準優に届かなかった枠。
1着条件。
半艇身、届かなかった。
勝つ水面は見えた。
入った。
でも、勝ち切る出口を残せなかった。
準優には届かなかった。
けれど、何も見えなかったわけではない。
見えた。
入った。
届かなかった。
その全部を、同じページに残す。
書きながら、灯は青のカポックを思い出した。
Fを切った青。
B1として勝った青。
そして今日、半艇身届かなかった青。
同じ色なのに、意味が増えていく。
水面は、勝った記憶だけを残してくれない。
負けた記憶も、届かなかった距離も、同じように残る。
それでも、その全部が次の水面になるのだと、灯はもう少しだけ知っていた。
灯は、震える手で最後の一行を書いた。
いつか、この青で届かせる。
書き終えて、ペンを置いた。
控室のモニターでは、準優出場選手の名前が流れていた。
そこに、風見灯の名前はない。
灯は、その画面を見た。
見なかったことにはしない。
自分の名前がないことも、今日の水面の一部だ。
準優には届かなかった。
半艇身、届かなかった。
でも、灯はノートを閉じなかった。
もう一度、最後の一行を見る。
いつか、この青で届かせる。
その文字は、今はまだ遠い。
けれど、遠いからこそ、残さなければならない。
灯はノートを閉じた。
水面の音が、遠くで続いている。
予選は終わった。
灯のオールレディースは、準優の外側で止まった。
けれど、青の4号艇で見えた水面は、消えていない。
半艇身。
その距離を、灯は胸の奥に抱えたまま、次の水面を見ることにした。




