第7話 掲示板の線
予選5走目を終えた夜、灯はノートに数字を並べた。
1走目。
5号艇。
5着。
2走目。
2号艇。
3着。
3走目。
6号艇。
4着。
4走目。
1号艇。
2着。
5走目。
4号艇。
3着。
五つの数字が、ノートの上に残る。
5着。
3着。
4着。
2着。
3着。
強い数字ではなかった。
けれど、壊れてもいなかった。
6着はない。
大きく沈んだ日はない。
それでも、勝っていない。
1号艇で勝てなかった。
2号艇で2着を取れなかった。
5号艇では、5着に沈んだ。
灯は、五つの数字を見つめたまま、ペンを握り直した。
B1に上がった。
でも、B1は上がって終わる級ではない。
残らなければ、また落ちる。
そのことを、灯はB1になってから何度も思い知らされていた。
B2の頃は、B1の線が上にあった。
届きたい線だった。
追いかける線だった。
でも、B1になった今、その線は足元にもある。
落とせば近づく線。
5着や6着を重ねれば、自分の下から迫ってくる線。
B1として残るためには、1走ごとの数字を軽く扱えない。
今日の4着も、昨日の3着も、初戦の5着も、全部が期別の数字に残る。
全部が、勝率に残る。
灯はノートの下に書いた。
B1維持。
5着を重ねない。
6着を取らない。
でも、守るだけでは上がれない。
書いてから、灯はその文字を見た。
B1維持。
その言葉は、B1昇級を決めた時の喜びとは違っていた。
もっと地味で、もっと現実的で、もっと重い。
B1に上がった自分は、もう「上がりたい選手」ではない。
「残らなければならない選手」になった。
その事実が、ノートの上で静かに光っている。
灯は、五走目のページを開いた。
4号艇。
4コース。
3着。
5走目の出走表は、まだ頭に残っている。
1号艇、宮沢菜々。B1。
2号艇、片瀬梨央。A2。
3号艇、白川芽衣。B1。
4号艇、風見灯。B1。
5号艇、黒瀬真帆。A2。
6号艇、藤崎絵里。B1。
4号艇。
その枠には、いつも少しだけ重さがある。
Fを切った枠。
線を越えた枠。
沙耶のいない水面で、B1として初めて勝った枠。
そして今日、オールレディースで3着を残した枠。
5走目は、勝つ水面ではなかった。
片瀬が2号艇から差し、宮沢がインで残した。
黒瀬は外から灯の出口を見ていた。
灯は4コースから入った。
最初に見えた水面は、片瀬と宮沢の後ろだった。
けれど、すぐに狭くなった。
白川が内で残す。
黒瀬が外から来る。
一瞬でも深く入れば、艇が止まる。
一瞬でも引けば、黒瀬に前を取られる。
灯は、勝つ水面を見なかった。
2着の水面も、遠かった。
けれど、3着の水面はあった。
そこへ艇を置いた。
深く入りすぎない。
出口を残す。
黒瀬の差し場を作らない。
最後まで前を向ける。
結果は、3着。
1着、2号艇、片瀬梨央。
2着、1号艇、宮沢菜々。
3着、4号艇、風見灯。
4着、5号艇、黒瀬真帆。
5着、3号艇、白川芽衣。
6着、6号艇、藤崎絵里。
灯はノートに書いた。
4着に落ちかけた3着。
でも、落とさなかった3着。
勝つ水面ではない。
でも、3着を取り切る水面。
その下に、予選5走の成績をまとめた。
5着。
3着。
4着。
2着。
3着。
26点。
得点率5.20。
灯は、得点率の数字に目を止めた。
5.20。
良い数字ではない。
けれど、ひどい数字でもない。
初戦の5着が重い。
1号艇で勝てなかった2着も重い。
でも、6着はない。
B1維持のことを考えるなら、ここから崩したくない。
最終走で5着や6着を取れば、今節の数字は一気に悪くなる。
逆に、ここで良い着を取れれば、少し戻せる。
そういう確認のつもりだった。
準優ではなかった。
灯が最初に見ていたのは、B1として残るための数字だった。
B1として、崩れていないか。
落としていないか。
5着を重ねていないか。
6着を取っていないか。
その確認だった。
翌朝。
予選最終日。
控室に入ると、空気が少しだけ硬かった。
初日や2日目とは違う。
会話はある。
笑い声もある。
けれど、その奥に、薄く張った糸のようなものがある。
予選最終日。
今日の結果で、準優に乗る選手が決まる。
誰が上へ行くのか。
誰が届かないのか。
誰が勝負駆けなのか。
それぞれが、言葉に出さなくても分かっている。
灯は鞄を置き、ノートを取り出した。
まずは自分の数字を確認するつもりだった。
B1維持のために、今節をどう終えるか。
最終走で何を落としてはいけないか。
それを見るつもりだった。
控室の掲示板が切り替わった。
得点率ランキング。
灯は、最初それを探していたわけではない。
ただ、掲示板の中に自分の名前を見つけて、視線が止まった。
風見灯。
B1。
5走、26点。
得点率、5.20。
残り1走。
その下に、条件が出ていた。
1着。
36点。
得点率6.00。
準優ボーダー圏内。
2着。
34点。
得点率5.67。
ボーダー届かず。
3着。
32点。
得点率5.33。
ボーダー届かず。
準優ボーダー想定。
6.00前後。
1着で、準優圏内ギリギリ。
2着以下は、届かず。
灯は、息を止めた。
B1維持の数字を見ていたはずだった。
崩れていないか。
落としていないか。
今節をどう残すか。
そのために掲示板を見たはずだった。
なのに、別の線が見えた。
準優の線。
自分にはまだ遠いと思っていた線。
篠原美緒や榊原理央や黒瀬真帆のような選手たちがいる、このオールレディースで、まだ自分には早いと思っていた線。
それが、掲示板の上で数字になっていた。
1着なら、届く。
しかも、余裕で届くわけではない。
得点率6.00。
ボーダーギリギリ。
届くかもしれない。
でも、少しでも落とせば届かない。
灯は、喉の奥が乾くのを感じた。
遠ければ、見ないふりができた。
まだ無理だと思える距離なら、目の前の水面だけを見ていられた。
B1維持の数字だけを見て、今節を崩さず終えることだけを考えられた。
でも、1着なら届く。
2着では届かない。
3着でも足りない。
その近さが、怖かった。
灯はノートを開き、掲示板の数字を書き写した。
5走、26点。
得点率5.20。
残り1走。
1着、36点。
得点率6.00。
準優ボーダー圏内ギリギリ。
2着以下、届かず。
書いた文字は、冷たかった。
でも、その冷たさから目を逸らしてはいけない。
灯は、その下に書いた。
B1維持のために見た数字が、準優の線を連れてきた。
書いてから、手が止まった。
準優。
その言葉を、今まで強く意識していなかったわけではない。
どこかで、届けばいいと思っていた。
でも、本気で見てはいなかった。
目の前のレースを見ていた。
その水面で、欲しい着と取るべき着を間違えないように走っていた。
5着を4着にする。
3着を取り切る。
2着を落とさない。
そうやって走ってきた結果が、ここに並んでいる。
1着条件。
掲示板の線。
灯は、その文字を見つめた。
その時、背後から声がした。
「見た?」
榊原理央だった。
灯は振り返る。
榊原は、掲示板の方を見ていた。
灯の名前が表示されていた場所を、まっすぐに見ている。
灯は頷いた。
「はい」
「B1維持の数字を見てたんでしょ」
灯は、少し驚いて榊原を見た。
「……はい」
榊原は表情を変えなかった。
「そしたら、別の線が見えた」
灯は、掲示板を見る。
「準優の線です」
「うん」
榊原は短く頷いた。
「見えたものは、なかったことにできない」
灯は、静かに息を吸った。
「はい」
「でも、準優を欲しがると水面を間違える」
その言葉は、胸の奥にまっすぐ落ちた。
灯はノートに書く。
準優を欲しがると、水面を間違える。
榊原は続けた。
「B1を守るための数字も、準優に届くための数字も、結局は次の1走で残すしかない」
灯は、ペンを握る。
「はい」
「1着条件」
「はい」
「でも、1着だけ見たら落ちる」
灯は顔を上げた。
榊原の声は低く、淡々としていた。
「数字。相手。水面。自分の欲しがり方。全部見る」
灯は、ひとつずつ書いた。
数字。
相手。
水面。
自分の欲しがり方。
「1着が欲しい日ほど、1着だけを見ると半艇身足りなくなる」
灯は、その言葉で指先が止まった。
半艇身。
届きそうで届かない距離。
水面では何度も見てきた距離。
勝つ水面が見えたのに、出口で足りない。
追ったのに、届かない。
欲しがったぶん、艇が止まる。
その半艇身。
榊原は、掲示板から視線を外した。
「最後の出走表、見た?」
「まだです」
「見なさい」
灯は頷いた。
出走表を開く。
そこに、自分の名前があった。
1号艇、佐伯真帆。B1。
2号艇、黒瀬真帆。A2。
3号艇、森川千夏。B1。
4号艇、風見灯。B1。
5号艇、榊原理央。A2。
6号艇、白川芽衣。B1。
4号艇。
灯は、その数字で息を止めた。
4号艇。
4コース想定。
1着条件。
その組み合わせが、胸の奥で静かに鳴った。
Fを切った枠。
越えてはいけない線を越えた枠。
沙耶のいない水面で、B1として初めて勝った枠。
そして今度は、準優へ届くかどうかを決める枠。
灯は、4号艇の欄を見つめた。
また、この枠だ。
怖さも、自立も、届かなさも、全部この枠に戻ってくる。
榊原が隣から出走表を見た。
「4号艇か」
「はい」
「欲しくなる枠だね」
灯は小さく頷いた。
「1着条件なので」
「だから、危ない」
その言葉は、静かに重かった。
灯は、榊原を見る。
榊原は5号艇の欄に自分の名前があることを見ても、表情を変えなかった。
「榊原さんは、5号艇です」
「うん」
「外に……いるんですね」
「いるよ」
榊原は淡々と言った。
「灯が欲しがって流れたら、私は着を拾う」
灯は、息を止めた。
それは当然のことだった。
榊原は沙耶の師匠でも、灯の味方ではない。
同じ水面に出れば、相手だ。
灯が1着を欲しがって流れれば、榊原はその出口を拾う。
灯が深く入れば、その後ろを差す。
灯が止まれば、前へ出る。
榊原は助けない。
それどころか、灯が間違えた水面を正確に拾いに来る。
その事実が、灯の胸を冷やした。
「はい」
灯は頷いた。
榊原は、出走表を指で軽く叩いた。
「黒瀬さんもいる」
「はい」
「佐伯さんもいる」
「はい」
「森川さんもいる」
「はい」
「全員、灯の1着条件を見る」
灯は、ペンを握る手に力を入れた。
全員が見る。
準優へ届くために1着が欲しい4号艇。
その欲しがり方を、相手は見る。
「それでも、1着を見ること」
榊原は言った。
灯は顔を上げる。
「1着だけを見るな。でも、1着から目を逸らすな」
灯は、その言葉をノートに書いた。
1着だけを見るな。
でも、1着から目を逸らすな。
書きながら、胸の奥が少し震えた。
難しい。
でも、その難しい水面を走らなければならない。
1着が欲しい。
準優に届きたい。
でも、欲しがれば流れる。
守れば届かない。
2着では足りない。
3着でも足りない。
4着を拾う水面ではない。
3着を取り切る水面でもない。
勝って、届かせる水面。
けれど、勝ちたいだけで入る水面でもない。
灯は、出走表をノートに写した。
1号艇、佐伯真帆。B1。
2号艇、黒瀬真帆。A2。
3号艇、森川千夏。B1。
4号艇、風見灯。B1。
5号艇、榊原理央。A2。
6号艇、白川芽衣。B1。
4号艇。
4コース。
1着条件。
1着で得点率6.00。
ボーダーギリギリ。
2着以下、届かず。
灯は、その下に展開を書いていく。
佐伯さん、イン先マイ。
黒瀬さん、差し。
森川さん、握る。
私、4コース。
榊原さん、5コースから私の出口を見る。
白川さん、大外。
黒瀬さんの差し。
佐伯さんの出口。
森川さんの握り。
榊原さんの外。
全部見る。
それでも、1着を見る。
そこまで書いた時、少しだけ呼吸が整った。
怖さは消えない。
むしろ、はっきりしている。
でも、文字にすると、怖さに輪郭ができる。
何が怖いのか。
何を見なければならないのか。
どこで間違えそうなのか。
それが少しだけ見える。
灯は、ノートの下にゆっくり書いた。
1着を欲しがるのではない。
1着の水面を見る。
その一行を書いた瞬間、第5章の最終走が胸に戻った。
守って届く水面ではなかった。
勝って、届かせる水面だった。
あの時はB1の線だった。
今度は、準優の線。
同じではない。
でも、似ていることがある。
守って届かない。
けれど、欲しがるだけでも届かない。
見なければならない。
勝つ水面を。
灯は、掲示板をもう一度見た。
得点率ランキングは、別の表示に切り替わりかけていた。
けれど、一度見えた線は消えなかった。
B1維持のために見た数字が、準優の線を連れてきた。
遠いと思っていた線が、1着条件で目の前に出てきた。
しかも、ボーダーギリギリ。
半艇身届かないだけで、消える線。
灯は、ノートの最後にもう一行書いた。
見えた線に、飲まれない。
でも、見えなかったことにもしない。
水面を見て、数字を残す。
その下に、もう一度だけ書く。
4号艇。
1着条件。
1着を欲しがるのではない。
1着の水面を見る。
ペンを置いた時、手はまだ少し震えていた。
怖さは消えていない。
でも、その怖さは、灯を水面から遠ざけるものではなかった。
線が見えた。
条件が見えた。
相手が見えた。
そして、4号艇の水面が近づいている。
予選最終日の控室には、静かな緊張が満ちていた。
誰かが準優へ届く。
誰かが届かない。
灯は、その線のすぐ下にいる。
1着なら、ギリギリ届く。
2着以下なら、届かない。
その現実を抱えたまま、灯は4号艇のカポックへ手を伸ばした。
白ではない。
赤でもない。
青の4号艇…
かつて線を越えた色。
B1として初めて勝った色。
今度は、半艇身を届かせなければならない色。
灯は、カポックを胸に抱えた。
勝ちたい。
届きたい。
でも、欲しがるだけでは届かない。
灯は小さく息を吸う。
水面を見る。
その一言だけを胸の奥に置いて、予選最終走へ向かった。




