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第4話 オールレディース

灯は、ノートの新しいページに、これまでの数字を書き出した。

デビューからの通算成績。

86走。

1着4本。

2着11本。

3着17本。

4着23本。

5着18本。

6着13本。

F1。

数字だけを見れば、まだ強い選手ではない。

1着は、たった4本。

それでも、その4本の中には、灯にとって消えない水面があった。

初勝利。

復帰後の2勝目。

B1へ届かせた期末最終9走目。

そして、B1として初めて勝った前開催の4号艇。

どれも、ただの1着ではなかった。

灯は、その下にB1昇級後の成績も書いた。

B1昇級後、2節16走。

1着1本。

2着4本。

3着3本。

4着4本。

5着4本。

6着0本。

灯は、6着0本のところで少しだけ手を止めた。

B1になってから、まだ6着は取っていない。

それは大きい。

見えた水面を消されても、次の水面を見て残してきた。

外枠でも、沈み切らなかった。

相手に見られても、6着にはしなかった。

でも、安心できる数字でもなかった。

5着は4本ある。

4着も4本ある。

勝ったのは1本だけ。

B1として残るには、まだ薄い。

B1として強くなるには、まだ遠い。

灯は、さらに前開催の成績を書いた。

前開催。

4日間8走。

1走目、4号艇、1着。

2走目、6号艇、4着。

3走目、2号艇、3着。

4走目、5号艇、5着。

5走目、1号艇、2着。

6走目、3号艇、4着。

7走目、6号艇、5着。

8走目、2号艇、2着。

8走。

1着1本。

2着2本。

3着1本。

4着2本。

5着2本。

6着0本。

沙耶のいない水面で、灯はB1として初めて勝った。

4号艇。

4コース。

最初に見えた水面は、A2の大槻涼香に消された。

けれど、そこで止まらなかった。

消されたあとに残った水面を見て、1マークで残り、2マークで前へ出た。

B1としての初勝利。

その一行は、今もノートの中で少しだけ濃く見える。

けれど、開催全体で見れば、完璧ではなかった。

1着は取った。

でも、5着も2本取った。

1号艇では勝てなかった。

6号艇では4着と5着。

外から沈まない日はあったが、押し上げ切れない日もあった。

灯は、ノートの下に書いた。

B1として勝てた。

でも、B1として安定しているわけではない。

勝ったあとほど、見られる。

勝ったあとほど、書く。

その言葉は、沙耶から来たメッセージでもあった。

前開催が終わり、管理が解除された夜。

灯は沙耶に連絡した。

B1として初めて勝ちました。

沙耶からの返事は短かった。

見た。

リプレイで。

最初の道、消されたね。

灯は、画面を見ながら小さく笑った。

やっぱり見ている。

その場にいなくても、沙耶は水面を見ている。

灯は返信した。

はい。

でも、次が見えました。

少し間があって、返事が来た。

なら、B1の1着。

灯は、その文字を何度も読んだ。

B1の1着。

その言葉は嬉しかった。

けれど、続けて届いた沙耶の言葉が、灯の胸をもう一度引き締めた。

B1として勝ったなら、次はB1としてもっと見られるよ。

勝ったあとほど、ちゃんと書きなさい。

灯は、画面を見つめたまま息を吐いた。

勝った。

だから、見られる。

B1として初勝利を挙げたから、次はもっと消される。

自分の水面が、また相手に閉じられる。

それでも次を見る。

その数日後、次の斡旋予定が届いた。

灯は、いつものように画面を開いた。

開催名を見た瞬間、少しだけ手が止まった。

オールレディース。

水都プリンセスカップ。

女子レーサーだけの開催。

その文字には、少しだけ華やかな響きがあった。

けれど、灯はもう知っている。

華やかな水面が、優しい水面とは限らない。

女子だけだから走りやすいわけではない。

女子戦には、着を拾うのが上手い選手がいる。

細かい水面を閉じる選手がいる。

落とさないためのターンを知っている選手がいる。

1着を取れなくても2着を残す選手がいる。

2着が無理でも3着を取り切る選手がいる。

3着が危ないなら4着で止める選手がいる。

灯は、開催名をノートに書いた。

オールレディース。

水都プリンセスカップ。

女子だけの開催。

でも、優しい水面ではない。

書き終えたあと、灯は沙耶に連絡した。

次、オールレディースになりました。

返事は、すぐには来なかった。

少しして、短く届いた。

いいじゃん。

灯は画面を見ながら、少し迷ってから送った。

女子戦って、走りやすいですか。

今度は返事が早かった。

走りやすいと思った時点で危ない。

灯は、思わず背筋を伸ばした。

沙耶さんらしい。

続けて、メッセージが来る。

女子戦は、着を拾うのが上手い選手が多い。

甘い水面は、だいたい誰かが先に閉じる。

灯は、すぐにノートへ書いた。

女子戦は、着を拾う選手が多い。

甘い水面は、誰かが先に閉じる。

その下に、もう一行。

女子だけだから楽、ではない。

灯は出場予定選手を開いた。

自分の名前がある。

風見灯。

B1。

その文字には、もう少しずつ慣れてきた。

けれど、慣れてきたからこそ怖い。

B1として、見られる。

B1として、消される。

灯は、出場選手一覧を上から順に見ていった。

篠原美緒。

A1。

その名前で、指が止まった。

女子トップの絶対女王ではない。

天堂朱里や月城澪のように、名前を見ただけで場の空気が変わる存在ではない。

けれど、長くA1で残っている選手だった。

灯も名前は知っていた。

堅実型のA1。

派手な一撃よりも、落とさない走り。

1着を取れなくても2着。

2着が無理なら3着。

3着が危ないなら4着で止める。

そういう選手。

灯はノートに書いた。

篠原美緒。

A1。

中堅A1。

落とさない選手。

A1で残り続ける人。

続けて、もう一人の名前が目に入った。

榊原理央。

A2。

灯は、その名前を見た瞬間、息を止めた。

榊原理央。

どこかで聞いた名前だった。

少し考えて、すぐに思い出す。

沙耶とご飯に行った夜。

沙耶が言った。

私の師匠。

灯の胸が、静かに強く鳴った。

榊原理央。

元A1。

現A2。

三島沙耶の師匠。

灯は、ノートにそのまま書いた。

榊原理央。

A2。

元A1。

沙耶さんの師匠。

字を書きながら、指先が少し震えた。

沙耶さんにも、師匠がいる。

それは聞いていた。

でも、名前を出場表の中に見つけると、急に現実になった。

同じ開催にいる。

同じ控室にいる。

同じ水面に出るかもしれない。

灯は、思わず沙耶へメッセージを送った。

榊原理央さんがいます。

少しして、沙耶から返事が来た。

いるね。

灯は、画面を見つめる。

沙耶さんの師匠、ですよね。

返事は短かった。

そう。

それから、もう一つ。

怖いよ。

灯は、その文字を見て固まった。

沙耶が怖いと言う人。

沙耶より厳しい人。

沙耶を壊れないように支えた人。

勝ち方より先に、負け方を覚えろ。

その言葉を沙耶に渡した人。

灯は、ノートの榊原理央という文字を見た。

怖い。

でも、会ってみたい。

そう思った。

続けて、沙耶からメッセージが届いた。

篠原さんもいるでしょ。

灯は出場表を見る。

います。

強い人ですか。

返事は少しだけ間があいた。

強いよ。

灯は画面を見る。

天堂さんや月城さんみたいな感じですか。

沙耶からの返事は、短かった。

違う。

灯は少し首を傾げる。

違うんですか。

また返事。

もっと嫌な強さ。

灯は、その言葉をノートに書いた。

篠原美緒。

A1。

もっと嫌な強さ。

嫌な強さ。

その表現が、妙に胸に残った。

天堂朱里のような絶対的な強さではない。

月城澪のように水面を壊す強さでもない。

皇怜奈のようにスリットで支配する強さでもない。

もっと現実的で、もっと近くて、もっと嫌な強さ。

それはきっと、灯の入ろうとする水面を、最初から作らせないような強さなのだろう。

灯は出場予定をさらに見ていく。

黒瀬真帆。

A2。

灯はその名前でも手を止めた。

B1初戦で、灯の水面を消した選手。

展示でも本番でも、灯の入る道を先に閉じた選手。

あの感触はまだ残っている。

黒瀬もいる。

篠原美緒がいる。

榊原理央がいる。

オールレディース。

華やかな名前の下に、灯がまだ知らない水面が並んでいた。

灯はノートにまとめた。

オールレディース。

出場予定。

篠原美緒、A1。

A1で残り続ける人。

もっと嫌な強さ。

榊原理央、A2。

元A1。

沙耶さんの師匠。

勝ち方より先に、負け方を教えた人。

黒瀬真帆、A2。

私の水面を消した人。

灯は、そこまで書いてから、しばらくペンを止めた。

この開催は、ただの女子戦ではない。

B1として勝った自分が、女子レーサーたちにどう見られるのか。

篠原美緒のA1の水面。

榊原理央の残す水面。

黒瀬真帆の消す水面。

その全部の中に、自分は入っていく。

灯は、ノートの下に書いた。

女子戦でも、私は見られる。

そして、私も見る。

斡旋日が来た。

レース場に入ると、いつもと空気が少し違っていた。

オールレディース。

控室に入る選手は全員女子だった。

声の高さも、荷物の色も、雰囲気も、混合戦とは少し違う。

けれど、灯はすぐに思った。

華やかに見える。

でも、水面は甘くない。

出走表を手にした選手たちの目は、いつもと同じだった。

いや、むしろ細かい。

誰がどの枠か。

誰のスタートが早いか。

誰が差し場を拾うか。

誰が外から入ってくるか。

誰が今、上がってきているか。

そういう視線が、控室のあちこちにあった。

灯が荷物を置いた時、誰かがこちらを見た。

一瞬だけ。

すぐに視線は外れた。

けれど、灯には分かった。

見られている。

B1になった風見灯。

前開催で4号艇から勝った選手。

外から水面を見る選手。

放っておけば、着に絡むかもしれない選手。

灯は、鞄からノートを出した。

見られている。

だから、見る。

そう書いた。

その時だった。

「あなたが灯?」

背後から声がした。

灯は、ゆっくり振り返った。

そこにいたのは、背の高い女性だった。

派手さはない。

強い化粧も、目立つ雰囲気もない。

けれど、立っているだけで、周りの音が少しだけ遠くなるような人だった。

灯は、出場表の名前を思い出した。

榊原理央。

A2。

元A1。

三島沙耶の師匠。

灯は慌てて頭を下げた。

「風見灯です。よろしくお願いします」

榊原理央は、灯をまっすぐ見ていた。

その視線は、沙耶に似ているようで、少し違った。

沙耶の視線は、水面を一緒に見る視線だった。

榊原の視線は、灯そのものの中にある水面を測っているようだった。

少しの沈黙のあと、榊原は言った。

「沙耶に似てるね」

灯は、思わず顔を上げた。

「え……」

榊原は表情をほとんど変えなかった。

「怖がり方が」

その一言で、灯は言葉を失った。

沙耶に似ている。

怖がり方が。

それは、褒め言葉なのか。

注意なのか。

見抜かれたのか。

分からない。

ただ、胸の奥が静かに冷えた。

榊原理央は、灯のノートへ視線を落とした。

「書くんだ」

「はい」

「沙耶も、昔よく書いてた」

灯は息を止めた。

沙耶さんも。

沙耶さんも、昔はこうしてノートを書いていた。

沙耶さんにも、怖い水面があった。

沙耶さんにも、教わってきた時間があった。

灯は、ノートを胸元に寄せた。

「沙耶さんから、聞いています」

「何を?」

「榊原さんが、沙耶さんの師匠だと」

榊原は少しだけ目を細めた。

「師匠ね」

その言い方には、少しだけ苦笑が混じっていた。

「本人がそう言ったなら、そうなんだろうね」

灯は、榊原の言葉をどう受け取ればいいか分からなかった。

沙耶なら、もう少しはっきり言う。

でも榊原は、言葉を置いて、相手に考えさせるような人だった。

榊原は、控室の奥へ目を向けた。

「オールレディースは初めて?」

「はい」

「女子だけだから走りやすいと思ってる?」

灯はすぐに首を横に振った。

「思っていません」

榊原は、少しだけ灯を見る。

「誰かに言われた?」

「沙耶さんに」

「何て?」

灯は、ノートに書いた言葉を思い出した。

「走りやすいと思った時点で危ない、と」

榊原は、小さく笑った。

「沙耶が言いそう」

その笑いは短かった。

けれど、その一瞬だけ、榊原の表情に少しだけ柔らかさが見えた。

すぐに、また静かな顔に戻る。

「女子戦はね、甘い水面が少ない」

灯は、ノートを開いた。

「甘い水面が少ない」

「そう」

榊原は言った。

「みんな拾うから」

灯はペンを動かす。

みんな拾う。

榊原は続けた。

「1着を取りに行く選手だけじゃない。2着を守る選手、3着を拾う選手、4着で止める選手。そういう選手が多い」

灯は、沙耶の言葉と重ねた。

女子戦は、着を拾うのが上手い選手が多い。

甘い水面は、だいたい誰かが先に閉じる。

榊原は、灯のノートを見る。

「書けるなら、書けばいい」

「はい」

「でも、書いた水面がそのまま来るとは限らない」

その言葉は、入江真白の進入を思い出させた。

灯は頷いた。

「はい」

「じゃあ、最初に何を見る?」

灯は、少し考えた。

出走表。

進入。

スタート。

1マーク。

相手。

自分の位置。

いくつも答えはある。

でも、榊原の前で、簡単に言ってはいけない気がした。

灯は、ゆっくり答えた。

「消される場所を見ます」

榊原の目が、少しだけ細くなる。

「どうして?」

「見えた水面は、相手も見るからです」

灯は、自分のノートを思い出した。

「だから、最初に見えた場所が空いているとは限りません」

「それで?」

「消されたあとに、どこが残るかを見ます」

榊原は、しばらく黙った。

灯の胸が少しだけ強く鳴る。

間違えたのか。

浅かったのか。

怖くなった。

けれど、榊原は静かに言った。

「沙耶が教えたんだね」

灯は頷いた。

「はい」

「なら、次は自分の水面で確かめなさい」

その言葉は、厳しくも、突き放すものではなかった。

灯は、はっきり頷いた。

「はい」

その時、控室の入口付近で別の選手の声がした。

「榊原さん、呼ばれてます」

榊原は軽く手を上げた。

それから、去り際に灯をもう一度見た。

「怖がり方が似てるなら、壊れ方も似るかもしれない」

灯の背筋が冷えた。

榊原は淡々と続ける。

「壊れたくないなら、負け方を間違えないこと」

そう言って、榊原理央は控室を出ていった。

灯は、しばらくその場に立っていた。

怖がり方が似ている。

壊れ方も似るかもしれない。

負け方を間違えないこと。

沙耶から聞いた言葉が、胸の中で重なる。

勝ち方より先に、負け方を覚えろ。

灯はノートを開いた。

榊原理央。

沙耶さんの師匠。

怖がり方が似ている。

壊れ方も似るかもしれない。

負け方を間違えないこと。

灯は、その最後の行をじっと見た。

負け方。

まだ、うまく分からない。

勝ちたい。

B1として勝ちたい。

オールレディースでも結果を残したい。

篠原美緒のようなA1に、どこまで通用するのか知りたい。

黒瀬真帆に、もう一度消されたくない。

榊原理央に、沙耶の弟子として恥ずかしくない走りを見せたい。

その気持ちがある。

でも、榊原が言ったのは、勝ち方ではなかった。

負け方。

灯は、ノートの下に書いた。

オールレディース。

水都プリンセスカップ。

女子だけの開催。

でも、優しい水面ではない。

篠原美緒。

榊原理央。

黒瀬真帆。

私は、見られる。

そして、消される。

その時、どんな負け方をするか。

そこから見なければいけない。

灯はペンを置いた。

控室の向こうから、水面の音が聞こえる。

華やかな名前の開催が、もうすぐ始まる。

けれど、灯の胸に残っているのは、華やかさではなかった。

負け方を間違えるな。

その言葉だった。

沙耶さんの師匠がいる。

A1で残り続ける篠原美緒がいる。

自分の水面を消した黒瀬真帆がいる。

その中で、B1の風見灯は、どんな水面を見つけられるのか。

灯はノートを閉じる。

怖さはある。

でも、もうその怖さを消そうとは思わなかった。

怖いまま、見る。

怖いまま、書く。

怖いまま、自分の水面へ向かう。

オールレディースの最初の水面が、近づいていた。

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