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第3話 沙耶さんのいない水面

次の斡旋先に、三島沙耶の名前はなかった。

そのことに気づいた時、灯は自分でも少し驚いた。

出走表を見る前に、沙耶の名前を探していた。

同じ開催にいるか。

同じ控室にいるか。

自分のレースを見てくれるか。

展示のあとに、どう見えたかを聞けるか。

そんなことを、無意識に考えていた。

けれど、今節の出場選手一覧に、三島沙耶の名前はなかった。

沙耶は別場の斡旋に入っていた。

A1としての斡旋。

自分とは違う水面へ行っている。

灯は、出場選手一覧の画面を閉じて、ノートを開いた。

沙耶さんはいない。

その一行を書いたあと、しばらくペンが止まった。

沙耶がいない。

それだけのことだった。

プロになった以上、いつも同じ開催にいるわけではない。

師匠だからといって、いつでも控室で見てくれるわけではない。

そんなことは分かっている。

それでも、灯は胸の奥が少しだけ空いたように感じた。

B1になってからの最初の開催で、灯は4着を取った。

見えた水面を消された。

そのあとに残った4着の水面を見た。

次のレースでは、A1になった沙耶が3着を残す水面を見た。

A1だから消される。

見られるから、止めに来られる。

それでも、次を見る。

沙耶はそう走っていた。

灯はその水面をノートに書いた。

何度も読み返した。

でも、今節はその沙耶がいない。

展示のあと、聞けない。

レース後、すぐに見てもらえない。

見えた水面が正しかったのか。

消されたあとの次を見られていたのか。

全部、自分でノートに書いて、自分で考えなければならない。

灯は、ノートの下にもう一行書いた。

沙耶さんはいない。

でも、沙耶さんの言葉は残っている。

その文字を見て、少しだけ呼吸が整った。

沙耶はいない。

けれど、何も残っていないわけではない。

消されたら、次を見る。

4着を捨てるな。

数字だけで走るな。

水面を見る。

6着も書け。

勝ったあとに崩れるな。

B1は、見られた上で残るところから。

その言葉は、ノートの中にあった。

灯の中にも、少しずつ残り始めていた。

今節初日の出走表を見た。

1号艇、野崎美咲。B1。

2号艇、久野彩葉。B1。

3号艇、大槻涼香。A2。

4号艇、風見灯。B1。

5号艇、水谷紗和。B1。

6号艇、橋本梨花。B1。

灯は4号艇だった。

4コース想定。

4号艇。

その数字を見ただけで、胸の奥にいくつもの水面が重なる。

Fを切った4号艇。

2勝目を取った4号艇。

皇怜奈に線の手前を教わった4号艇。

沙耶が優勝戦で3着を残した4号艇。

そして今は、B1として勝ちたい4号艇。

灯は、4号艇の欄をじっと見た。

B1としての初勝利。

その言葉が、自然に胸の中へ浮かんだ。

B1にはなった。

でも、B1としてはまだ勝っていない。

昇級を決めた最終9走目は、B1になるための1着だった。

今日勝てば、それはB1としての最初の1着になる。

勝ちたい。

そう思った。

けれど、灯はすぐにノートへ書いた。

勝ちたい。

でも、勝ちたいだけで入らない。

勝つ水面が見えたら入る。

4号艇。

4コース。

3号艇、大槻さん。A2。

センターから攻める。

私はその外。

大槻涼香。

A2。

灯は3号艇の名前に線を引いた。

A2のセンター。

灯が入ろうとする道を、見てくる可能性がある。

1号艇の野崎はインから大きく崩れないタイプ。

2号艇の久野は差し残し。

3号艇の大槻はセンターから握る。

5号艇の水谷は、灯が流れれば外から絡む。

6号艇の橋本も、大外から最後まで追う。

灯は展開を書いていく。

1号艇先マイ。

2号艇差し。

3号艇握る。

4号艇、自分。

3号艇が流れた時、その内。

2号艇の出口。

1号艇の流れ。

そこに水面。

書きかけて、灯はペンを止めた。

そこは、消されるかもしれない。

B1になってから、灯は知った。

見える水面は、相手も見る。

灯が入る道は、相手が消しに来る。

特に、A2の大槻は灯を見てくるはずだった。

外にいる4号艇。

B1になったばかり。

期末に5号艇から勝って上がってきた選手。

水面を見て入る選手。

放っておけば、着に絡むかもしれない選手。

灯はもう、知られていない新人ではない。

ノートの端に書く。

最初の水面は、消される前提で見る。

消されたあと、どこが残るか。

展示航走の時間が近づいた。

灯は4号艇のカポックを手に取った。

ふと、控室の端を見てしまう。

沙耶はいない。

いつもなら、出走表を見ている沙耶の姿がある。

灯が展示から戻れば、短く「どう見えた?」と聞いてくれる人がいる。

でも、今日はない。

灯は、小さく息を吸った。

沙耶さんはいない。

だから、自分で見る。

6艇がピットを離れた。

1号艇、野崎美咲。

2号艇、久野彩葉。

3号艇、大槻涼香。

4号艇、灯。

5号艇、水谷紗和。

6号艇、橋本梨花。

進入は枠なり。

1、2、3。

4、5、6。

灯は4コース。

起こし。

大時計。

線を見る。

その手前に艇を置く。

怖さはある。

でも、Fの時のような怖さとは違った。

置いていかれる怖さではなく、見られている怖さ。

勝ちたい怖さ。

B1として勝ちたい怖さ。

スリット。

展示STは0.15ほど。

悪くない。

1号艇も2号艇も置いていない。

3号艇の大槻は少し踏み込んでいる。

1マーク。

野崎が先に回る。

久野が差す。

大槻が3コースから握る。

灯は4コース。

大槻の艇が少し外へ流れるように見えた。

灯には、その内が見えた。

3号艇の内。

2号艇の外。

1号艇の出口。

そこへ入れば、2着から3着がある。

身体が反応する。

灯が艇を向けようとした瞬間、大槻の艇がわずかに角度を変えた。

灯の入る場所を、先に閉じるような動きだった。

強引ではない。

危険でもない。

ただ、灯が見ていた水面を分かっていたように、そこを使わせなかった。

消された。

灯は展示の中で、その言葉をはっきり感じた。

けれど、そこで止まらなかった。

大槻が灯の道を消したぶん、大槻自身の出口が少し重くなる。

第2話で沙耶が言っていた。

相手を消すってことは、自分の出口も少し使う。

その後ろに、水面が残る。

灯は、消された内ではなく、大槻の出口の後ろを見た。

3着ではない。

2着でもない。

でも、残る水面。

4着から、うまくいけば3着。

展示ではそこへ艇を置いた。

バックでは3番手から4番手あたり。

2マーク。

大槻の出口が少し重い。

久野の差しも完全には伸びていない。

水面はある。

勝つ水面かどうかは、まだ分からない。

展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

展示。

4号艇。

4コース。

ST 0.15。

1マーク。

3号艇大槻さんが握る。

最初に見えた水面。

3号艇の内。

でも、大槻さんに消された。

消されたあと、大槻さんの出口が重い。

その後ろに水面。

2マークまで見る。

灯は、そこまで書いてからペンを止めた。

勝つ水面は、1マークだけでは決まらない。

そう書き足した。

第5章の最終9走目もそうだった。

1マークで道へ入った。

でも、2マークまで見続けて先頭に立った。

今日も同じかもしれない。

4号艇から、最初の水面は消される。

なら、1マークで終わらせない。

2マークまで見る。

控室の隅から、大槻涼香が戻ってきた。

灯と目が合う。

大槻は軽く頷いた。

「見えてたね」

灯は一瞬だけ、返事に迷った。

「はい」

「でも、あそこは簡単には渡さないよ」

その言葉に、灯の胸が少しだけ強く鳴った。

やっぱり、見られていた。

大槻は、灯があそこを見ることを分かっていた。

灯は、ゆっくり頷く。

「分かりました」

大槻は少しだけ笑った。

「本番も来る?」

灯は、ノートを閉じた。

「見えたら、行きます」

その答えに、大槻の表情が少し変わった。

面白がるような、警戒するような顔だった。

「B1になったんだね」

大槻はそう言って、自分の席へ戻った。

灯は、その背中を見た。

B1になったんだね。

その言葉は、褒め言葉にも、警戒にも聞こえた。

灯は、胸の中で繰り返す。

見えたら、行く。

でも、最初の道だけではない。

消されたあとも、見る。

本番の時間が来た。

灯は4号艇に乗り込む。

水面の音が近い。

沙耶はいない。

だけど、ノートはある。

沙耶の言葉もある。

消されたら、次を見る。

6艇がピットを離れる。

進入は展示と同じ。

1号艇、野崎。

2号艇、久野。

3号艇、大槻。

4号艇、灯。

5号艇、水谷。

6号艇、橋本。

1、2、3。

4、5、6。

4コース。

起こし。

大時計。

勝ちたい。

B1として勝ちたい。

でも、勝ちたいだけで入らない。

線を見る。

1マークを見る。

大槻を見る。

その先を見る。

スリット。

STは0.14。

展示より少し踏み込めている。

置いていない。

越えていない。

大槻も速い。

1マークへ向かう。

野崎が先に回る。

久野が差す。

大槻が握る。

灯は4コース。

展示と同じ水面が見えた。

3号艇の内。

2号艇の外。

1号艇の出口。

そこへ入れば前へ出られる。

身体が反応する。

けれど、大槻も動いた。

展示と同じ。

いや、本番の方が少し早い。

灯が入る水面を、閉じに来る。

最初の水面が消える。

灯は、そこを追わなかった。

消された水面に未練を残さない。

大槻が灯の道を消す。

そのぶん、大槻の出口が重くなる。

外へ流れた大槻の艇。

差し切れずに出口が重い久野。

先に回った野崎は残っているが、少し流れている。

その後ろ。

そこに、水面がある。

灯は艇を向けた。

大槻の後ろ。

久野の外。

野崎の出口。

狭い。

でも、残っている。

深く入りすぎない。

でも、置かない。

波を踏む。

艇が跳ねる。

それでも、止めない。

バックストレッチ。

1号艇、野崎が先頭。

2号艇、久野が2番手。

4号艇、灯が3番手争い。

3号艇、大槻が外にいる。

5号艇、水谷も続く。

まだ勝っていない。

まだ前は遠い。

けれど、展示より前にいる。

灯は、2マークを見る。

勝つ水面は、1マークだけでは決まらない。

2マーク。

野崎が先に回る。

久野が2番手で入る。

大槻が外から迫る。

灯は3番手争い。

久野の出口が少し重い。

大槻は1マークで外を使ったぶん、入りが少し深い。

灯には、久野の内が見えた。

差せる。

ただし深い。

入れば2番手。

うまくいけば、その先。

入らなければ3着か4着。

灯は一瞬、迷った。

勝ちたい。

B1として勝ちたい。

でも、勝ちたいだけで入れば、止まる。

水面を見る。

久野の出口。

大槻の角度。

野崎の流れ。

水面は、ある。

灯は艇を入れた。

久野の内。

大槻の前。

深く入りすぎない。

出口を残す。

艇が前へ向く。

バックへ出る。

2号艇、久野と並ぶ。

1号艇、野崎が前。

灯は2番手争い。

2周1マーク。

野崎が先に回る。

灯は2番手争いから、野崎を追う。

久野が内から残そうとする。

大槻が後ろから来る。

灯には、野崎の出口が少し重く見えた。

インで先に回っている。

でも、完全には伸びていない。

2マークで勝負できる。

2周2マーク。

野崎が先に入る。

灯は外。

久野は内にいる。

大槻も後ろから圧をかける。

ここで守れば2着。

B1としての大きな2着。

悪くない。

十分に残せる。

でも、灯には見えた。

野崎の出口。

久野の位置。

自分の艇の向き。

外から先に出口を作れる水面。

勝つ水面。

灯は息を吸った。

勝ちたいから入るんじゃない。

勝つ水面が見えたから入る。

艇を向ける。

外を回る。

波を越える。

出口を残す。

野崎の艇と並ぶ。

バックへ出る。

灯の艇が、前に出た。

先頭。

4号艇、風見灯。

先頭。

その瞬間、胸の奥が熱くなった。

でも、すぐに水面へ意識を戻す。

まだ終わっていない。

3周目がある。

前に出た時ほど、怖い。

守りたい気持ちが出る。

でも、守りすぎれば艇が止まる。

灯は、前を走りながら水面を見る。

3周1マーク。

野崎が追ってくる。

久野もまだいる。

大槻も諦めていない。

灯は先に回る。

出口を残す。

3周2マーク。

最後。

ここで止まれば、全部失う。

灯は艇を返した。

深くなりすぎない。

出口を残す。

前へ向ける。

ゴールラインが見える。

4号艇。

風見灯。

1着。

ゴール。

1着、4号艇、風見灯。

2着、2号艇、久野彩葉。

3着、1号艇、野崎美咲。

4着、3号艇、大槻涼香。

5着、5号艇、水谷紗和。

6着、6号艇、橋本梨花。

灯は、モニターを見た。

4号艇。

風見灯。

1着。

B1として、初めての1着。

沙耶さんのいない開催で、初めての1着。

見られて、消されて、それでも次を見て取った1着。

しばらく、息ができなかった。

嬉しい。

けれど、それ以上に、胸の奥が静かだった。

第5章の9走目とは違う。

あの時は、勝ってB1へ届かせた。

今日は、B1として勝った。

控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

手が震えている。

でも、書いた。

4号艇。

4コース。

1着。

B1として初勝利。

沙耶さんはいなかった。

でも、沙耶さんの言葉はノートにあった。

最初の水面は消された。

3号艇大槻さんが私を見て、先に閉じた。

でも、消されたあとに水面が残った。

相手を消すと、自分の出口も使う。

その後ろを見る。

1マーク。

2マーク。

先頭。

見られても、勝てた。

沙耶さんのいない水面で、私はB1として勝った。

灯は、最後の一行を見つめた。

沙耶さんのいない水面で、私はB1として勝った。

その文字が、少しだけ揺れて見えた。

泣きそうになっていると気づいて、灯は慌てて瞬きをした。

ここは控室だ。

まだ今節は終わっていない。

勝ったあとに崩れるな。

沙耶の声が、胸の中で聞こえた気がした。

灯は深く息を吸う。

勝った。

でも、終わりではない。

B1として勝った。

だからこそ、次が大事。

その時、大槻涼香が戻ってきた。

4着だった。

灯は立ち上がる。

「ありがとうございました」

大槻は少しだけ苦笑した。

「やられた」

「いえ……」

「最初のところ、消したんだけどね」

灯は頷いた。

「はい。消されました」

「そのあとを見られたら、こっちが重くなる」

大槻はタオルで首元を拭きながら言った。

「いい1着だったよ」

灯は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

「ありがとうございます」

「次から、もっと消すけど」

大槻は軽く言った。

灯は、少しだけ笑った。

「次も、見ます」

「それでいいんじゃない」

大槻はそう言って、自分の席へ戻った。

灯はノートに書き足した。

次から、もっと消される。

でも、次も見る。

その日のレースが終わるまで、灯は通信機器を触れなかった。

沙耶にすぐ報告したい気持ちはあった。

でも、開催中はできない。

だから、ノートに書いた。

何度も書いた。

B1として初勝利。

沙耶さんのいない水面。

見られても、勝てた。

開催を終え、管理が解除された夜。

灯は、通信機器を受け取ると、少しだけ迷ってから沙耶にメッセージを送った。

B1として初めて勝ちました。

送信してから、灯は画面を見つめた。

返事は、少ししてから来た。

見た。

灯は、目を丸くした。

見てたんですか。

すぐに返事が来る。

リプレイで。

その次に、もう一つ。

最初の道、消されたね。

灯は、思わず笑ってしまった。

やっぱり沙耶さんだ。

見ている。

その場にいなくても、見ている。

灯は返信した。

はい。

でも、次が見えました。

少し間があった。

それから、沙耶の返事が届いた。

なら、B1の1着。

灯は、その文字を見つめた。

B1の1着。

その言葉で、胸の奥にあった静かな熱が、ようやく形になった。

沙耶さんはいなかった。

けれど、沙耶さんの言葉はあった。

灯はノートを開き、最後にもう一行書いた。

師匠がいなくても、水面は見なければならない。

でも、教わった水面は、私の中に残っている。

その下に、少しだけ迷ってから書く。

B1として、最初の1着。

次の水面へ。

灯はペンを置いた。

嬉しさはある。

けれど、浮かれすぎてはいけない。

次から、もっと見られる。

もっと消される。

それでも、今日勝てた。

沙耶のいない水面で、自分の判断で、次の水面を見て勝てた。

その事実は、灯の中で小さな芯になった。

もう、すべてを沙耶に聞いてから走るわけにはいかない。

聞けない水面もある。

ひとりで見る水面もある。

その中で、教わったものを使う。

灯はノートを閉じた。

夜の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っている。

B1レーサー。

まだ強くはない。

まだ消される。

まだ迷う。

でも、今日、灯はひとつ勝った。

沙耶さんのいない水面で。

それが、初めて灯が自分の足で踏んだ、水面の感触だった。

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