第7話 同じ線を見る人
デビューして、3期目の初開催。
出走表の中に、灯はその名前を見つけた。
朝倉由芽。
B2。
灯より、ひとつ先にプロの水面へ出た選手。
完全な同期ではない。
遠い先輩でもない。
少しだけ先に、同じ水面で苦しんできた人。
灯が初めてB1の線を数字として見始めた時、由芽はその線の近くに、もう少し前からいた。
勝ちは少ない。
でも、沈まない。
6着が少ない。
4着が多い。
3着を拾う。
成績表で見た由芽の数字は、灯のものとは違っていた。
灯は勝って近づいた。
初勝利。
2勝目。
2着。
3着。
そういう数字で、勝率を少しずつ押し上げてきた。
でも、その分、5着や6着もまだ残っている。
前を見すぎれば深くなる。
勝ちたい気持ちが強くなれば、線の手前が怖くなる。
一方で、由芽の数字には派手な勝ちは少なかった。
けれど、大きく崩れない。
4着で残す。
3着を拾う。
5着に落ちそうな水面で、4着に留める。
6着に沈みそうな展開で、5着に残す。
勝って近づく水面。
沈まずに近づく水面。
どちらも、B1へ続いている。
灯はノートに出走表を書き写した。
1号艇、笹原美緒。B1。
2号艇、川端莉奈。A2。
3号艇、朝倉由芽。B2。
4号艇、野崎遥。B1。
5号艇、風見灯。B2。
6号艇、森下千夏。B1。
全員、女子。
灯は5号艇。
由芽は3号艇。
3期目の初開催。
その最初の同レースで、由芽と並ぶ。
灯は、3号艇の欄を見つめた。
朝倉由芽。
デビュー4期目。
B1の線を、少し前から見ている人。
控室で由芽を見つけると、灯は自然と背筋を伸ばした。
由芽は、以前と大きく変わっていなかった。
派手な空気はない。
自分を大きく見せるようなところもない。
淡々としている。
けれど、その淡々とした雰囲気の中に、以前より少しだけ芯のようなものが見えた。
「朝倉さん」
灯が声をかけると、由芽は顔を上げた。
「風見さん」
「同じ開催ですね」
「はい」
由芽は短く頷いた。
「3期目の初開催ですか」
「はい」
灯は少し驚いた。
「分かるんですか」
「成績表を見ました」
由芽は淡々と言った。
「風見さん、B1の線が見えてきています」
その言葉に、灯の胸が少しだけ強く鳴った。
B1の線。
自分のノートに書いたばかりの言葉。
まだ届いていない。
でも、見える。
その線を、由芽も見ている。
灯は少し迷ってから聞いた。
「朝倉さんも、見ていますか」
由芽は、すぐには答えなかった。
少しだけ出走表に目を落とす。
それから、静かに頷いた。
「見ています」
短い答えだった。
けれど、そこにはごまかしがなかった。
由芽も、B1を見ている。
それは、灯の胸に静かな緊張を生んだ。
仲間。
近い先輩。
同じB2。
でも、それだけではない。
同じ線を見る相手。
由芽は言った。
「風見さんは、勝って近づける人です」
灯は、少し言葉に詰まった。
「私は……まだ、そんなに勝てません」
由芽は、自分の手元の出走表を見ながら続ける。
「だから、沈まないようにしています」
「沈まないように」
「はい」
由芽は灯を見た。
「勝てない日を、6着にしないように」
その言葉は、灯の中にすっと入ってきた。
勝てない日を、6着にしない。
由芽らしい言葉だった。
勝つ、ではない。
沈まない。
その差が、成績表の数字にそのまま出ている。
灯はノートを開き、由芽の言葉を書いた。
勝てない日を、6着にしない。
書きながら、胸の奥が少し重くなる。
灯は勝ちたい。
B1の線が見えた今、前よりも強くそう思う。
1着を取れば、大きい。
2着なら近づく。
3着でも十分に残る。
でも、その考えが強くなればなるほど、5着や6着の怖さが大きくなる。
由芽は、その怖さの中で、沈まないことを選んでいる。
灯は、顔を上げた。
「朝倉さんは、勝ちたいと思わないんですか」
由芽は、少しだけ目を伏せた。
「思います」
その答えは、思っていたより強かった。
「でも、今の私は、勝ちに行くと沈むことがあります」
灯は黙る。
由芽は続けた。
「だから、まず沈まない場所を取ります」
「それで、B1へ近づくんですか」
「はい」
由芽の声は変わらない。
「遠回りかもしれません。でも、私にはそれが近いです」
灯は、ペンを握ったまま由芽を見た。
遠回りに見える道が、その人にとっては一番近い。
自分にとっての水面と、由芽にとっての水面は違う。
灯はノートに書いた。
由芽さん。
勝てない日を沈まない。
遠回りに見えるけど、由芽さんには近い道。
展示航走の時間が近づいた。
灯は5号艇のカポックを手に取る。
全員女子戦。
細かい差が着順に出る水面。
1号艇の笹原美緒は、インから大きく崩れないタイプ。
2号艇の川端莉奈はA2。
差しが鋭い。
3号艇の由芽は、握りすぎず、出口を残す。
4号艇の野崎遥は、カドから攻める。
灯は5コース。
6号艇の森下千夏は外から追ってくる。
灯はノートに見る2艇を書く。
4号艇。
6号艇。
そして、その下にもうひとつ書いた。
3号艇、朝倉さん。
今日は、由芽の水面を見る必要がある。
3着を取りに行く自分。
3着を残す由芽。
その違いを、水面で見なければならない。
6艇がピットを離れた。
1号艇、笹原美緒。
2号艇、川端莉奈。
3号艇、朝倉由芽。
4号艇、野崎遥。
5号艇、灯。
6号艇、森下千夏。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
由芽は3コース。
展示の起こし。
大時計が視界に入る。
今期の成績表から、2期目のFはもう消えている。
でも、灯の身体から消えたわけではない。
4号艇。
4コース。
F。
あのページは、今もノートの中にある。
ただ、今日はそれだけではない。
5号艇。
4着。
3着。
4号艇。
1着。
6号艇。
4着。
復帰節のページもある。
怖さだけではない。
積んだ数字も、同じノートにある。
スリット。
灯は置いていない。
越えてもいない。
展示STは0.17ほど。
悪くない。
けれど、5コースから前は遠い。
1マーク。
笹原が先に回る。
川端が2コースから差す。
由芽は3コースから無理に握らない。
外に張りすぎず、内へ落としすぎず、出口を残す。
野崎がカドから攻める。
灯は5コース。
野崎の外にいる。
森下がさらに外から来る。
野崎の攻めで、由芽の外に水面が一瞬できたように見えた。
灯には、野崎の内が見える。
入れるかもしれない。
3着が見えるかもしれない。
でも、深い。
そこへ入れば、出口を失う。
展示の灯は、無理に入らなかった。
外から出口を残す。
バックでは、川端が前。
笹原が残る。
由芽が3番手付近。
灯は4番手から5番手。
2マーク。
灯には由芽の内が見えた。
けれど、由芽は内を完全には渡していない。
強く締めているわけではない。
無理に守っているわけでもない。
ただ、差されるほどは空けていない。
灯は、そこに不思議な強さを感じた。
派手ではない。
でも、崩れない。
展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
5号艇。
5コース。
ST 0.17。
置いていない。
越えていない。
1マーク。
2号艇差し。
1号艇残す。
3号艇朝倉さん、無理に握らない。
出口を残す。
4号艇が攻める。
私は4号艇の内を見た。
深い。
2マーク。
朝倉さんの内が見えた。
でも、完全には空いていない。
守っているというより、残す場所にいる。
灯は、その最後の行をじっと見つめた。
残す場所にいる。
由芽は、3着を取りに行くというより、3着を失わない位置にいた。
灯は、そこが気になった。
自分はどうしても、見えた水面に入ることを考える。
入って、前へ行く。
3着を取る。
2着を見る。
勝ち筋を見る。
でも、由芽は違う。
最初から、崩れない位置にいる。
そこから3着を残す。
灯はノートに書いた。
私は、3着を取りに行く。
朝倉さんは、3着を失わない位置にいる。
そこへ由芽が戻ってきた。
「展示、見ていました」
灯は顔を上げる。
「私も、朝倉さんを見ていました」
由芽は少しだけ目を瞬かせた。
「私を、ですか」
「はい」
灯はノートを見せるか迷ったが、閉じずにそのまま言った。
「朝倉さんは、出口を失わないんですね」
由芽は少し考えた。
「失うと、すぐ沈むので」
その言い方が、あまりにも淡々としていた。
でも、そこには由芽の時間があった。
何度も沈みかけて、何度も残してきたからこその言葉。
「勝ちに行く時も、出口を見ますか」
灯が聞くと、由芽は首を横に振った。
「まだ、勝ちに行くのは下手です」
灯は、少し驚いた。
由芽は続ける。
「でも、3着と4着を残すのは、少し分かってきました」
その言葉に、灯は胸の中で何かが動くのを感じた。
由芽は、自分のできることを知っている。
できないことも知っている。
勝ちに行くのは下手。
でも、残すのは少し分かってきた。
その自己評価の正確さが、由芽の沈まない数字を作っている。
灯は言った。
「私は、勝ちを見すぎる時があります」
「知っています」
由芽は即答した。
灯は思わず苦笑する。
「分かりますか」
「はい。風見さんは、水面が見えた時に前へ行きます」
「それが悪いですか」
「悪くないです」
由芽は、静かに答えた。
「でも、全部の水面が前へ行く水面ではないです」
その言葉は、三島や雨宮の言葉とは違う角度で灯に刺さった。
全部の水面が、前へ行く水面ではない。
灯はすぐにノートに書いた。
全部の水面が、前へ行く水面ではない。
由芽は、その文字を見て少しだけ表情を緩めた。
「書くんですね」
「書かないと、忘れます」
「私も、書きます」
由芽は自分のメモ帳を軽く見せた。
そこには、短い文字が並んでいた。
出口。
深い。
残す。
無理しない。
でも置かない。
灯のノートよりも、ずっと短い。
けれど、由芽らしい言葉だった。
本番の時間が来た。
灯は5号艇に乗り込む。
水面の音が近くなる。
5コース。
由芽は3コース。
同じ線を見る相手が、内にいる。
灯は胸の中で、B1ラインという文字を思い出した。
まだ届いていない。
でも、見える。
その線の近くに、由芽もいる。
今日は、その由芽と同じ水面で走る。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1号艇、笹原。
2号艇、川端。
3号艇、由芽。
4号艇、野崎。
5号艇、灯。
6号艇、森下。
1、2、3。
4、5、6。
5コース。
起こし。
大時計。
灯は時計を見る。
置かない。
越えない。
水面に入る。
スリット。
STは0.16。
展示より少し踏み込めている。
悪くない。
4号艇の野崎も遅れていない。
3号艇の由芽も、置かれていない。
1マークへ向かう。
笹原が先に回る。
川端が差す。
由芽は3コースから無理に外へ張らない。
野崎がカドから攻める。
灯は5コースから、その外にいる。
野崎の攻めで、由芽の外側と、野崎の内側に水面ができる。
灯には見えた。
入れる。
3着へ届くかもしれない。
けれど、深い。
灯の身体が、少し内へ向きかける。
3着。
B1の線。
由芽より前へ。
その言葉が、胸の奥で一瞬だけ強くなる。
でも、次の瞬間、由芽の言葉が浮かんだ。
全部の水面が、前へ行く水面ではない。
灯は、深く入りすぎなかった。
野崎の外を受けすぎず、森下を外に残しすぎない。
出口を残す。
バックストレッチ。
2号艇の川端が差して先頭。
1号艇の笹原が2番手。
3号艇の由芽が3番手。
灯は4番手争い。
野崎は外で少し重い。
森下はさらに外。
灯は、悪くない位置にいる。
けれど、3着は由芽が持っている。
2マーク。
由芽が先に回る。
灯には、由芽の内が見えた。
入れるか。
いや、完全には空いていない。
由芽は内を強く締めているわけではない。
でも、差されるほど渡していない。
出口を残しながら、3着の位置を守っている。
灯は艇を向けかけた。
深い。
ここで無理に入れば止まる。
野崎に差し返される。
森下にも絡まれる。
灯は、由芽の内を諦め、出口を残した。
4番手。
2周1マーク。
由芽は3番手で回る。
大きなことはしない。
派手なターンではない。
でも、艇が止まらない。
内を渡さない。
外へ流れすぎない。
灯は追う。
3着の背中は見える。
でも、近づけそうで近づけない。
由芽は速いわけではない。
強く攻めているわけでもない。
ただ、落ちない。
それが、こんなにも追いにくいものなのかと、灯は初めて知った。
2周2マーク。
灯はもう一度、由芽の内を見る。
少しだけ空いたように見える。
だが、由芽は出口へ先に艇を向けていた。
灯が入る前に、差し場が消える。
篠宮大和のように水面を裂くわけではない。
雨宮琴葉のように静かに勝ち切るわけでもない。
それでも、由芽は灯の3着を消している。
沈まないことで、前を渡さない。
灯は、4番手のまま。
3周目。
川端が先頭。
笹原が2番手。
由芽が3番手。
灯が4番手。
野崎が5番手。
森下が6番手。
最後の1マーク。
灯は、まだ由芽を追う。
3着。
届きたい。
でも、今日の由芽は崩れない。
最後の2マーク。
由芽が少し外へ流れた。
灯には、内が見えた。
入りたい。
ここで入れば、3着に届くかもしれない。
けれど、深い。
出口がない。
灯は、一瞬だけ迷った。
その一瞬で、由芽は出口を残した。
灯は入らなかった。
4着を残す。
ゴール。
1着、2号艇、川端莉奈。
2着、1号艇、笹原美緒。
3着、3号艇、朝倉由芽。
4着、5号艇、風見灯。
5着、4号艇、野崎遥。
6着、6号艇、森下千夏。
灯は、モニターを見た。
5号艇。
風見灯。
4着。
3号艇。
朝倉由芽。
3着。
たった1つの着順差。
けれど、その1つが、今の灯には大きく見えた。
自分は悪くなかった。
5コースから沈まなかった。
4着を残した。
それは、B1への道として間違いではない。
でも、由芽は3着を残した。
勝ってはいない。
2着でもない。
けれど、確実に結果の中に入った。
控室に戻ると、灯はノートを開いた。
5号艇。
5コース。
4着。
3号艇、朝倉さん。
3着。
私は3着を取りに行った。
朝倉さんは、3着を失わない位置にいた。
勝つ水面。
残す水面。
どちらもB1へ続く。
でも今日は、朝倉さんの方がB1に近い走りをした。
書いてから、灯はしばらくその文字を見つめていた。
悔しい。
4着は悪くない。
でも悔しい。
由芽に負けたからではない。
由芽の水面を見たからだった。
勝たなくても、B1へ近づく走りがある。
その現実を、目の前で見せられた。
由芽が戻ってきた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
灯は顔を上げる。
「朝倉さん、3着でしたね」
「はい」
由芽は頷いた。
「でも、勝てませんでした」
その言葉は、由芽らしかった。
3着を取っても、勝てなかった事実を消さない。
灯は言った。
「私は、3着を取りに行って4着でした」
由芽は少しだけ考えた。
「風見さんは、前を見ていました」
「朝倉さんは?」
「私は、沈まない場所を見ていました」
灯は、その言葉を胸の中で繰り返した。
沈まない場所。
由芽は、勝てない日を沈まないように走ると言った。
その言葉を、今日のレースでそのまま見せた。
「B1に上がるには、勝つだけでは足りません」
由芽は、静かに言った。
「でも、勝てないからといって沈んでもいけません」
灯は頷いた。
「はい」
「風見さんは、勝てる人です」
その言葉に、灯は少し驚いた。
由芽は続ける。
「私は、まだ勝ち切れません」
灯は、何か言おうとして止まった。
慰めの言葉は、由芽には合わない気がした。
由芽は自分の弱さを、正確に見ている。
その上で、沈まない道を選んでいる。
「でも」
由芽は、ほんの少しだけ表情を引き締めた。
「B1には、近づきます」
灯は息を止めた。
それは、宣言だった。
静かで、淡々としている。
でも、はっきりした宣言。
朝倉由芽は、B1を見ている。
勝てないから諦めるのではない。
勝てないなら、沈まないことで近づく。
灯は、自分のノートを閉じかけて、もう一度開いた。
最後に書き足す。
私は勝って近づく。
朝倉さんは、沈まずに近づく。
同じ線を見ている。
でも、見ている水面は違う。
デビュー3期目の初開催。
灯は4着。
由芽は3着。
たった1つの着順差だった。
けれど、その差の中に、B1への近づき方の違いがあった。
灯はノートの最後に、もう一行書いた。
次は、その水面に負けない。
ペンを置いて、灯は顔を上げた。
由芽はもう、自分のノートに何かを書いていた。
短い文字。
たぶん、今日の3着のこと。
勝てなかったこと。
沈まなかったこと。
次に必要なこと。
灯は、その姿を見て思った。
同じ線を見る人がいる。
同じB2。
少し先に水面へ出た先輩。
勝ち方は違う。
数字の作り方も違う。
でも、向かっている線は同じ。
B1。
その線が、前より少しだけはっきり見えた。
そして同時に、少しだけ遠くも見えた。
届かせるには、勝つだけでは足りない。
沈まない水面も、知らなければならない。
灯はノートを閉じた。
今日の4着は、負けだった。
でも、ただの負けではなかった。
朝倉由芽の沈まない数字を、水面で見た日。
その記録として、灯の中に残った。




