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第6話 積み重ねる水面

管理解除のあと、灯は預けていたスマートフォンを受け取った。

手の中に戻ってきた小さな画面が、少しだけ現実の外側から戻ってきたもののように感じられた。

開催中は、外の音が遠くなる。

水面。

控室。

ピット。

出走表。

展示。

本番。

ノート。

その繰り返しの中にいる間、外の世界は細く切り離される。

けれど、開催が終わると、切り離されていたものが一気に戻ってくる。

通知がいくつも並んでいた。

その中に、三島沙耶からの短いメッセージがあった。

復帰節、お疲れさま。

いい節だった。

でも、ここからが数字。

灯は、その文をしばらく見つめた。

いい節だった。

その言葉だけなら、胸が温かくなる。

けれど、その次に続く言葉が、灯の背筋を伸ばした。

ここからが数字。

灯はスマートフォンを置き、ノートを開いた。

復帰節の最後のページ。

5号艇、4着。

5号艇、3着。

4号艇、4着。

4号艇、1着。

6号艇、4着。

戻った。

絡んだ。

届かなかった。

勝った。

残した。

雨宮琴葉が言ったその言葉を、灯は何度も見返していた。

復帰節としては、悪くなかった。

F休み明け。

名前が出走表に戻り、5号艇で4着。

全員女子戦で雨宮琴葉と走り、5号艇で3着。

篠宮大和の外で、A1同士の水面に入れず4着。

4号艇から、見える前に準備してまくり差し。

2勝目。

そして最終走。

6号艇から、勝ちを見すぎず4着を残した。

悪くない。

たしかに、悪くない。

でも、三島の言葉はそこで止まらない。

ここからが数字。

灯は、新しいページを開いた。

上に、大きく書く。

成績。

その下に、まずデビュー期と書いた。

ペン先が、少しだけ重くなる。

デビュー期。

それは、灯にとって一番見返したくない数字だった。

プロの水面に出たばかりの頃。

まだ、何もできなかった。

見えているつもりだった水面が、プロの速度ではあっという間に消えていった。

スタートで置かれた。

1マークで外へ流された。

2マークまでに位置を失った。

3周目には、前の艇が遠くなっていた。

灯は、その期の数字を書いた。

出走回数、38走。

1着、0本。

2着、0本。

3着、2本。

4着、8本。

5着、11本。

6着、17本。

勝率、2.18。

事故、なし。

書き終えると、数字だけがノートに残った。

文字にすると、容赦がない。

1着、0本。

2着、0本。

6着、17本。

灯は、その数字を見つめた。

弱い。

最初に浮かんだのは、その言葉だった。

それは、言い訳できない数字だった。

勝っていない。

2着もない。

半分近く、6着。

初めて舟券に絡んだ3着も、数字の中ではたった2本でしかない。

あの時は、それだけでも胸が震えた。

自分の名前が結果の中にある。

3着の欄にある。

それだけで、プロの水面に少しだけ触れた気がした。

けれど、期全体で見れば、それは小さな小さな数字だった。

灯は、ペンを止めた。

弱い。

でも、逃げなかった。

そうも思った。

38走。

全部、走った。

置かれても、沈んでも、届かなくても、出走表に名前があれば水面へ出た。

6着のページも、全部ノートに書いた。

見たくない水面を、見なかったことにはしなかった。

灯は、デビュー期の成績の下に書いた。

弱さの記録。

でも、逃げなかった記録。

そう書くと、少しだけ息ができた。

弱い数字でも、自分の数字だった。

消したい数字ではある。

でも、消してしまえば、次の数字がどこから始まったのか分からなくなる。

灯は、次の行に書いた。

デビュー2期目。

その文字を書いた瞬間、胸の中にいくつもの水面が戻ってきた。

初勝利。

F。

走れない時間。

復帰節。

2勝目。

4着。

3着。

6着。

全部が、同じ期の中にあった。

灯は、数字を書き出す。

出走回数、62走。

1着、2本。

2着、5本。

3着、10本。

4着、14本。

5着、14本。

6着、16本。

F、1本。

勝率、3.55。

2連対率、11.5%。

3連対率、27.9%。

書き終えてから、灯はしばらく何もできなかった。

デビュー期とは違う。

明らかに数字は上がっている。

1着がある。

2着もある。

3着も増えた。

4着も増えた。

結果の中に入る回数が、確かに増えている。

でも、まだ足りない。

6着はまだ16本ある。

5着も多い。

Fが1本ある。

勝率は上がった。

でも、B1へ胸を張って届く数字ではない。

灯は、その数字を見ながら思った。

勝った。

でも、壊した。

戻った。

もう一度勝った。

そして、4着を残した。

その全部が、2期目の数字だった。

初勝利だけではない。

2勝目だけでもない。

Fだけでもない。

全部が並んで、ようやく3.55という数字になっていた。

灯は、三島の言葉を思い出す。

全部見る。

沙耶さんは、そう言っていた。

良い数字だけを見ない。

悪い数字だけに沈まない。

勝ったレースだけで自分を作らない。

Fだけで自分を決めない。

全部見る。

灯は、ノートの横に小さく書いた。

全部見る。

その時、スマートフォンが震えた。

三島からだった。

灯は少し迷ってから、通話ボタンを押した。

「お疲れさまです」

『お疲れ』

三島の声は、いつも通り落ち着いていた。

控室で聞く声とは少し違う。

電話越しの声は、少し遠い。

けれど、その遠さが今はちょうどよかった。

「復帰節、見てくれてたんですね」

『全部じゃないけど、見られる分は見た』

「ありがとうございます」

『いい節だったよ』

灯は、少しだけ胸が熱くなった。

「はい」

『でも、いい節だっただけで終わらせないこと』

灯はノートを見る。

「数字、見ています」

『どう見えた?』

灯は、デビュー期と2期目の数字を見比べた。

「上がっています」

『うん』

「でも、足りません」

三島はすぐに答えなかった。

少しだけ間があった。

その間に、灯は自分の言葉が胸に沈むのを感じた。

上がっている。

でも、足りない。

それが今の自分だった。

『それが今の灯の数字』

三島は静かに言った。

灯は頷く。

「はい」

『見たくない?』

灯は、デビュー期の6着の数字を見る。

それから、2期目のFの文字を見る。

「見たくないです」

『うん』

「でも、見ないと分からないです」

『そう』

三島の声は、少しだけ柔らかくなった。

『それでいい』

灯は、2期目の数字に視線を戻した。

「Fも入っています」

『入ってる。消えないからね』

「はい」

灯は指で、F、1本の文字をなぞった。

「でも、1着も入っています」

『そう』

「2本あります」

『うん』

「3着も、4着も増えました」

『だから、全部見る』

灯は、目を閉じた。

全部見る。

その言葉は、短い。

けれど、灯にとっては難しい。

良い数字だけを見れば、少し楽になる。

悪い数字だけを見れば、自分を責めれば済む。

でも、全部見るには、逃げられない。

勝った自分も、Fを切った自分も、6着を取った自分も、4着を残した自分も、全部同じ風見灯として見なければならない。

「沙耶さん」

『なに?』

「B1、遠いです」

『遠いね』

三島はあっさり言った。

灯は少しだけ笑いそうになった。

慰めはなかった。

でも、その方が三島らしい。

『でも、見えてきたでしょ』

灯は、ノートの数字を見る。

デビュー期には、見えなかった。

2期目で、少しだけ形が出た。

でもまだ届かない。

「はい」

灯は答えた。

「前より、見えます」

『なら、次は届かせるために走る』

「はい」

『ただし、数字だけで走らないこと』

灯は顔を上げた。

『数字は見る。でも、数字だけで艇を向けると崩れる』

「はい」

『水面を見なさい』

その言葉に、灯は小さく息を吸った。

数字を見る。

でも、数字だけで走らない。

水面を見る。

それは、今の灯に必要な言葉だった。

B1の線が見え始めると、きっと数字が怖くなる。

あと何点。

あと何走。

6着を取ればどうなる。

3着なら届くのか。

2着なら近づくのか。

そういう計算が、きっと頭に入ってくる。

でも、レースの中で見なければならないのは、数字ではない。

大時計。

スリット。

1マーク。

引き波。

出口。

相手の艇。

水面。

『灯』

「はい」

『3期目は、数字が近くなる』

「はい」

『近くなると、怖くなる』

灯は、黙って頷いた。

『その時、ノートだけじゃ足りない』

「足りない、ですか」

『うん。ノートに書いたことを、水面で使わないといけない』

灯は、ペンを握った。

『復帰節でやったことを忘れないこと』

「戻って、絡んで、届かなくて、勝って、残した」

『そう』

三島の声が、少しだけ笑ったように聞こえた。

『それを、何節も続ける』

灯は、胸の奥が重くなるのを感じた。

1節ならできた。

でも、何節も続ける。

勝ったあとに崩れない。

4着を雑にしない。

6着を減らす。

勝てる水面では勝つ。

それを積み重ねる。

それがB1への道。

「やります」

灯は言った。

少し震えた声だった。

でも、言えた。

『うん』

三島は短く返した。

『また数字を見たら、書きなさい』

「はい」

『でも、最後は水面を見る』

「はい。沙耶さん」

通話が終わったあと、灯はしばらくスマートフォンを置けなかった。

沙耶さんも、きっと数字を見ている。

そう思った。

灯の数字だけではない。

三島沙耶にも、三島沙耶の数字がある。

A2として走り続ける数字。

A1へ届くかもしれない数字。

きっと、三島もどこかでその線を見ている。

でも、今の灯にはまだ、そこまで考える余裕はなかった。

まずは自分の数字。

自分の水面。

灯は、ノートを開き直した。

デビュー期。

2期目。

その2つの成績を並べる。

デビュー期の数字は、弱さの記録だった。

2期目の数字は、変化の記録だった。

勝った。

壊れた。

戻った。

また勝った。

残した。

でも、まだ足りない。

灯は、次のページに大きく書いた。

3期目へ。

それから、しばらく時間が流れた。

灯は何節も走った。

勝てない節もあった。

あと少しで3着に届かなかった日もあった。

5着に沈んで、ノートの前でしばらくペンが止まった日もあった。

6着を取って、デビュー期の自分に戻ったような気がした日もあった。

でも、違っていた。

同じ6着でも、ノートの書き方が変わっていた。

昔は、置かれた、怖かった、水面が遠い、としか書けなかった。

今は、なぜ置かれたのかを書くようになった。

起こしが遅れた。

3号艇を見すぎた。

5号艇を忘れた。

1マークで出口を捨てた。

2マークで深くなった。

理由が少しずつ書けるようになっていた。

3着を拾った日もあった。

勝てる水面ではなかった。

けれど、3着を残した。

そのページには、雨宮琴葉の言葉が残っている。

力が入っても、止まらなければいい。

4着を残した日もあった。

舟券には絡まない。

けれど、数字には残る。

そのページには、三島の言葉が残っている。

勝ったあとに崩れないこと。

そして、また勝てない日が続いたあと、2着を取った日もあった。

勝ちではない。

でも、前に届きかけた水面だった。

灯は、そのたびにノートを書いた。

勝ちだけではなく。

負けだけでもなく。

全部。

ひとつの開催が終わるたびに、数字は少しずつ変わっていった。

勝率。

出走回数。

事故率。

2連対率。

3連対率。

最初は、数字の羅列でしかなかった。

でも、少しずつ、その数字の後ろに水面が見えるようになった。

3着が1本増えた。

それは、2マークで内へ入れた水面。

4着が1本増えた。

それは、6コースから5着に落とさなかった水面。

5着が1本増えた。

それは、無理に3着を追って止まった水面。

6着が1本増えた。

それは、スタートで置いていかれた水面。

数字の後ろに、全部の水面がある。

灯は、少しずつそれを知った。

デビューして、3期目に入った。

ノートには、もう「完走する」だけではない数字が並ぶようになっていた。

勝率。

事故率。

出走回数。

そして、B1ライン。

3期目の成績表には、2期目のFはもう入っていない。

事故率の数字からは、あのFは外れていた。

けれど、灯のノートからは消えていなかった。

4号艇。

4コース。

F。

返還欠場。

そのページは、今もある。

成績表から消えたものが、身体からも消えるわけではない。

スタートラインの手前に立つ時、灯は今でもそのページを思い出す。

でも、もうそのページだけではない。

4号艇。

4コース。

1着。

まくり差し。

2勝目。

6号艇。

6コース。

4着。

勝ったあとに崩れなかった走り。

それらのページも、同じノートにある。

灯は、3期目の新しいページに書いた。

Fは、今期の数字からは消えた。

でも、私の中からは消えない。

だから、忘れずに走る。

ただし、Fだけを見て走らない。

その下に、三島の言葉を書く。

数字は見る。

でも、数字だけで走らない。

水面を見る。

3期目に入ってしばらくして、灯は初めて、自分の成績表の横にB1という文字を書いた。

B1ライン。

その線は、まだ自分の上にあった。

届いてはいない。

けれど、見える。

デビュー期には、見えなかった。

2期目には、遠かった。

3期目に入って、初めてその線が水面の向こうに見えた。

灯は、しばらくその文字を見つめた。

B1。

昔は、ただ上の級だと思っていた。

B2から上がる場所。

新人ではないと認められる場所。

けれど今は違う。

B1は、勝つためだけの場所ではない。

水面に残り続けるための場所。

1着も、2着も、3着も、4着も、全部積んでようやく届く場所。

6着を減らし、Fを増やさず、勝てる水面で勝ち、届かない水面でも崩れない。

そうやって近づく場所。

灯は、B1ラインの下に小さく書いた。

まだ届いていない。

でも、見える。

ここから、届かせる。

その時、成績表の別の欄に、ひとつの名前が目に入った。

朝倉由芽。

灯は、そこで手を止めた。

朝倉さん。

久しぶりに、その名前をはっきり見た気がした。

由芽の数字は、灯と似ているようで違っていた。

1着は少ない。

2着も多くはない。

けれど、6着が少ない。

4着が多い。

3着を拾っている。

沈まない数字。

灯は、由芽のレースを思い出した。

大きく勝つわけではない。

派手に攻めるわけでもない。

でも、着を投げない。

4着を雑にしない。

5着に沈みそうな水面で、4着を残す。

3着が取れる水面では、確実にそこへ入る。

灯は、自分のノートに書いた。

私は勝って近づいた。

朝倉さんは、沈まないことで近づいていた。

書いた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

B1の線は、自分だけのものではない。

同じ線を見ている選手がいる。

同じB2から、同じように上を見ている選手がいる。

灯は、由芽の名前をもう一度見た。

朝倉由芽。

沈まない数字。

その数字は、灯に別の水面を見せていた。

勝って近づく水面。

残して近づく水面。

どちらも、B1へ続いている。

灯はノートの最後に書いた。

デビュー期の数字は、私がまだプロの水面に置かれていただけの記録だった。

2期目の数字は、私が初めて勝ち、壊れ、戻り、もう一度勝った記録だった。

そして、3期目。

初めてB1という線が、現実の水面として見え始めた。

まだ届いていない。

けれど、見える。

灯は、ペンを置いた。

窓の外には、水面がある。

まだ遠い。

でも、見える。

なら、次はそこへ向かうだけだった。

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