第5話 数字が見える
灯は、ノートを開いたまま、しばらく手を動かせずにいた。
4号艇。
4コース。
1着。
決まり手、まくり差し。
2勝目。
何度見ても、その文字は胸の奥を熱くした。
初勝利の時とは違う。
あの時は、勝ったという事実に身体が追いつかなかった。
何が起きたのか分からないまま、モニターに映った自分の名前を見ていた。
今回は、もう少し静かだった。
勝てた。
もう一度、勝てた。
初勝利は、あの日だけの水面ではなかった。
それが、時間をかけて身体の奥へ沈んでいく。
けれど、灯はそのページの下に新しい文字を書いた。
勝率。
事故点。
出走回数。
その3つを書いた瞬間、2勝目の熱は少しだけ冷めた。
1着は大きい。
10点。
勝率を押し上げる数字。
けれど、1着だけで級別は決まらない。
その前の4着も残る。
雨宮琴葉のいる女子戦で取った3着も残る。
篠宮大和の外で、A1同士の水面に入れなかった4着も残る。
そして、Fも残る。
4号艇。
4コース。
F。
返還欠場。
そのページは、まだノートの中にあった。
消えていない。
2勝目を取っても、Fの文字は薄くならない。
灯は、2つのページを並べて見た。
4号艇。
1着。
4号艇。
F。
同じ4号艇だった。
同じ4コースだった。
同じように前へ行ける位置だった。
でも、まったく違う水面だった。
ひとつは、遅れたくなくて越えた水面。
ひとつは、見える前に準備して勝った水面。
同じ艇番でも、そこにいた自分は違う。
灯は、小さく息を吐いた。
勝てるようになった。
けれど、間違えればまた壊れる。
そのことを、数字は静かに教えてくる。
灯は、ノートを数ページ戻した。
そこには、三島沙耶の言葉が残っていた。
勝ったあとに崩れないこと。
その一行を、灯は指でなぞった。
沙耶さんは、同じ開催にはいない。
控室にもいない。
すぐ隣でノートを覗き込んでくれるわけでもない。
それでも、言葉は残っている。
勝ったレースも書く。
負けたレースも書く。
Fも書く。
6着も書く。
そして、勝ったあとの走りも書く。
灯は、その言葉の下に、自分で書き足していた。
B1は、勝った選手が上がる場所じゃない。
勝ったあとに、崩れなかった選手が上がる場所。
その一文を見た瞬間、背筋が少し伸びた。
B1。
その言葉は、まだ遠い。
けれど、初めて単なる憧れではなくなってきていた。
勝率。
事故点。
出走回数。
1着。
4着。
3着。
F。
それらを積み上げた先にある、現実の線。
灯は、その言葉を今日のページにも書き写した。
B1は、勝った選手が上がる場所じゃない。
勝ったあとに、崩れなかった選手が上がる場所。
書き終えてから、灯は今日の出走表を見た。
1号艇、藤野圭一。B1。
2号艇、松浦健吾。A2。
3号艇、成瀬拓海。B1。
4号艇、菅原隼人。B1。
5号艇、村瀬航。B1。
6号艇、風見灯。B2。
6号艇。
6コース想定。
復帰節の最終走。
2勝目を取った次の走り。
灯は、6号艇の欄を見つめた。
勝ちたい。
その気持ちはある。
4号艇から勝ったばかりの身体には、まだ前へ行く感覚が残っている。
1マークで見える前に準備する感覚。
艇を向ける感覚。
出口を残して伸び返す感覚。
けれど、今日は6号艇だった。
大外。
前の水面は遠い。
勝ちを見すぎれば、深くなる。
深くなれば止まる。
止まれば、6着まで落ちる。
灯はノートに書いた。
6号艇。
6コース。
勝ちを見すぎない。
でも、最初から諦めない。
まず水面に入る。
5号艇を見る。
4号艇を見る。
3着が見えても、深ければ入らない。
4着を雑にしない。
その文字を書いた時、灯は少しだけ苦笑した。
少し前の自分なら、4着を目標のように書くことはなかった。
勝つか。
3着に入るか。
それとも沈むか。
そんな見方しかできなかった。
でも今は違う。
4着も、数字になる。
4着も、B1への道に残る。
5着を4着にすること。
6着に落とさないこと。
それも、選手として水面に残るための走りだった。
控室のモニターでは、次の展示が映っている。
雨宮琴葉は、少し離れた席で自分のノートのようなものを見ていた。
灯は、その姿を見る。
雨宮は、勝ったあとも変わらない。
1着でも、2着でも、3着でも、たぶん同じように水面を見る。
怖くない顔をして、怖い水面を作る人。
その雨宮が、ふと顔を上げた。
目が合った。
雨宮は、いつものようにゆっくり近づいてくる。
「次、6号艇ですねぇ」
「はい」
灯は頷いた。
「2勝目のあとに、6号艇です」
雨宮は出走表を覗いた。
「いい番組ですねぇ」
灯は少し驚いた。
「いい番組、ですか」
「はい。勝ったあとに、ちょっと試される感じがします」
その言い方があまりにのんびりしていて、灯は少しだけ息が抜けた。
「試される……」
「勝ったあとの水面って、けっこう難しいですからねぇ」
雨宮は、出走表から目を離さずに言った。
「身体が前を覚えてますから」
灯は、胸の奥を見透かされたような気がした。
「そうです。前を見たくなります」
「見てもいいと思いますよぉ」
雨宮は言った。
「でも、6号艇から前だけ見ると、遠くなります」
灯はノートに書いた。
6号艇から前だけ見ると、遠くなる。
雨宮は続ける。
「今日は、勝つ水面が来るかは分かりませんねぇ」
「はい」
「でも、残す水面は来ると思います」
灯は顔を上げた。
「残す水面」
「はい。5号艇さんの内とか、4号艇さんの出口とか」
雨宮は、いつもの柔らかい声で言う。
「そこをちゃんと取れるかどうかですねぇ」
灯は頷いた。
「4着を残す水面、ですか」
「そうですねぇ」
雨宮は少し笑った。
「いい4着、またありますよぉ」
灯は、その言葉を聞いて少しだけ表情を緩めた。
また4着。
以前なら、悔しいだけだったかもしれない。
でも、今は分かる。
4着にも種類がある。
逃げた4着。
届かなかった4着。
残した4着。
勝ったあとの4着。
今日は、崩れないための4着かもしれない。
灯はノートに書いた。
勝ったあとの4着。
6着にしない。
崩れない。
展示航走の時間が近づいた。
灯は6号艇のカポックを手に取る。
大外。
6コース。
水面が遠い。
でも、遠いからこそ見えるものもある。
内の動き。
4号艇の攻め。
5号艇の残し方。
2号艇の差し。
1号艇の出口。
灯は、ひとつずつ頭の中に置いていく。
6艇がピットを離れた。
1号艇、藤野圭一。
2号艇、松浦健吾。
3号艇、成瀬拓海。
4号艇、菅原隼人。
5号艇、村瀬航。
6号艇、灯。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は6コース。
展示の起こし。
大時計が見える。
2勝目の時より、線が少し遠く感じた。
それでも、置きすぎない。
越えない。
水面に入る。
スリット。
STは0.19ほど。
悪くない。
ただ、外から前へ届くほどではない。
1マーク。
藤野が先に回る。
松浦が差す。
成瀬が握る。
菅原がカドから攻める。
村瀬が5コースから外を回る。
灯は6コース。
一番外から見る。
菅原の攻めで、成瀬の出口が重くなる。
村瀬が外に残る。
灯には、村瀬の内が見えた。
入れる。
ただし深い。
展示では、灯は無理をしなかった。
外から出口を残し、村瀬の動きを見る。
バックでは5番手付近。
2マーク。
村瀬の出口が少し重くなる。
灯には内が見えた。
ここは入れる。
灯は艇を向ける。
深く入りすぎない。
出口を残す。
村瀬の前に出られるかどうか。
展示では、半艇身ほど届かない。
控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
6号艇。
6コース。
ST 0.19。
遠い。
でも置いてはいない。
1マーク。
4号艇が攻める。
3号艇が重くなる。
5号艇が外に残る。
5号艇の内が見える。
深い。
2マーク。
5号艇の出口が重い。
内へ入れる。
本番は、1マークで無理に深く入らない。
2マークで5号艇を前に置く。
4着を見る。
灯は、最後の行をじっと見た。
4着を見る。
勝ちではない。
3着でもない。
でも、今日必要な数字。
そこへ雨宮が通りかかった。
「見えました?」
灯は頷いた。
「5号艇の内が見えました」
「よさそうですねぇ」
「でも、1マークで行くと深いです」
「じゃあ?」
「2マークで入ります」
雨宮はにこりとした。
「いいですねぇ」
「勝ちではないです」
灯が言うと、雨宮は少しだけ首を傾げた。
「でも、今日の水面としては勝ちに近いかもしれませんよぉ」
灯は顔を上げた。
「4着でも、ですか」
「はい。勝ったあとに崩れなかったら、それはちゃんと次につながります」
雨宮の声は柔らかかった。
けれど、そこに逃げはなかった。
4着でいい、という慰めではない。
4着を取りに行け、という言葉だった。
灯はノートに書いた。
4着でいい、じゃない。
4着を取りに行く。
本番の時間が来た。
灯は6号艇に乗り込む。
ピット離れから、内の5艇が前に見える。
遠い。
遠いけれど、見える。
水面全体が、少し広く見える。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1号艇、藤野。
2号艇、松浦。
3号艇、成瀬。
4号艇、菅原。
5号艇、村瀬。
6号艇、灯。
1、2、3。
4、5、6。
6コース。
起こし。
大時計。
灯は時計を見る。
0秒の線。
越えない。
置かない。
でも、大外から前だけを見ない。
スリット。
STは0.18。
展示より少し踏み込めている。
内の艇も揃っている。
大きなへこみはない。
灯は6コースから1マークへ向かう。
遠い。
でも、レースの外ではない。
1号艇の藤野が先に回る。
2号艇の松浦が差す。
3号艇の成瀬が握る。
4号艇の菅原がカドから攻める。
5号艇の村瀬が外からついていく。
灯は一番外。
菅原の攻めで、成瀬の出口が重くなる。
松浦が内から前へ出る。
藤野が残す。
村瀬は外にいる。
灯には、村瀬の内が見えた。
入れる。
けれど、深い。
ここで行けば、外から止まる。
前に入るより、後ろまで落ちる可能性がある。
2勝目の感覚が胸の奥で疼いた。
入れば何かが起きるかもしれない。
でも、今日の水面はそこではない。
灯は外へ流れすぎず、村瀬の位置を見た。
出口を残す。
バックストレッチ。
2号艇の松浦が先頭。
1号艇の藤野が2番手。
4号艇の菅原が3番手。
5号艇の村瀬が4番手。
灯は5番手。
3号艇の成瀬が重い。
6着ではない。
でも、まだ4着でもない。
2マーク。
村瀬が先に入る。
出口が少し重い。
灯には内が見えた。
ここ。
展示で見た水面。
1マークでは深かった。
2マークなら入れる。
灯は艇を向けた。
深く入りすぎない。
村瀬に出口を残させすぎない。
成瀬に差し場を渡さない。
波を踏む。
艇が跳ねる。
外から入るよりも、近い。
内へ入る。
出口。
出口を残す。
バックストレッチ。
灯の艇が村瀬の前に出た。
4番手。
6号艇から4番手。
前には菅原。
3着。
見える。
けれど、距離はある。
菅原は崩れていない。
無理に追えば、村瀬に差し返される。
灯は前を見た。
そして後ろを見た。
勝ったあとの水面。
ここで崩れない。
2周1マーク。
菅原が3番手で回る。
灯は追う。
内が少し見える。
でも遠い。
突っ込めば深くなる。
灯は出口を残した。
村瀬が後ろから来る。
灯は差し場を渡しすぎない。
外へ流れすぎない。
4着を残す。
2周2マーク。
菅原の出口が少し重くなる。
灯の胸が動く。
3着。
届くかもしれない。
けれど、半艇身遠い。
ここで入れば、止まる。
村瀬に差し返される。
成瀬にも絡まれる。
灯は、艇を止めなかった。
前を追いすぎない。
後ろを怖がりすぎない。
出口を残す。
3周目。
松浦が先頭。
藤野が2番手。
菅原が3番手。
灯が4番手。
村瀬が後ろ。
成瀬、高槻が続く。
灯は4着を走っていた。
勝ってはいない。
3着にも届いていない。
でも、大外から沈んでいない。
最後の1マーク。
村瀬が迫る。
灯は内を渡しすぎない。
最後の2マーク。
菅原の内が一瞬見えた。
入りたい。
でも、深い。
灯は息をした。
今日は、勝つ水面じゃない。
崩れない水面。
灯は出口を残した。
村瀬を後ろに置く。
成瀬を寄せつけない。
ゴール。
1着、2号艇、松浦健吾。
2着、1号艇、藤野圭一。
3着、4号艇、菅原隼人。
4着、6号艇、風見灯。
5着、5号艇、村瀬航。
6着、3号艇、成瀬拓海。
4着。
灯はモニターを見た。
6号艇。
風見灯。
4着。
勝っていない。
3着にも届いていない。
でも、6着ではない。
5着でもない。
6コースから、4着を残した。
2勝目の次の走り。
前を見すぎず、沈まなかった。
その数字は、派手ではない。
けれど、灯の中に静かに残った。
控室に戻ると、灯はすぐノートを開いた。
6号艇。
6コース。
4着。
2勝目の次の走り。
勝ちを見すぎそうになった。
でも、6コースから深く入りすぎなかった。
1マーク。
4号艇が攻める。
5号艇が外に残る。
5号艇の内が見えた。
でも、深い。
2マーク。
5号艇の内へ入る。
4着。
3着には届かない。
でも、6着にしない。
勝ったあとに、崩れなかった。
灯は、その最後の行を見つめた。
勝ったあとに、崩れなかった。
その一文は、2勝目よりも地味だった。
けれど、重かった。
そこへ雨宮が戻ってきた。
「いい4着ですねぇ」
灯は顔を上げる。
「また4着です」
「はい」
雨宮は、あっさり頷いた。
「でも、今日の4着は、勝ったあとの4着です」
灯はノートを見る。
「勝ったあとの4着」
「はい。勝ったあとに6着を取らないのは、大事ですよぉ」
雨宮の声は柔らかかった。
でも、その言葉は三島の言葉と同じ場所を指していた。
勝ったあとに崩れないこと。
B1は、勝った選手が上がる場所じゃない。
勝ったあとに、崩れなかった選手が上がる場所。
灯は、ノートにその言葉をもう一度書いた。
B1は、勝った選手が上がる場所じゃない。
勝ったあとに、崩れなかった選手が上がる場所。
書いてから、灯は復帰節の5走を並べた。
5号艇、4着。
5号艇、3着。
4号艇、4着。
4号艇、1着。
6号艇、4着。
復帰節が終わった。
名前が戻った日。
雨宮琴葉と同じ女子戦で3着に入った日。
篠宮大和の外で、A1同士の水面に入れなかった日。
もう一度、勝った日。
そして、勝ったあとに6号艇から4着を残した日。
灯は、その並びを見ていた。
4着。
3着。
4着。
1着。
4着。
無双ではない。
勝ち続けたわけではない。
A1には届かなかった。
3着を逃した水面もある。
でも、沈み続けてもいない。
崩れ続けてもいない。
F休み明けの復帰節として、その数字は確かに灯の中に残った。
雨宮が、灯のノートを見ながら言った。
「いい節でしたねぇ」
灯は少しだけ驚いた。
「いい節、ですか」
「はい。戻って、絡んで、届かなくて、勝って、残しました」
その言葉に、灯は胸の奥が少し熱くなった。
戻って。
絡んで。
届かなくて。
勝って。
残した。
たしかに、この節はそういう節だった。
灯は、そのままノートに書いた。
戻った。
絡んだ。
届かなかった。
勝った。
残した。
その全部が、復帰節だった。
雨宮は、ゆっくり席を立った。
「風見さん」
「はい」
「B1は、まだ遠いですかぁ?」
灯は、少し考えた。
遠い。
それは間違いない。
この節だけで届くものではない。
2勝目を取っても、まだ足りない。
Fもある。
6着もまだ多い。
勝率も、出走回数も、事故点も、全部見なければならない。
それでも、灯はノートの数字を見た。
4着。
3着。
4着。
1着。
4着。
「遠いです」
灯は言った。
「でも、前より見えます」
雨宮は、にこりとした。
「それなら、いいですねぇ」
雨宮が去ったあと、灯はノートを閉じずに、もう一度ページをめくった。
デビューした頃のノート。
6着。
6着。
5着。
6着。
完走。
置かれた。
水面が遠い。
そんな言葉が並んでいる。
あの頃の灯は、B1という文字を現実のものとして見られなかった。
プロの水面に置かれているだけで精一杯だった。
けれど、今は違う。
まだ届かない。
でも、見える。
数字の向こうに、B1という線が少しだけ見え始めている。
灯は、新しいページに書いた。
復帰節終了。
4着。
3着。
4着。
1着。
4着。
勝った。
でも、勝っただけではなかった。
勝ったあとに、崩れなかった。
その下に、少し間を空けて書く。
B1は、まだ遠い。
けれど、初めて数字の向こうに見え始めている。
ペンを置いた時、灯の胸の中には2勝目の熱とは違うものがあった。
もっと静かで、重いもの。
勝つ喜びではない。
積む覚悟。
次の水面へ向かうための数字。
灯はノートを閉じた。
水面は、今日も次のレースへ進んでいく。
自分の復帰節は終わった。
でも、B1への道は、ここから続いていく。
勝ったあとに、崩れない。
その一行を胸に、灯は次のページを開く準備を始めた。




