第8話 越えない速さ
灯は、ノートの最後に書いた一行を見つめていた。
次は、その水面に負けない。
朝倉由芽は3着だった。
灯は4着だった。
たった1つの着順差。
けれど、その差は、数字で見るよりずっと重かった。
由芽は勝っていない。
1着でもない。
2着でもない。
それでも、B1へ近づく水面を走っていた。
勝てない日を、6着にしない。
沈まない場所を見る。
由芽はそう言って、その通りに3着を残した。
灯は、由芽のレースを思い出す。
派手ではなかった。
水面を大きく裂くわけでもない。
外から強く攻めるわけでもない。
でも、落ちない。
内を完全には渡さない。
出口を失わない。
3着を取りに行くというより、3着を失わない場所にいた。
灯は、自分の4着のページをめくる。
悪い4着ではなかった。
5コースから沈まなかった。
無理に深く入りすぎず、4着を残した。
それでも、由芽よりひとつ後ろだった。
B1の線が見え始めた今、そのひとつが胸に残る。
灯はノートに書いた。
朝倉さんは沈まずに近づく。
私は、勝って近づく。
書いてから、ペン先が止まった。
勝って近づく。
その言葉は、間違っていない。
灯は勝てる水面を見つけられる。
初勝利もあった。
2勝目も取った。
見える前に準備して、4号艇からまくり差しで勝った。
勝てる時に勝つことは、B1へ近づくために必要だ。
けれど、その言葉の奥に、別のものが混ざり始めている。
勝たないといけない。
由芽が沈まずに近づくなら、自分は勝たないといけない。
3着を残されたなら、次は自分が前へ行かないといけない。
灯は、その言葉をノートには書かなかった。
書けば、危ない気がした。
けれど、書かなくても胸の奥にはあった。
勝たないといけない。
その日の出走表を見た時、灯は別の名前で手を止めた。
皇怜奈。
A1。
スタートの女王。
その名前は、女子レーサーの世界ではよく知られていた。
.0台を何度も踏む選手。
速いのに越えない選手。
スリットで水面を取る選手。
Fを切ったことのある灯にとって、その名前は少し特別だった。
速いスタートは怖い。
でも、速くなければ前へ行けない。
Fを切ってから、灯はその矛盾をずっと抱えている。
速く行きたい。
でも、越えたくない。
置きたくない。
でも、線が怖い。
そんな灯の前にいるのが、皇怜奈だった。
皇は、同じ開催の別レースに4号艇で乗っていた。
灯はモニターの前に立つ。
出走表を書き写した。
1号艇、長沢千尋。B1。
2号艇、相川芽衣。A2。
3号艇、瀬尾理子。B1。
4号艇、皇怜奈。A1。
5号艇、真壁優。B1。
6号艇、田宮涼。B1。
4号艇。
4コース。
スタートの女王。
灯は、4号艇の欄を見つめた。
4号艇は、灯にとっても特別な番号だった。
Fを切った番号。
2勝目を取った番号。
怖さと勝利が、同じ場所にある番号。
控室の空気が、少しだけ変わった。
灯は顔を上げる。
皇怜奈が入ってきた。
大きな声を出したわけではない。
誰かを睨んだわけでもない。
周りを支配しようとしているわけでもない。
それでも、灯は一瞬、大時計を思い出した。
無駄がない。
歩き方も、視線も、カポックを取る動作も、余分なものがなかった。
雨宮琴葉のような柔らかさとは違う。
篠宮大和のような鋭い圧とも違う。
皇怜奈には、硬い静けさがあった。
線の上に、細い針を置くような静けさ。
灯はノートに書いた。
皇怜奈。
A1。
スタートの女王。
空気が硬い。
大時計を思い出す。
展示航走。
皇は4コースに入った。
起こし。
大時計。
灯はモニターを見つめる。
皇の艇は、慌てていなかった。
前へ突っ込むようにも見えない。
けれど、スリットに近づくにつれて、他の艇よりもほんの少しだけ水面を先に取っているように見えた。
展示ST。
0.07。
灯は息を止めた。
速い。
でも、危なく見えない。
線を越えそうな速さではない。
線の手前に、最初から艇が置かれていたようなスタートだった。
本番。
皇の起こしは、展示とほとんど変わらなかった。
変わらない。
それがまず怖かった。
起こしがぶれない。
艇の向きがぶれない。
大時計へ向かう距離感がぶれない。
スリット。
4号艇、皇怜奈。
ST 0.05。
灯は、数字が表示される前から分かっていた気がした。
速い。
でも、越えそうに見えなかった。
皇は4コースから、3号艇の外をただ潰しに行くわけではなかった。
スタートで水面を取る。
3号艇を少しだけ押さえる。
2号艇の差し場と1号艇の出口を見る。
その間に、正確に艇を入れた。
まくり差し。
派手な音はしない。
でも、スリットから1マークまでの間に、レースの形はもう皇のものになっていた。
バックストレッチ。
4号艇、皇怜奈が先頭。
2号艇が2番手。
1号艇が3番手。
皇は、そのまま崩れなかった。
2マークも、無駄がない。
2周目も、追わせない。
最後まで、線の手前に置いたスタートの余韻がレースを支配しているように見えた。
1着、4号艇、皇怜奈。
決まり手、まくり差し。
灯は、モニターを見つめたままノートを開いた。
皇怜奈。
4号艇。
1着。
本番ST 0.05。
速い。
でも、越えそうに見えない。
線に突っ込んでいない。
線の手前に置いている。
スタートで水面を取る。
1マークで正確に入る。
灯は、ペンを止める。
同じ.0台でも、そこには恐ろしいほどの違いがあった。
皇の0.05は、線に近づいた数字ではない。
線の手前に置かれた数字だった。
その違いが、灯にはまだ言葉にしきれなかった。
少しして、皇が控室に戻ってきた。
表情は変わらない。
1着を取った選手の顔というより、予定していた作業を終えた人の顔に近かった。
灯は思わず立ち上がった。
「おめでとうございます」
皇は灯を見た。
「ありがとう」
声は静かだった。
硬い。
でも、冷たいわけではない。
灯は、少し迷ってから言った。
「すごいスタートでした」
皇は短く答える。
「普通」
灯は言葉を失った。
0.05が普通。
その言葉が、灯の胸に重く落ちる。
皇は灯の顔を見て、少しだけ続けた。
「速いかどうかより、同じ場所に置けるか」
灯は、すぐにノートへ書いた。
速いかどうかより、同じ場所に置けるか。
皇はそれ以上は言わなかった。
ただ、灯の出走表に目を落とした。
「次、4号艇?」
「はい」
灯は頷いた。
4号艇。
その言葉だけで、胸の奥に熱と怖さが同時に生まれる。
由芽に3着を残された。
自分は4着だった。
そして今、皇怜奈の0.05を見た。
灯の次走は4号艇。
勝ちに行ける枠。
前へ行ける枠。
そして、かつて越えた枠。
灯はノートに出走表を書き写した。
1号艇、宮原紗知。B1。
2号艇、近藤彩音。A2。
3号艇、西岡楓。B1。
4号艇、風見灯。B2。
5号艇、水野花。B1。
6号艇、芦田真由。B1。
全員女子。
灯は4号艇。
4コース想定。
勝ちたい。
その言葉が、胸の奥で強くなった。
3号艇の西岡が少し外へ流れるなら、まくり差しがある。
2号艇の近藤はA2。
差しは強い。
1号艇の宮原は、インから大きく崩れない。
でも、4号艇には攻める水面がある。
勝てるかもしれない。
勝てば、B1の線へ近づく。
由芽の3着に対して、自分は1着で返せる。
灯は、ペンを握る手に力が入るのを感じた。
勝ちたい。
勝たないと。
その瞬間、ノートの端にあるFの文字が、視界の端でちらついた。
灯はすぐにページを閉じた。
見ないようにしたわけではない。
ただ、今は勝ちに向かいたかった。
展示航走。
6艇がピットを離れた。
1号艇、宮原紗知。
2号艇、近藤彩音。
3号艇、西岡楓。
4号艇、灯。
5号艇、水野花。
6号艇、芦田真由。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
起こし。
大時計。
4号艇。
4コース。
勝ちたい。
B1へ近づきたい。
由芽に置いていかれたくない。
その気持ちが、身体を前へ寄せる。
灯は時計を見る。
まだ早い。
でも、足が止まらない。
艇が線へ向かう。
スリット。
展示ST。
0.04。
灯は、ピットへ戻るまでその数字を正確には知らなかった。
けれど、スリットを通過した瞬間、胸の奥が冷えた。
速い。
踏み込めた。
悪くない。
そう思おうとした。
でも、身体のどこかは知っていた。
今のは、怖かった。
勝つために置いたスタートではない。
勝ちたい気持ちで線に寄っただけ。
控室に戻ると、モニターに展示STが表示されていた。
4号艇。
0.04。
灯は、その数字を見て息を止めた。
0.04。
皇の0.05より、数字だけなら速い。
けれど、まったく違う。
灯の胸は、冷えたままだった。
その時、背後から声がした。
「速かったね」
灯は振り返った。
皇怜奈が立っていた。
「はい」
灯は答えた。
自分でも、少し声が硬いのが分かった。
皇は灯をじっと見た。
「でも、あれは速いスタートじゃない」
灯は言葉を失った。
皇は、表情を変えずに続ける。
「線に近づいただけ」
その言葉が、胸に刺さった。
「勝つために線へ置いたんじゃない」
皇の声は静かだった。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ、事実を置いているだけだった。
「勝ちたい気持ちで、線へ寄っただけ」
灯は、ノートを握る手に力が入った。
何も言えなかった。
その通りだった。
踏み込めた。
でも、置けていなかった。
水面を見ていなかった。
線しか見ていなかった。
皇は言った。
「今の、勝ちに行くスタートじゃない」
灯は、かすかに顔を上げる。
皇は、短く言った。
「越えに行くスタート」
その一言で、灯の中にFのページが開いた。
4号艇。
4コース。
F。
返還欠場。
あの日のスリット。
あの日の白い線。
あの日の音。
灯は、息を吸うのを忘れた。
皇が聞く。
「怖くなかった?」
灯は、首を横に振れなかった。
「怖かったです」
「なら、まだいい」
灯は顔を上げた。
「怖くないまま行ったら、次は越える」
皇の声は、冷たくはなかった。
でも、逃げ場がなかった。
灯は、唇を噛む。
「私は……勝ちたくて」
「分かる」
皇は短く言った。
「勝ちたい時ほど、線に寄る」
灯は、ノートを開いた。
書かなければならないと思った。
皇は続ける。
「でも、線に寄るのと、線の手前に置くのは違う」
灯は、その言葉を書いた。
線に寄るのと、線の手前に置くのは違う。
「皇さんのスタートは……怖くありませんでした」
灯は言った。
「0.05なのに、越えそうに見えませんでした」
皇は少しだけ目を細めた。
「怖いよ」
灯は驚いた。
「怖いんですか」
「怖い」
皇は迷わず答えた。
「怖いから、合わせる」
灯は、ペンを止めた。
皇は続ける。
「怖いから、手前に置く」
その言葉は、灯の中で大きく響いた。
怖くないから速いのではない。
怖いから、正確にする。
怖いから、毎回同じ準備をする。
怖いから、線の手前に置く。
皇は、さらに短く言った。
「怖さを消したら、線を越える」
灯は、ノートにそのまま書いた。
怖いから、合わせる。
怖いから、手前に置く。
怖さを消したら、線を越える。
灯は、自分の展示STの欄を見る。
0.04。
数字だけなら速い。
でも、皇の0.05とは違う。
灯は、ノートに書いた。
皇さんの0.05。
速い。
でも、越えそうに見えない。
線の手前に置いている。
私の展示0.04。
速い。
でも、越えそうだった。
勝ちたい気持ちで線へ寄っただけ。
同じ.0台でも違う。
皇は灯のノートを見て、少しだけ頷いた。
「本番で真似しなくていい」
灯は顔を上げた。
「真似しない?」
「私の0.05は、私の場所」
皇は淡々と言った。
「あなたには、あなたの線の手前がある」
灯は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ震えた。
私の線の手前。
皇の0.05ではない。
神崎蓮のような刃でもない。
皇怜奈のような針でもない。
風見灯が、水面に入るための線の手前。
それは、たぶん0.04ではない。
灯は、自分のノートに書いた。
皇さんの0.05じゃない。
私の線の手前。
本番の時間が来た。
灯は4号艇に乗り込む。
水面の音が近づく。
4コース。
展示で0.04を踏んだ場所。
勝ちたい気持ちで、線に寄った場所。
灯は、大時計を見る前に、深く息を吸った。
勝ちたい。
それは消えない。
由芽に3着を残された悔しさもある。
B1の線へ近づきたい気持ちもある。
でも、その全部を線へぶつけるわけではない。
勝ちたいから踏み込むのではない。
勝つために、線の手前に置く。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1号艇、宮原。
2号艇、近藤。
3号艇、西岡。
4号艇、灯。
5号艇、水野。
6号艇、芦田。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
起こし。
大時計。
灯は時計を見る。
展示の0.04が浮かぶ。
それを追わない。
皇の0.05を真似しない。
自分の線の手前。
置きすぎない。
越えない。
水面に入る。
スリット。
STは0.16。
灯は、通過した瞬間に分かった。
展示より遅い。
でも、身体は冷えていない。
線だけを見ていない。
1マークが見えている。
3号艇が見えている。
5号艇が見えている。
水面が見えている。
1マークへ向かう。
宮原が先に回る。
近藤が2コースから差す。
西岡が握る。
灯は4コース。
展示のように前へ寄りすぎていれば、ここで深く入っていた。
勝ちたい気持ちのまま、3号艇の外へ突っ込んでいた。
でも、本番の灯は、水面を見ていた。
西岡の艇が外へ流れ始める。
近藤の差しが内へ入る。
宮原の出口が少し重い。
そこに水面ができる。
ある。
でも、勝ちに行くには少し深い。
3着へ入る水面ならある。
灯は艇を向けた。
深く入りすぎない。
5号艇の水野を外に置く。
西岡の出口を見る。
近藤の動きを見る。
まくり差しではなく、残すための差し。
攻める。
でも、越えない。
入る。
でも、止めない。
波を踏む。
艇が跳ねる。
出口へ向ける。
バックストレッチ。
2号艇の近藤が先頭。
1号艇の宮原が2番手。
灯は3番手争いに入った。
5号艇の水野が外から来る。
3号艇の西岡は重い。
灯は3番手。
2マーク。
水野が外から圧をかける。
灯には内がある。
でも、深く入れば水野に差し返される。
宮原の2番手は遠い。
勝ちを追えば止まる。
灯は、3着を残す水面を見た。
由芽の言葉が浮かぶ。
沈まない場所。
皇の言葉が浮かぶ。
本番は、水面を見る。
灯は艇を向けた。
出口を残す。
水野に差し場を渡しすぎない。
西岡を後ろに置く。
バックへ出る。
3番手。
2周1マーク。
近藤が先頭。
宮原が2番手。
灯が3番手。
水野が迫る。
灯は、握りすぎない。
閉めすぎない。
出口を残す。
水野の艇先が少し近づく。
灯は止めない。
伸び返す。
2周2マーク。
また水野が来る。
灯は3着を守る。
守るだけでは止まる。
攻めすぎても崩れる。
灯は、線の手前を思い出した。
スタートだけではない。
ターンにも、手前がある。
行きすぎない場所。
置きすぎない場所。
自分の艇が水面に残る場所。
灯は、そこへ艇を置いた。
3周目。
前の2艇は遠い。
勝ちはない。
2着も遠い。
でも、3着はある。
B1へ続く3着。
由芽が残した3着と同じように、今日の灯が残さなければならない3着。
最後の1マーク。
水野が外から迫る。
灯は差し場を渡さない。
最後の2マーク。
西岡が内から絡もうとする。
灯は艇を止めない。
出口を残す。
ゴール。
1着、2号艇、近藤彩音。
2着、1号艇、宮原紗知。
3着、4号艇、風見灯。
4着、5号艇、水野花。
5着、3号艇、西岡楓。
6着、6号艇、芦田真由。
3着。
灯は、モニターを見た。
4号艇。
風見灯。
3着。
勝っていない。
1着ではない。
由芽への悔しさを、勝利で返したわけではない。
でも、越えなかった。
置かなかった。
線の手前から、水面に入った。
控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
4号艇。
4コース。
3着。
展示ST 0.04。
速い。
でも、勝つための速さじゃなかった。
勝ちたい気持ちで線へ寄っただけ。
本番ST 0.16。
皇さんの0.05ではない。
私の線の手前。
1マーク。
勝ちに行く水面は深い。
3着へ入る水面はある。
5号艇を消す。
3号艇を後ろに置く。
2マーク以降。
3着を残す。
勝てなかった。
でも、越えずに攻めた。
灯は、そこまで書いてペンを止めた。
そこへ皇怜奈が来た。
「今の方がいい」
灯は顔を上げた。
「展示より遅いです」
「そう」
皇は頷いた。
「でも、レースになっていた」
灯は、その言葉をゆっくり受け取った。
「レースに……」
「展示は線しか見ていなかった」
皇は、モニターへ視線を向けた。
「本番は水面を見ていた」
灯の胸に、その言葉が落ちた。
本番は水面を見ていた。
それは、灯にとって何より大事なことだった。
皇は続ける。
「速いだけのスタートは、次のターンまで持たない」
灯は、ノートに書いた。
速いだけのスタートは、次のターンまで持たない。
皇は灯のノートを見て、少しだけ目を細めた。
「怖かった?」
灯は頷いた。
「怖かったです」
「なら、覚えておけばいい」
「はい」
「怖いまま、合わせる」
皇の言葉は短かった。
けれど、灯には十分だった。
怖いまま、合わせる。
怖いまま、手前に置く。
怖いまま、水面を見る。
皇が去ったあと、灯はノートの最後に書いた。
勝ちたいから踏み込むのではない。
勝つために、線の手前へ置く。
皇怜奈の0.05には、まだ届かない。
でも、今日の0.16は、私が水面に入るためのスタートだった。
灯は、由芽のページを開いた。
沈まない場所。
そして、皇のページを開いた。
線の手前。
由芽は沈まない場所を見ていた。
皇は線の手前を支配していた。
どちらも、今の灯に必要だった。
B1の線へ届くために。
そして、もう二度と、越えてはいけない線を越えないために。
灯はノートを閉じた。
勝てなかった。
でも、3着を残した。
展示で危うくなった自分を、本番で止められた。
それは、2勝目とは違う意味で大きな一走だった。
B1へ向かう水面は、勝つ水面だけではない。
沈まない水面。
線の手前に置く水面。
その両方を、灯はこの開催で見た。
次は、それを自分のものにしなければならない。
灯は、まだ熱の残る手でノートを抱えた。
胸の奥には、怖さがあった。
けれど、その怖さはもう、ただ線から遠ざけるだけのものではなかった。
怖いから、合わせる。
怖いから、手前に置く。
灯は、その言葉をもう一度胸の中で繰り返した。




