第13話 戻る水面
灯は、ノートのページをゆっくりめくった。
4号艇。
4コース。
F。
返還欠場。
5号艇。
5コース。
6着。
ST 0.38。
5号艇。
5コース。
4着。
ST 0.19。
その3つのページは、同じノートの中に並んでいた。
越えた水面。
離れすぎた水面。
水面に入れた水面。
どれも、消せない。
どれか1つだけを選んで持つこともできない。
灯は、最後のページに書いた言葉を見つめた。
水面に入る線。
越えてはいけない。
離れすぎてもいけない。
その手前で、艇を水面へ入れる。
4着。
舟券には絡めなかった。
でも、レースには戻れた。
その感覚は、灯の中にまだ残っていた。
フライングを切ったあと、初めて水面の中に戻れた気がした。
勝ったわけではない。
3着でもない。
それでも、あの4着はただの4着ではなかった。
レースに入った4着だった。
灯は新しいページを開いた。
今日の出走表。
1号艇、橘原慎吾。B1。
2号艇、新田航平。A2。
3号艇、倉持玲司。B1。
4号艇、南雲悠真。B1。
5号艇、風見灯。B2。
6号艇、小早川陸。B1。
また5号艇。
5コース想定。
灯は、5号艇の欄に自分の名前を書いた。
不思議な感覚だった。
5号艇が続いている。
同じような位置にいる。
でも、全部が同じではない。
6着になった5コース。
4着まで戻した5コース。
そして今日、もう一度走る5コース。
同じ艇番でも、その中にいる自分は少しずつ違う。
灯はペンを握った。
5号艇。
5コース。
越えない。
置かない。
水面に入る。
そのうえで、もう一度3着を見る。
書いたあと、灯はその最後の一行をしばらく見ていた。
もう一度3着を見る。
怖い言葉だった。
3着を見れば、欲が出る。
前に行きたくなる。
後ろを渡したくなくなる。
それは分かっている。
それでも、4着に戻っただけで終わるわけにはいかない。
水面に戻れたなら、次はもう一度、結果の中に入る。
灯は、見る2艇を書いた。
4号艇。
6号艇。
4号艇の南雲悠真は、カドから攻めるタイプ。
3号艇の倉持玲司は、握るが出口が重い。
6号艇の小早川陸は、大外から最後まで追ってくる。
4号艇が攻めれば、3号艇の出口が重くなる。
そこに水面ができるかもしれない。
ただし、6号艇の小早川を忘れれば、外から飲まれる。
灯はノートに書き足した。
入る。
でも、出口を残す。
3着を取る。
でも、3着だけを見ない。
そこへ三島沙耶が来た。
「灯」
灯は顔を上げた。
「はい。沙耶さん」
三島はノートを見る。
「今日は3着を見るんだね」
灯の胸が少しだけ固まる。
「はい」
「怖い?」
「怖いです」
灯は正直に答えた。
「でも、見たいです」
三島は小さく頷いた。
「それでいい」
灯は少しだけ息を吐いた。
三島は出走表を見る。
「スタートは戻ってきている」
「はい」
「でも、スタートが戻ると、次はターンで欲が出る」
灯は、ペンを持つ手に力を入れた。
三島は続けた。
「4着まで戻った。だから今日は3着が見える。そこで全部を取りに行くと、また水面を失う」
「はい」
「3着を取るなら、取ったあとまで見る」
灯は頷いた。
「はい」
「1マークで見えた水面に飛び込むだけじゃない。2マークでどう残すか。2周目にどう守るか。そこまで見る」
灯はノートに書いた。
3着を取るなら、取ったあとまで見る。
三島はその文字を確認してから言った。
「今日は勝ちに行く日じゃない」
灯は一瞬だけ目を伏せた。
勝ちたい気持ちはある。
初勝利の記憶は、まだ胸の中にある。
けれど、今はそこではない。
三島は言った。
「今日は、戻った水面からもう一度結果に入る日」
灯は、その言葉をノートに書いた。
戻った水面から、もう一度結果に入る。
その文字は、今の灯にちょうどよかった。
大きすぎない。
でも、逃げてもいない。
そこへ日向まどかが近づいてきた。
「また5号艇か」
灯は頷いた。
「はい」
「5コースの練習みたいになってるね」
まどかは軽く言った。
灯は少しだけ笑った。
「そんな感じです」
「今日の目標は?」
灯はノートを見る。
「水面に入って、もう一度3着を見ることです」
「いいね」
まどかは頷いた。
「でも、3着を見た瞬間に硬くならないようにね」
「はい」
「見えた時ほど、呼吸」
灯は、自分の胸に手を当てた。
「呼吸」
「そう。見えた時に止まると、艇も止まる」
まどかの言葉は軽い。
でも、灯には分かる。
勝ちたいと思った時も、遅れたくないと思った時も、越えたくないと思った時も、自分の身体は硬くなった。
3着が見えた時も、きっと同じことが起きる。
灯はノートに書いた。
見えた時ほど、呼吸。
朝倉由芽も、少し離れたところで出走表を見ていた。
今日は同じレースではない。
けれど、由芽は灯のレースを見ている。
そう分かった。
由芽が近づいてきた。
「風見さん」
「はい」
「今日は、3着を見ますか」
灯は少し驚いた。
「分かりますか」
「ノートの顔をしていたので」
由芽は静かに言った。
灯は少しだけ苦笑した。
「ノートの顔……」
「はい。数字を見ている顔です」
由芽は、メモ帳を軽く持ち上げた。
「F。6着。4着。次に3着を見たくなる流れだと思います」
灯は、由芽の言葉に頷いた。
「見たいです。でも、怖いです」
「私なら、怖いと思います」
由芽はすぐに言った。
「Fのあとに3着を取りに行くのは」
灯は由芽を見る。
由芽は続けた。
「でも、風見さんは行くと思います」
その言葉は、灯の胸に静かに残った。
由芽は、灯を過大評価しているわけではない。
ただ、ここまでの水面を見て、そう言っている。
「行きます」
灯は言った。
「でも、止まらないようにします」
由芽は小さく頷いた。
「見ています」
展示航走の時間が来た。
灯は5号艇のカポックを手に取る。
怖さはある。
でも、前よりも少しだけ形がある。
ただ怖いのではない。
何が怖いのかを、ノートに書いている。
スタート。
3着を欲しがること。
入ったあとに残せないこと。
灯は息を整えた。
怖いから、見る。
怖いから、準備する。
6艇がピットを離れた。
1号艇、橘原慎吾。
2号艇、新田航平。
3号艇、倉持玲司。
4号艇、南雲悠真。
5号艇、灯。
6号艇、小早川陸。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
展示の起こし。
大時計が視界に入る。
灯は時計を見る。
でも、時計だけにはしない。
4号艇の南雲。
6号艇の小早川。
スリットの先の1マーク。
スタート。
越えていない。
置いてもいない。
少しだけ踏み込めている。
灯は通過した瞬間に思った。
入れている。
1マーク。
1号艇の橘原が先に回る。
2号艇の新田が差す。
3号艇の倉持が握る。
4号艇の南雲がカドから攻める。
灯は5コース。
6号艇の小早川が外から伸びる。
南雲の攻めで、倉持の出口が重くなる。
灯には見えた。
3号艇の内。
ただし深い。
前の4着の時は、ここで我慢した。
今日も我慢するのか。
それとも、少しだけ踏み込むのか。
灯は艇を向けた。
入る。
でも、入りすぎない。
出口を残す。
波を踏む。
艇が跳ねる。
それでも、止まらない。
バックストレッチ。
新田が差して前へ出る。
橘原が2番手。
南雲が3番手。
灯は4番手争い。
倉持は少し重い。
小早川が外にいる。
2マーク。
南雲が3番手で先に入る。
少し外へ膨らむ。
灯には内が見えた。
ここは入れる。
ただし、小早川も後ろから来ている。
灯は一瞬だけ呼吸を意識した。
止まらない。
見えた時ほど、呼吸。
灯は南雲の内へ艇を向けた。
深すぎない。
小早川に差し場を渡しすぎない。
出口を残す。
艇が跳ねる。
南雲の艇が外から伸び返そうとする。
小早川の艇先も外にある。
灯は、出口へ向けた。
展示のバックで、3番手に近い位置まで出た。
完全ではない。
でも、見えている。
展示を終えて控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
ST 0.18くらい。
越えない。
置かない。
水面に入る。
1マーク。
4号艇の攻めで3号艇が重い。
3号艇の内が見える。
深く入りすぎない。
出口を残す。
2マーク。
4号艇の内が見える。
入れる。
でも、6号艇が来る。
呼吸。
出口を残す。
灯は、そこまで書いてペンを置いた。
三島がノートを見る。
「悪くない」
灯は顔を上げる。
「はい」
「スタートは戻ってきている」
灯は、少しだけ胸が軽くなった。
けれど三島は続けた。
「だから、次はターン」
灯は頷いた。
「はい」
「3着が見えた時、突っ込みすぎないこと」
「はい」
「でも、見送るだけでも取れない」
灯はノートを見る。
その通りだった。
取るなら入る。
でも、残す。
三島は言った。
「今日はそこ」
「はい」
本番の時間が来た。
灯は5号艇に乗り込む。
水面の音が近い。
大時計も、もう逃げたいほど遠くはない。
怖い。
でも、入れる。
そう思えるだけの準備はした。
6艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
1号艇、橘原。
2号艇、新田。
3号艇、倉持。
4号艇、南雲。
5号艇、灯。
6号艇、小早川。
1、2、3。
4、5、6。
5コース。
起こし。
大時計。
スリット。
灯は時計を見る。
4号艇を見る。
6号艇を見る。
その先を見る。
スタート。
STは0.17。
越えていない。
置いてもいない。
前に出すぎてもいない。
でも、前走より踏み込めている。
灯は思った。
今日も、水面の中にいる。
1マークへ向かう。
1号艇の橘原が先に回る。
2号艇の新田が差す。
3号艇の倉持が握る。
4号艇の南雲がカドから攻める。
南雲の攻めで、倉持の出口が重くなる。
灯は5コースから見る。
3号艇の内。
見えた。
深い。
でも、入れる。
6号艇の小早川が外から来る。
灯は小早川を忘れない。
入る。
でも、出口を残す。
灯は艇を落とした。
波を踏む。
艇が跳ねる。
胸が冷える。
それでも、止めない。
出口。
出口を残す。
バックストレッチ。
2号艇の新田が差して先頭へ出る。
1号艇の橘原が2番手。
4号艇の南雲が3番手。
灯はその後ろ。
倉持より前に出かけている。
小早川は外で伸び切れていない。
灯は4番手。
3着が見える。
2マーク。
南雲が先に入る。
出口が少し外へ膨らむ。
灯には内が見えた。
ここだ。
思った瞬間、身体が硬くなりかける。
3着。
結果の中。
舟券の中。
戻る場所。
灯は、息をした。
見えた時ほど、呼吸。
南雲の内へ入る。
深く入りすぎない。
小早川に差し場を渡しすぎない。
出口を残す。
艇が跳ねる。
水面が近い。
南雲の艇が外から伸び返す。
灯は止めなかった。
バックストレッチ。
灯が南雲の前に出た。
3番手。
3着圏。
Fのあと、初めてもう一度その場所に入った。
胸が熱くなる。
同時に怖くなる。
また、守る場所にいる。
後ろに南雲がいる。
小早川も来る。
倉持もまだ完全には消えていない。
灯は前を追いすぎなかった。
後ろを怖がりすぎなかった。
水面を見る。
出口を見る。
2周1マーク。
新田が先頭で回る。
橘原が2番手。
灯は3番手。
南雲が後ろから差し返しを狙う。
灯は内を開けすぎない。
外へ流れすぎない。
出口を残す。
南雲の差しが入る。
一瞬、艇先が近づく。
灯は握りすぎなかった。
入られても、残す。
牧野涼介の3着。
自分の初3着。
それらの水面が胸の中に戻る。
灯は出口で伸び返した。
3番手を守る。
2周2マーク。
今度は小早川が外から来る。
灯は外へ引っ張られそうになる。
ここで外へ逃げれば、南雲に内を差される。
内を閉めすぎれば、自分の出口がなくなる。
灯は、少しだけ艇を残した。
怖い。
でも、止めない。
小早川を受けすぎず、南雲に差し場を渡しすぎず、出口へ向ける。
バックへ出る。
まだ3番手。
3周目。
実況が先頭争いを追う。
「2号艇、新田航平が先頭。1号艇、橘原慎吾が続く」
そのあとに、自分の名前が聞こえた。
「3番手は5号艇、風見灯」
灯は、その声に胸が揺れた。
でも、揺れすぎない。
3番手。
自分は、戻ってきている。
最後の1マーク。
南雲が迫る。
灯は出口を残す。
前を追いすぎない。
後ろを怖がりすぎない。
最後の2マーク。
南雲が内を狙ってくる。
小早川も外にいる。
灯には分かった。
ここを渡したら、3着は消える。
でも、防ぐだけでは止まる。
灯は、艇を返した。
入られても残す。
出口を残す。
波を踏む。
艇が跳ねる。
南雲の艇先が内に見える。
灯は焦らなかった。
焦りそうになった。
でも、焦らなかった。
ゴールラインが近づく。
灯は最後まで艇を止めなかった。
ゴール。
1着、2号艇、新田航平。
2着、1号艇、橘原慎吾。
3着、5号艇、風見灯。
4着、4号艇、南雲悠真。
5着、6号艇、小早川陸。
6着、3号艇、倉持玲司。
3着。
灯は、モニターを見た。
5号艇、風見灯。
3着。
戻った。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
初めて3着を取った時のような、爆発するような喜びではなかった。
初勝利の時のような、何も考えられなくなる熱でもなかった。
もっと静かだった。
深く、重く、確かなものだった。
Fを切った。
6着に落ちた。
4着まで戻した。
そして、もう一度3着に入った。
戻った。
でも、Fが消えたわけではない。
それも分かっている。
控室に戻ると、三島が待っていた。
「灯」
「はい」
「3着」
灯は頷いた。
「はい」
三島は短く言った。
「戻ったね」
その言葉で、灯の胸が詰まった。
「はい」
「でも、Fは消えない」
灯は、すぐに頷いた。
「はい」
三島はノートを指した。
「3着を取ったから、Fがなかったことになるわけじゃない」
「はい」
「でも、Fを持ったまま3着を取った」
灯は、ノートを開いた。
手は震えていない。
けれど、慎重に書きたいと思った。
5号艇。
5コース。
3着。
ST 0.17。
越えなかった。
置かなかった。
水面に入った。
1マーク。
4号艇の攻めで3号艇が重くなる。
深く入りすぎない。
出口を残す。
2マーク。
4号艇の内へ入る。
バックで3番手。
2周目以降。
4号艇と6号艇を後ろに置く。
3着を残す。
灯はそこで、少しだけペンを止めた。
それから、三島の言葉を書く。
Fは消えない。
でも、Fを持ったまま3着に戻った。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
消えないものを、消そうとしなくていい。
持ったまま戻る。
それが今日の水面だった。
まどかが近くに来た。
「今日は、水面にいたね」
灯は顔を上げた。
「いましたか」
「うん」
まどかは笑った。
「Fのあとでも、ちゃんと水面にいた」
灯は、少しだけ目の奥が熱くなった。
「はい」
「3着も残した。悪くない」
「ありがとうございます」
そこへ由芽が来た。
「3着、戻しましたね」
灯はノートを閉じかけた手を止めた。
「戻せた、んでしょうか」
由芽は少し考えてから言った。
「数字では戻っています」
灯は静かに頷く。
由芽は続けた。
「でも、Fも数字の中にあります」
その言葉に、灯はもう一度頷いた。
「はい」
「だから、戻ったけど、消えたわけではないと思います」
「そうですね」
由芽は少しだけ目を伏せた。
「私なら、Fのあとに3着を取りに行くのは怖いと思います」
灯は由芽を見る。
「でも、風見さんは行きました」
その言葉は、静かに灯へ届いた。
「怖かったです」
灯は正直に言った。
「でも、行きました」
由芽は頷いた。
「見ていました」
それだけで十分だった。
モニターの表示が払い戻しへ切り替わった。
3連複。
1=2=5。
11番人気。
払戻、2,480円。
3連単。
2-1-5。
29番人気。
払戻、12,840円。
5号艇。
風見灯。
その番号が、また払い戻しの中にあった。
でも、灯はもう配当の高さだけを見ていなかった。
そこに自分の艇番がある。
Fのページを持ったまま。
6着のページを持ったまま。
4着のページを持ったまま。
もう一度、結果の中に戻った。
灯はノートに払い戻しを書いた。
3連複。
1=2=5。
11番人気。
2,480円。
3連単。
2-1-5。
29番人気。
12,840円。
5号艇。
風見灯。
3着。
そして、最後にこう書いた。
水面には戻れた。
その一行を書いて、灯はしばらく動けなかった。
勝ったわけではない。
Fが消えたわけでもない。
でも、もう一度、レースの中にいた。
もう一度、結果の中にいた。
三島がノートを見て、短く言った。
「今日は、それでいい」
灯は頷いた。
「はい。沙耶さん」
「この節は、最後まで走る」
「はい」
「勝った水面も、Fも、6着も、4着も、今日の3着も、全部持って」
灯は、ノートを見た。
全部持って。
その言葉が、今日の締めにふさわしい気がした。
灯はノートの最後に書いた。
勝った水面。
越えた線。
離れすぎた線。
水面に入る線。
戻る水面。
全部、自分の水面。
書き終えて、灯はペンを置いた。
水面は、もう次のレースへ進んでいる。
場内の音も、モニターの表示も、次々と変わっていく。
それでも、ノートには残る。
消したいものも。
残したいものも。
全部。
灯は、窓の外の水面を見た。
もう一度、そこへ戻れた。
だからこそ、この節を最後まで走り切らなければならない。
勝ったからではなく。
Fを切ったからでもなく。
自分がまだ、選手として水面に戻りたいと思っているから。
灯はノートを閉じた。
胸の奥にある怖さは、まだ消えていない。
でも、怖さの中に、少しだけ別のものが戻っていた。
次の水面を見たい。
そう思える自分が、そこにいた。




