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水面に灯る 〜落ちこぼれ女子レーサー、SGの頂点へ〜  作者: 水瀬航
第4章 勝つ水面、戻る水面
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第12話 水面に入る線

灯は、ノートの一番下に書いた言葉を見つめていた。

スタートラインは、怖い線ではない。

水面に入るための線。

そう書いた。

書けた。

けれど、書けたことと、できることは違う。

4号艇。

4コース。

F。

返還欠場。

5号艇。

5コース。

6着。

ST 0.38。

出遅れではない。

でも、レースに入るには遅すぎた。

灯は、2つのページを並べて見た。

越えたページ。

離れすぎたページ。

どちらにも、スタートラインがあった。

一方は、線の向こうへ出てしまった。

もう一方は、線の手前にいすぎた。

どちらも、水面に入れていない。

越えれば、レースから外れる。

離れすぎれば、レースの外側に置かれる。

灯はペンを握った。

スタートは、怖い。

それは消えない。

フライングの場内放送。

返還欠場。

モニターに表示されたF。

その全部が、身体の中にまだ残っている。

けれど、ずっと線から離れていたら、もう水面に戻れない。

灯は、新しいページを開いた。

今日の出走表。

1号艇、長谷川誠司。B1。

2号艇、宮野拓真。A2。

3号艇、藤崎悠斗。B1。

4号艇、黒崎怜央。B1。

5号艇、風見灯。B2。

6号艇、有馬蒼介。B1。

また5号艇。

5コース想定。

前走と同じ5号艇。

同じような位置。

でも、今日は違う水面にしなければならない。

前走は、線の手前に戻った。

けれど、手前にいすぎた。

今日は、その手前から水面に入らなければならない。

灯はノートに書いた。

5号艇。

5コース。

越えない。

置かない。

水面に入る。

書いた文字は、まだ少し硬かった。

けれど、前走の「越えない」だけの文字とは違う。

その下に、見る2艇を書く。

4号艇。

6号艇。

4号艇の黒崎怜央は、カドから攻めるタイプ。

3号艇の藤崎悠斗は、握るが出口が少し甘い。

6号艇の有馬蒼介は、大外から伸びてくる。

5コースの灯は、4号艇の攻めと6号艇の外圧の間にいる。

前を見るには、まずそこを見なければならない。

灯は、ペンを止めた。

大時計を見すぎない。

でも、見ないわけではない。

時計を見る。

スリットを見る。

4号艇を見る。

6号艇を見る。

その先の1マークを見る。

全部は見られない。

でも、時計だけを見ていたら、水面に入れない。

灯は小さく息を吐いた。

そこへ三島沙耶が来た。

「灯」

灯は顔を上げる。

「はい。沙耶さん」

三島は灯のノートを見た。

「5号艇」

「はい」

「前と同じだね」

灯は頷いた。

「はい。でも、同じにはしたくないです」

三島は静かに頷いた。

「何を変える?」

灯はノートを見た。

「スタートです」

「どう変える?」

「越えない。でも、置かない」

三島はすぐには答えなかった。

灯の言葉を待つように、黙っていた。

灯は続けた。

「前走は、越えないことだけを見ていました。だから、スタートで置いて、水面から遠くなりました」

「うん」

「今日は、線の手前から水面に入ります」

三島は短く頷いた。

「いい」

灯は、少しだけ息を吐いた。

三島は続ける。

「ただし、言葉だけで合わせようとすると、また時計を見る」

「はい」

「時計を見るな、ではない」

灯は顔を上げた。

三島はノートの出走表を指した。

「時計だけを見るな」

灯は、その言葉をすぐに書いた。

時計を見るな、ではない。

時計だけを見るな。

三島は続けた。

「スリットの先に1マークがある。スタートは、そこで終わりじゃない」

灯は頷いた。

「はい」

「通過してから、何を見る?」

「4号艇と6号艇です」

「うん」

「4号艇の攻め。6号艇の外。3号艇の出口」

「それでいい」

三島は言った。

「今日は、勝ちに行く日じゃなくて、レースに戻る日」

その言葉は、少し痛かった。

勝ちたい気持ちは、まだある。

初勝利の感覚も、まだ胸にある。

でも、今はそこではない。

F。

6着。

そのあとに、勝ちだけを見るのは違う。

灯は、ノートに書いた。

今日は、レースに戻る日。

そこへ日向まどかが顔を出した。

「硬い顔してるね」

灯は小さく頭を下げた。

「硬いです」

「正直でよろしい」

まどかは少し笑って、出走表を覗いた。

「5号艇か」

「はい」

「前と同じ位置だね」

灯は頷いた。

「だから、前と違うスタートにしたいです」

まどかは、少しだけ目を細めた。

「いいね。でも、完璧に戻そうとしない方がいいよ」

「完璧に、ですか」

「うん。Fのあとって、戻そう戻そうとすると、それもまた力む」

灯は、ノートに書きかけた手を止めた。

まどかは続ける。

「今日は、まず水面の入口まで戻れたらいい」

「入口……」

「そう。遠すぎず、近すぎず。ちゃんとレースに入る場所」

灯は、その言葉を書いた。

水面の入口。

遠すぎず、近すぎず。

朝倉由芽も近くに来ていた。

由芽は、メモ帳を胸の前で持っていた。

「風見さん」

「はい」

「数字だけ見れば、F、6着です」

由芽らしい言い方だった。

灯は、苦笑もできずに頷く。

「はい」

「次に4着でも、舟券には絡みません」

「はい」

「でも、戻っている数字にはなります」

灯は由芽を見る。

由芽は静かに続けた。

「Fの次に6着。その次に4着なら、数字は戻っています」

灯は、その言葉を受け止めた。

4着でも戻っている。

以前なら、4着は届かなかった結果だった。

今でも、もちろん悔しい。

でも今は、4着にすら戻れるかどうかの水面にいる。

由芽は、少しだけ声を落とした。

「ただ、4着を取ったあとに、すぐ3着を欲しがると、また怖くなると思います」

灯は頷いた。

「はい」

「私も、欲しがると止まるので」

由芽の言葉は、自分にも向いていた。

灯は、少しだけ胸が温かくなった。

「ありがとうございます」

由芽は小さく頭を下げた。

展示航走の時間が近づいた。

灯は5号艇のカポックを手に取る。

手はまだ冷たい。

でも、前走ほど固まってはいない。

怖い。

それは変わらない。

けれど、怖いから離れるのではない。

怖いまま、水面に入る。

6艇がピットを離れる。

1号艇、長谷川誠司。

2号艇、宮野拓真。

3号艇、藤崎悠斗。

4号艇、黒崎怜央。

5号艇、灯。

6号艇、有馬蒼介。

進入は枠なり。

1、2、3。

4、5、6。

灯は5コース。

展示の起こし。

大時計が視界に入る。

胸が少し固まる。

灯は、時計から目を離さなかった。

でも、時計だけにはしなかった。

4号艇の黒崎。

6号艇の有馬。

スリットの先の1マーク。

全部を順番に置く。

大時計。

スリット。

4号艇。

6号艇。

1マーク。

展示のスタート。

越えていない。

置きすぎてもいない。

ただ、まだ少しだけ控えている。

灯は通過した瞬間に思った。

前より、近い。

1マーク。

1号艇の長谷川が先に回る。

2号艇の宮野が差す。

3号艇の藤崎が握る。

4号艇の黒崎がカドから攻める。

6号艇の有馬が外から伸びる。

灯は5コースから、その間にいた。

前走より水面が近い。

黒崎の攻めで、藤崎の出口が少し重くなる。

灯には見えた。

3号艇の内。

ただし、深い。

6号艇の有馬も外から来る。

灯は無理には入らなかった。

まず、有馬に外を飲ませない。

黒崎の出口を見る。

藤崎の流れを見る。

展示のバックで、灯は5番手から4番手争いにいた。

悪くない。

だが、まだ完全ではない。

2マーク。

有馬が外から迫る。

灯は有馬を消す位置を取った。

それから、藤崎の出口を見る。

内が少し見える。

入る。

深すぎない。

出口を残す。

展示を終えて控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

展示。

ST 0.24くらい。

越えていない。

置きすぎてもいない。

でも、まだ少し控えている。

時計だけではなかった。

4号艇と6号艇を見られた。

1マーク。

水面が前走より近い。

3号艇の出口が重い。

でも深く入らない。

6号艇を消す。

2マーク。

6号艇を消して、3号艇を見る。

水面に入れている。

書き終えると、三島が隣に来た。

「置きすぎではない」

灯は顔を上げた。

「はい」

「でも、まだ線を見すぎてる」

灯は頷いた。

「はい。時計を見すぎました」

「時計を見るな、ではない」

三島は言った。

灯は、ノートのさっきの行を指でなぞる。

「時計だけを見るな」

「そう」

三島は続けた。

「本番は、展示より速くなる。内も動く。外も来る。そこで時計だけに戻らないこと」

「はい」

「スリットの先を見る」

「はい」

「スタートは、0秒で終わりじゃない」

灯は、その言葉を大きく書いた。

スタートは、0秒で終わりじゃない。

その先に1マークがある。

三島は、ノートを見て短く頷いた。

「今日は、それでいい」

本番の時間が来た。

灯は5号艇に乗り込む。

胸はまだ硬い。

けれど、呼吸はできている。

大時計を見ても、身体が完全に離れようとはしない。

越えない。

置かない。

水面に入る。

6艇がピットを離れた。

進入は展示と同じ。

1号艇、長谷川。

2号艇、宮野。

3号艇、藤崎。

4号艇、黒崎。

5号艇、灯。

6号艇、有馬。

1、2、3。

4、5、6。

5コース。

起こし。

大時計が視界に入る。

灯は時計を見る。

怖い。

だが、時計だけではない。

4号艇の黒崎。

6号艇の有馬。

スリットの先。

1マーク。

大時計。

スリット。

4号艇。

6号艇。

1マーク。

身体が前へ行きすぎない。

でも、引きすぎない。

スリットを通過した。

越えていない。

置いてもいない。

灯は、はっきり思った。

水面に入れた。

STは0.19。

早すぎない。

遅すぎない。

内の艇と大きく離れていない。

外にも飲まれていない。

1マークへ向かう水面が、前にあった。

1号艇の長谷川が先に回る。

2号艇の宮野が差す。

3号艇の藤崎が握る。

4号艇の黒崎がカドから攻める。

灯は5コース。

6号艇の有馬が外から伸びる。

全部が近い。

怖い。

でも、遠くない。

灯は4号艇と6号艇を見た。

黒崎の攻めで、藤崎の出口が重くなる。

有馬が外から来る。

灯は、外へ流れすぎない。

内へ深く入りすぎない。

有馬に外を飲ませず、藤崎の出口を見る。

1マーク。

黒崎が攻める。

藤崎が重くなる。

灯には内が見えた。

だが、深い。

ここで突っ込めば止まる。

灯は我慢した。

出口を残す。

有馬を消す。

バックストレッチ。

2号艇の宮野が1号艇の長谷川を差して前に出る。

長谷川が2番手。

黒崎が3番手争い。

藤崎が少し重い。

灯はその後ろ。

有馬は外で伸びきれない。

灯は5番手から4番手争いにいる。

前走のように、最初から一番後ろではない。

水面に入っている。

2マーク。

藤崎が外へ少し膨らむ。

有馬が外から被せようとする。

灯はまず有馬を消した。

外から飲ませない。

その上で、藤崎の内を見る。

ここは入れる。

深すぎない。

出口を残す。

灯は艇を落とした。

波を踏む。

艇が跳ねる。

でも、止まらない。

藤崎の内へ入る。

有馬の艇先が外にある。

灯は出口へ向けた。

バックストレッチ。

灯が藤崎の前に出た。

4番手。

前には黒崎。

3着。

舟券に絡む場所。

見えた。

けれど、灯はそこだけを見なかった。

今は、戻る水面。

4着を残す。

3着は見える。

でも、3着だけに飲まれない。

2周1マーク。

黒崎が3番手で回る。

灯は追う。

差は少しある。

藤崎が後ろから来る。

有馬もまだ完全には消えていない。

灯は、前を追いすぎない。

後ろを怖がりすぎない。

出口を残す。

スタートで水面に入ったから、今も水面の中にいる。

その感覚があった。

2周2マーク。

黒崎の出口が少し重くなる。

灯には内が見えた。

入れるか。

いや、少し遠い。

突っ込めば止まる。

灯は我慢した。

藤崎を後ろに置く。

有馬に差し場を渡さない。

4着を残す。

3周目。

実況は前の3艇を追う。

宮野。

長谷川。

黒崎。

その後ろに、灯。

4番手。

舟券には絡めない。

けれど、レースに入っている。

1マーク。

黒崎との差は少しだけ詰まる。

だが、届く距離ではない。

最後の2マーク。

黒崎が先に回る。

少しだけ内が見える。

灯は、ほんの一瞬だけ迷った。

3着。

入りたい。

でも、深い。

Fのあと、6着のあと、今は無理に突っ込む水面ではない。

灯は出口を残した。

4着を守る。

藤崎を後ろに置く。

有馬を消す。

ゴール。

1着、2号艇、宮野拓真。

2着、1号艇、長谷川誠司。

3着、4号艇、黒崎怜央。

4着、5号艇、風見灯。

5着、3号艇、藤崎悠斗。

6着、6号艇、有馬蒼介。

4着。

灯はモニターを見つめた。

5号艇、風見灯。

4着。

舟券には絡んでいない。

3着には届いていない。

勝ってもいない。

でも、Fではない。

6着でもない。

置いてもいない。

水面に入って、1艇を前に置いて、4着を残した。

灯は、胸の奥で小さく息を吐いた。

嬉しい、とは少し違う。

悔しい、もある。

でも、それより先にあったのは、戻れたという感覚だった。

控室に戻ると、三島が待っていた。

「灯」

「はい」

「今日は、レースに入れていた」

その言葉を聞いた瞬間、灯の胸が少し震えた。

「はい」

「でも、4着です」

自分で言った。

三島は頷く。

「4着だから書く」

「はい」

「でも今日は、4着より先にスタートを書く」

灯はノートを開いた。

手は震えていなかった。

少しだけ力は入っている。

でも、書ける。

5号艇。

5コース。

4着。

展示ST 0.24。

本番ST 0.19。

越えなかった。

置かなかった。

スリットのあと、4号艇と6号艇を見られた。

1マークで水面に入れた。

2マークで6号艇を消して、3号艇を前に置いた。

4着。

舟券には絡めなかった。

でも、レースに戻れた。

灯は、そこまで書いてペンを止めた。

三島がノートを読む。

「うん」

灯は顔を上げる。

「これでいいですか」

「いい」

三島は短く言った。

「Fのあとに戻すのは、勝つより先に必要な仕事」

灯は、その言葉をもう一度書いた。

Fのあとに戻すのは、勝つより先に必要な仕事。

まどかが近づいてきた。

「今日は遠くなかったね」

灯は頷いた。

「はい」

「まだ近すぎてもない。ちょうど水面の入口くらい」

灯は、ノートを見る。

水面の入口。

「入口から、また作ればいいよ」

まどかは軽く言った。

その軽さが、今はありがたかった。

由芽も来た。

「4着でしたね」

「はい」

「F、6着、4着」

由芽は、数字を並べる。

「戻っています」

灯は少しだけ目を伏せた。

「戻っていますか」

「はい。少なくとも、数字は戻っています」

由芽は言った。

「でも、次に3着を欲しがると、また怖くなると思います」

灯は頷いた。

「はい」

「私も、4着のあとに3着を欲しがると、止まります」

由芽は少しだけ苦笑した。

「だから、見ます」

「何をですか」

「風見さんが、次にどう3着を見るのかを」

灯は、由芽の言葉を受け止めた。

次。

3着。

また、見える場所まで戻ってきた。

でも、焦ってはいけない。

3着を取るには、水面に入る必要がある。

水面に入るには、スタートラインの手前で戦う必要がある。

灯はノートの一番下に書いた。

水面に入る線。

越えてはいけない。

離れすぎてもいけない。

その手前で、艇を水面へ入れる。

まだ勝てない。

まだ絡めない。

でも、戻れた。

戻れたなら、次はまた前を見る。

書き終えて、灯はノートを閉じた。

Fのページは消えない。

6着のページも消えない。

でも、その次に4着のページができた。

越えた線。

離れすぎた線。

そして、水面に入る線。

灯は、少しだけ窓の外を見た。

水面は、次のレースの波で揺れている。

怖さは、まだある。

たぶん、これからも消えない。

でも、怖いままでも入れる水面がある。

そのことを、今日は少しだけ思い出せた。

スタートラインは、終わりの線ではない。

そこから、レースが始まる。

灯は胸の奥で、もう一度だけ言った。

次は、また前へ。

今度は、怖さで離れるのではなく。

水面に入ったまま。

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