第11話 線の手前
灯は、ノートを開いたまま、しばらく動けずにいた。
4号艇。
4コース。
フライング。
返還欠場。
その文字は、何度見ても冷たかった。
6着ではない。
5着でもない。
レースの中で沈んだわけではない。
レースの結果から、自分の艇番が外れた。
F。
数字ではなく、文字。
勝った水面の次に、越えてはいけない線を越えた。
その事実は、ノートの上で消えずに残っていた。
灯は、その下に書いた言葉をもう一度見る。
遅れたくなかった。
だから、越えた。
書いた時、胸の奥が壊れそうだった。
けれど、三島沙耶は言った。
ここを書かないと、次の水面に戻れない。
逃げるな。
そして三島は、自分を名前で呼んだ。
灯。
その声は、今も耳の奥に残っている。
優しいだけの声ではなかった。
引き戻す声だった。
水面の外へ落ちそうな自分を、無理やり線の手前に戻す声だった。
灯はペンを握った。
今日の出走表を書く。
1号艇、森脇悠斗。B1。
2号艇、沢村啓吾。A2。
3号艇、柏木蓮。B1。
4号艇、相原大悟。B1。
5号艇、風見灯。B2。
6号艇、神谷颯太。B1。
5号艇。
5コース想定。
4号艇より外。
6号艇より内。
行ければ展開に絡める場所。
けれど、スタートで置かれれば、すぐ外に飲まれる場所。
灯は、5号艇の欄を見つめた。
4号艇ではない。
カドではない。
でも、スタートラインは同じだった。
0秒の線。
越えてはいけない線。
その手前で、最大にする線。
灯は、ノートの端に書いた。
越えない。
書いてから、少しだけ息が詰まった。
越えない。
それは当然のことだった。
でも、今の灯には、その当然が怖かった。
勝ちたいより先に、越えたくないが来ている。
遅れたくないより先に、もう一度Fを切りたくないが来ている。
それは、前へ出る言葉ではなかった。
水面に入る言葉でもなかった。
ただ、線から遠ざかろうとする言葉だった。
控室では、いつものように選手たちが出走表を確認している。
誰かがエンジンの話をしている。
モニターでは次の展示が流れている。
灯だけが、時間の流れから少し遅れているような気がした。
「風見さん」
朝倉由芽の声がした。
灯は顔を上げる。
由芽はメモ帳を持って、灯の前に立っていた。
「今日、5号艇ですね」
「はい」
「スタート、怖いですか」
その問いは、まっすぐだった。
灯は誤魔化せなかった。
「怖いです」
由芽は静かに頷いた。
「越えるのが、ですか」
「はい」
言ってから、灯は少しだけ目を伏せた。
「この間は、遅れたくなくて越えました」
由芽は黙って聞いていた。
「今日は、越えたくなくて……たぶん、置きそうです」
自分で言葉にした瞬間、胸が重くなった。
分かっている。
自分が反対側に振れかけていることを。
分かっているのに、戻せるか分からない。
由芽は少し考えてから言った。
「私は、怖い時に残す方へ寄ります」
灯は由芽を見る。
「前に出るより、崩れない方を選びます。だから、三島さんには、入る前で止まることがあると言われました」
灯は、由芽の言葉を聞きながら、自分の胸の中にあるものを見ていた。
由芽は残しすぎる。
灯は入りすぎる。
でも今の灯は、入ることすら怖くなっている。
「風見さん」
由芽は言った。
「Fじゃなければいい、だけではないと思います」
その言葉は、静かに刺さった。
Fじゃなければいい。
今の灯は、まさにそこに逃げようとしていた。
越えなければいい。
返還欠場にならなければいい。
レースを壊さなければいい。
でも、それだけで水面に入れるわけではない。
「ありがとうございます」
灯は小さく言った。
由芽は首を振った。
「私も、自分に言っています」
そこへ三島沙耶が来た。
灯は自然に姿勢を正す。
「沙耶さん」
三島は、まずノートを見た。
そこには、まだ短い言葉しかない。
5号艇。
5コース。
越えない。
三島は、その言葉を見て少しだけ目を細めた。
「灯、今日は置きそうだね」
灯は息を呑んだ。
やっぱり、見抜かれている。
「はい」
三島は出走表を見た。
「5コース。4号艇の相原さんが攻める。6号艇の神谷さんは外から来る。灯が置いたら、4号艇にも6号艇にも水面を取られる」
「はい」
「見る2艇は?」
灯はノートに書き始めた。
「4号艇と6号艇です」
「うん」
「4号艇の相原さんが攻める。6号艇の神谷さんが外から来る。その間で自分の出口を残す」
「それでいい」
三島は頷いた。
「でも、スタートで置いたら、その水面は最初から遠くなる」
灯はペンを止めた。
「はい」
「越えないことは最低条件」
三島は、灯のノートを指した。
「でも、越えないためだけにスタートするんじゃない」
灯は顔を上げた。
三島の声は低く、はっきりしていた。
「スタートは、レースに入るためにある」
灯の胸が、静かに震えた。
レースに入るため。
越えないためだけではない。
遅れないためだけでもない。
勝つためだけでもない。
水面に入るため。
灯はノートに書いた。
スタートは、レースに入るためにある。
三島は続けた。
「Fを恐れるのは当然」
「はい」
「でも、恐れて遠くにいたら、レースに入れない」
「はい」
「怖いなら、線の手前に戻る。でも、手前にいすぎない」
灯は、言葉を飲み込むように頷いた。
線の手前。
そこに戻る。
でも、そこにいすぎない。
それができるかは分からない。
けれど、書くしかない。
展示航走の時間が近づいた。
灯は5号艇のカポックを手に取る。
手が冷たい。
フライングを切った時とは違う冷たさだった。
あの時は、越えてしまう怖さが後から来た。
今日は、越える前から怖い。
スリットに立つ前から、身体が線を避けようとしている。
6艇がピットを離れた。
1号艇、森脇悠斗。
2号艇、沢村啓吾。
3号艇、柏木蓮。
4号艇、相原大悟。
5号艇、灯。
6号艇、神谷颯太。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
展示の起こし。
スリットへ向かう。
大時計が視界に入る。
あの感覚が、一瞬で蘇った。
越えた。
あの冷たさ。
返還欠場の場内放送。
モニターのF。
灯は、無意識に艇を置いた。
スリット。
遅い。
明らかに遅い。
越えていない。
それは分かる。
でも、置いている。
4号艇の相原が前にいる。
6号艇の神谷が外から伸びてくる。
灯だけが、少し後ろにいた。
1マーク。
森脇が先に回る。
沢村が差す。
柏木が握る。
相原がカドから攻める。
神谷が外から来る。
灯は水面を見た。
見えていた。
相原の出口。
神谷の外。
柏木の流れ。
でも、遠い。
見えているのに、入れる位置にいない。
灯はようやく艇を向ける。
けれど、もう遅い。
水面は前で閉じていた。
展示を終えて控室へ戻る。
灯は、すぐにノートを開いた。
展示。
スタートを置いた。
越えなかった。
でも、置きすぎた。
4号艇にも6号艇にも前に行かれた。
水面は見えた。
でも、遠かった。
レースに入れていない。
書いているうちに、胸が苦しくなった。
Fではない。
越えていない。
なのに、全然良くない。
三島が隣に来た。
「今度は置いてる」
灯は頷いた。
「はい」
「展示STはかなり遅い」
「はい」
「出遅れではない。でも、レースに入るには遅すぎる」
灯は、ペンを握る手に力を入れた。
「はい」
「越えないのは当然」
三島は言った。
「でも、置きすぎたら勝負にならない」
灯はノートに書く。
越えないのは当然。
置きすぎたら勝負にならない。
「沙耶さん」
「なに?」
「本番、怖いです」
三島はすぐに答えなかった。
その沈黙が、灯には長く感じた。
やがて、三島は言った。
「怖いまま行くしかない」
灯は顔を上げる。
「怖くなくなってから、じゃ遅い」
「はい」
「怖いから準備する。怖いから合わせる。怖いから水面に戻る」
灯は頷いた。
「はい」
三島は、少しだけ声を落とした。
「灯」
灯は息を止める。
その声は甘くなかった。
でも、逃げそうな灯を捕まえる声だった。
「今日は、線の手前に戻る日」
「はい」
「でも、手前から水面に入らないと意味がない」
灯は、ゆっくり頷いた。
「はい」
本番の時間が近づく。
灯は5号艇に乗り込んだ。
エンジン音が近い。
水面の匂いがする。
スリットの線は、まだ遠くにある。
でも、灯の胸の中ではもう目の前にあるようだった。
越えたくない。
もう一度Fを切りたくない。
レースを壊したくない。
でも、置きすぎたくもない。
水面に入りたい。
灯は、何度も息を整えた。
スタートは、レースに入るためにある。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1号艇、森脇。
2号艇、沢村。
3号艇、柏木。
4号艇、相原。
5号艇、灯。
6号艇、神谷。
1、2、3。
4、5、6。
5コース。
起こし。
大時計。
スリット。
灯は、いつもより強く時計を見た。
見すぎている。
そう分かった。
でも、目が離せない。
0秒の線。
越えてはいけない線。
その手前。
その手前。
身体が、自然に控える。
スリットを通過した。
越えていない。
それは分かった。
けれど、その瞬間にはもう、内の艇が前にいた。
4号艇の相原がカドから出ている。
6号艇の神谷も外から伸びている。
灯は、その間で置かれた。
スタートは0.38。
出遅れではない。
けれど、レースに入るには遅すぎた。
1マークへ向かう。
1号艇の森脇が先に回る。
2号艇の沢村が差す。
3号艇の柏木が握る。
4号艇の相原が攻める。
6号艇の神谷が外から来る。
灯には全部見えた。
見えたのに、遠かった。
フライングを切った時とは違う。
あの時は、見えているのに入る資格がなかった。
今日は、見えているのに届く位置にいなかった。
灯は艇を向ける。
相原の出口。
神谷の内。
柏木の外。
水面はある。
でも、遅い。
すでに前で形が決まり始めている。
バックストレッチ。
2号艇の沢村が前へ出る。
1号艇の森脇が残す。
4号艇の相原が3番手争い。
3号艇の柏木が続く。
6号艇の神谷が灯より前にいる。
灯は6番手。
6着。
久しぶりに、はっきりと一番後ろだった。
2マーク。
神谷の内が見える。
灯は入ろうとする。
でも、最初の遅れが響いている。
距離がある。
神谷は出口を残している。
灯は内へ入るが、届かない。
波を踏む。
艇が跳ねる。
出口で伸びない。
2周目。
灯は何度も水面を探した。
神谷を前に置きたい。
5着に上がりたい。
せめて1艇。
けれど、スタートで置かれた差は大きかった。
1マークの時点で、自分はレースの外側にいた。
見えているのに、届かない。
3周目。
前の艇は遠い。
灯は追い続ける。
でも、焦っても水面は戻らない。
最後の2マーク。
神谷の出口が少し重くなる。
灯は内を見る。
入る。
でも、半艇身にも届かない。
ゴール。
1着、2号艇、沢村啓吾。
2着、1号艇、森脇悠斗。
3着、4号艇、相原大悟。
4着、3号艇、柏木蓮。
5着、6号艇、神谷颯太。
6着、5号艇、風見灯。
6着。
灯は、モニターを見つめた。
5号艇、風見灯。
6着。
数字だった。
Fではない。
返還欠場ではない。
レースは壊していない。
でも、レースに入れなかった。
数字が残った。
6着。
かつて何度も見た数字。
でも、その意味は以前とは違った。
力が足りなくて置かれた6着ではない。
線を怖がって、水面から遠くなった6着だった。
控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
今日は、書ける。
Fの時のように、白紙が怖くて動けないわけではない。
けれど、書く内容は重かった。
5号艇。
5コース。
6着。
展示。
スタートを置いた。
本番。
ST 0.38。
出遅れではない。
でも、レースに入るには遅すぎた。
4号艇と6号艇を見るはずだった。
でも、スタートで置かれて、見える水面が遠くなった。
1マーク。
全部見えた。
でも、届く位置にいなかった。
6号艇、神谷さんを追う。
でも、届かない。
6着。
灯は、そこでペンを止めた。
三島が来た。
「書けてる?」
「はい」
灯はノートを見せた。
三島は静かに読む。
「今日は越えなかった」
「はい」
「でも、走れてもいない」
灯は、喉の奥が詰まった。
「はい」
三島はノートのST 0.38の文字を指した。
「これは出遅れじゃない」
「はい」
「でも、戦うスタートでもない」
灯は、目を伏せた。
「はい」
「Fのあとに慎重になるのは当然」
三島の声は、フライングを切った時ほど鋭くはなかった。
けれど、逃げ道もなかった。
「でも、慎重と逃げるは違う」
灯は、その言葉を書いた。
慎重と逃げるは違う。
三島は続けた。
「今日は越えないために、線から遠くにいた」
「はい」
「でも、スタートラインは怖がって離れるものじゃない」
灯は顔を上げた。
「水面に入るための線」
三島は頷いた。
「そう」
灯は、ノートに書いた。
スタートラインは、怖がって離れるものじゃない。
水面に入るための線。
そこへ、まどかが来た。
「今日は壊さなかったね」
灯は頷いた。
「はい」
「でも、怖くて遠くにいた」
その言葉に、灯は少しだけ胸を押さえた。
「遠くに……」
「うん。水面から遠かった」
まどかはモニターを見ながら言った。
「越えなかった。それは大事。でも、遠くにいたら、風見ちゃんの見る水面も遠くなる」
灯は、1マークを思い返した。
見えていた。
相原の出口も、神谷の位置も、柏木の流れも。
でも、遠かった。
見えているだけではだめだった。
そこへ入れる位置にいなければ、何もできない。
朝倉由芽も近づいてきた。
「6着、残りましたね」
灯は頷いた。
「はい」
由芽の言葉は、いつも通り現実をそのまま置く。
「Fじゃないので、着順は残ります」
「はい」
「でも、6着です」
灯は、もう一度頷いた。
痛い。
けれど、必要な言葉だった。
由芽は続けた。
「残った数字も、見ないといけないと思います」
灯はノートを見る。
6着。
数字として残る。
Fではないから、レースは壊していない。
でも、6着として勝率に残る。
逃げてはいけない。
「ありがとうございます」
灯が言うと、由芽は少しだけ首を振った。
「私も、怖い時は残すことだけ考えて、前に行けなくなります」
灯は由芽を見る。
「だから、見ていました」
由芽はメモ帳を握った。
「風見さんが、線の手前に戻ったことも。そこにいすぎたことも」
灯は、その言葉を受け止めた。
由芽は数字を見る。
でも、今日の水面も見ていた。
Fではない。
6着。
線の手前。
そこにいすぎた。
灯はノートに書き足した。
越えなかった。
でも、置いた。
返還欠場ではない。
でも、レースに入れなかった。
線の手前に戻った。
けれど、手前にいすぎた。
三島は、その文字を見て頷いた。
「そこ」
灯は顔を上げる。
「そこを書けたなら、今日はいい」
「6着でも、ですか」
「6着だから書く」
三島は言った。
「Fも書く。6着も書く。1着も書く。全部同じノートに残す」
灯は、ノートを見た。
初勝利のページ。
Fのページ。
今日の6着のページ。
どれも、自分の水面だった。
どれかだけを選んで持つことはできない。
三島は言った。
「灯」
灯は、自然に顔を上げた。
「はい」
「線の手前に戻れた。でも、まだ水面には戻りきっていない」
灯は、ゆっくり頷いた。
「はい」
「次は、線の手前で戦う」
その言葉が、灯の胸に残った。
線の手前で戦う。
越えない。
でも、離れない。
怖がりすぎない。
遅れすぎない。
水面に入る。
灯は、ノートの一番下に書いた。
線の手前。
そこに戻れた。
でも、そこに留まりすぎた。
越えてはいけない。
けれど、遠すぎても戦えない。
スタートラインは、怖い線ではない。
水面に入るための線。
書き終えて、灯はペンを置いた。
手はまだ少し震えている。
けれど、フライングを切った時とは違う震えだった。
あの時は、越えた理由を書いた。
今日は、離れすぎた理由を書いた。
どちらも苦しい。
でも、どちらも必要だった。
水面は、いつも線の向こうにある。
越えてはいけない。
でも、届かなければ入れない。
灯は、モニターに映る次のレースを見た。
スリットを通過する艇。
0秒の手前で、ぎりぎりに合わせていく艇。
その先に、1マークがある。
スタートラインは、終わりの線ではない。
レースが始まる線。
そこへ、もう一度戻らなければならない。
今度は、怖さで離れるのではなく。
水面に入るために。




