第10話 越えてはいけない線
灯は、ノートの下に書いた一行を見つめていた。
遅れたくない。
その言葉は、思っていたよりも冷たかった。
勝ちたい、とは違う。
前へ行きたい、とも違う。
遅れたくない。
置いていかれたくない。
後ろに戻りたくない。
勝った自分を、すぐに消したくない。
そこには、前へ進む力よりも、何かから逃げるような硬さがあった。
灯は、その一行に指を置いた。
初勝利のあと、5着を取った。
6着ではない。
5着は、かつて灯にとって大きな一歩だった。
それなのに、今は悔しかった。
悔しがること自体は悪くない。
日向まどかも、三島沙耶もそう言った。
けれど、5着を雑に扱ってはいけない。
勝ったレースも、5着のレースも、原因で見る。
灯は分かっていた。
分かっているはずだった。
それでも、胸の奥にある焦りは消えなかった。
また後ろへ戻ったら。
また何もできずに終わったら。
昨日の勝利が、たまたまだと思われたら。
灯は、ペンを握り直した。
勝ったことは消えない。
でも、次の水面は別。
そう書いてある。
その通りだと思う。
でも、身体はまだ納得していなかった。
控室に入ると、朝倉由芽がメモ帳を開いていた。
由芽は顔を上げ、灯に小さく会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
灯も頭を下げる。
由芽は灯のノートにちらりと視線を落とした。
「今日、出走ありますよね」
「はい」
「4号艇でしたか」
「はい」
灯は出走表を開いた。
1号艇、川原直也。B1。
2号艇、矢野航。A2。
3号艇、塚本怜。B1。
4号艇、風見灯。B2。
5号艇、白井健斗。B1。
6号艇、名取蒼。B1。
灯は4号艇。
4コース想定。
カド。
攻められる位置。
勝ちたい気持ちが出やすい位置。
それを見ただけで、胸の奥がざわついた。
6号艇ではない。
5号艇でもない。
4号艇。
昨日より、1マークが近い。
見える水面も近い。
前へ行けるかもしれない。
その思いが、灯の胸を急かした。
由芽は、出走表を見て静かに言った。
「4コースですね」
「はい」
「攻める位置です」
灯は頷いた。
「でも、怖いです」
「勝ちたいからですか」
灯は少しだけ言葉に詰まった。
勝ちたい。
それはある。
でも、それだけではない。
「遅れたくないんです」
言ってから、灯は自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
由芽は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから言った。
「それは、怖い言葉ですね」
灯は顔を上げる。
由芽の声は責めているわけではなかった。
ただ、正確に見ている声だった。
「私も、数字を崩したくない時があります」
由芽はメモ帳を閉じる。
「そういう時は、残すために走っているつもりなのに、かえって動けなくなることがあります」
灯は、ノートを見る。
遅れたくない。
その言葉は、自分だけのものではないのかもしれない。
誰もが、何かを失いたくなくて硬くなる。
勝った選手も。
残す選手も。
数字を積む選手も。
そこへ三島沙耶が来た。
灯は自然に顔を上げた。
「沙耶さん」
三島は頷く。
「風見さん」
呼び方の距離は、まだ少し不思議だった。
灯は三島を沙耶さんと呼ぶようになった。
でも、三島はまだ風見さんと呼ぶ。
その距離が、今はかえって灯を落ち着かせた。
三島は出走表を見る。
「4号艇」
「はい」
「展示でスタートを見て」
灯の胸が少しだけ固まった。
「はい」
「昨日、遅れたくないって書いたね」
「はい」
「今日、その言葉が出ると思う」
灯は息を呑んだ。
三島は淡々としている。
けれど、言葉は逃げ場なく灯に届いた。
「勝ちたいと思うのはいい。でも、遅れたくないで踏み込むと危ない」
「はい」
「4コースは攻められる。だから余計に、スタートで気持ちが前に出る」
灯はノートを開く。
4号艇。
4コース。
カド。
3号艇が少し重い。
4コースから見える。
でも、スタートが早くなりやすい。
遅れたくない気持ちが出る。
三島はノートを見て、短く言った。
「書けてるなら、見られる」
灯は頷いた。
「はい」
「でも、書けていても本番で消えることがある」
灯の手が止まる。
「はい」
「だから、展示で確認する」
三島は言った。
「今日の課題は、勝つことより、遅れたくないで行かないこと」
灯は少しだけ顔を上げた。
勝つことより。
その言葉は痛かった。
勝ちたい。
もう一度、前へ行きたい。
初勝利をたまたまで終わらせたくない。
その思いは、今もある。
けれど、三島はそこを見ていた。
勝つ前に、越えてはいけない線がある。
灯は頷いた。
「はい」
展示航走の時間が近づいた。
灯は4号艇のカポックを手に取る。
手のひらが少し汗ばんでいた。
4号艇。
4コース。
スリットから1マークが近い。
近いぶん、迷えばすぐ詰まる。
近いぶん、踏み込めば前へ行けるかもしれない。
その「かもしれない」が、灯の胸を急かす。
6艇がピットを離れた。
1号艇の川原直也が内へ向かう。
2号艇の矢野航。
3号艇の塚本怜。
4号艇、灯。
5号艇の白井健斗。
6号艇の名取蒼。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
展示の起こし。
スリットが近づく。
灯は、わずかに踏み込んだ。
自分でも、分かった。
早い。
身体が前へ出ている。
遅れたくない。
その言葉が、起こしから艇に乗っている。
展示のスリットを通過した瞬間、灯の胸が冷たくなった。
早かった。
越えてはいない。
だが、余裕はなかった。
1マーク。
川原が先に回る。
矢野が差す。
塚本が握るが、少し出口が重い。
灯は4コースから、その外を見る。
入れる。
そう思った。
けれど、スタートで前に出た分、心も前へ行っていた。
3号艇の外。
2号艇の差し。
1号艇の出口。
全部が近く見える。
灯は艇を向けた。
少し外へ散る。
5号艇の白井が内を見ている。
6号艇の名取も外から来る。
灯は2マークで修正した。
けれど、展示を終えた時には、胸の奥がざわついていた。
控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
スタートが早い。
遅れたくない気持ちが出ている。
3号艇の出口が重い。
4コースから見える。
前へ行きたくなる。
艇が少し外へ散る。
5号艇に内を見られる。
灯はそこまで書いて、ペンを止めた。
三島が隣に立った。
「展示、早い」
「はい」
「かなり前に出てる」
灯は頷いた。
「分かりました」
「分かっただけでは足りない」
灯は、息を止めた。
三島は続ける。
「本番で修正すること」
「はい」
「遅れたくない、ではなく、合わせる」
灯は書いた。
遅れたくない、ではなく、合わせる。
「4号艇だから攻められる。でも、攻めることと越えることは違う」
「はい」
「線の手前で、最大にする」
灯は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
線の手前で、最大にする。
スタートライン。
越えてはいけない線。
その手前で、最大にする。
越えれば終わる。
三島は言った。
「風見さん」
「はい」
「今日、勝てなくてもいい」
灯は、思わず顔を上げた。
三島はまっすぐ灯を見ていた。
「勝てなくてもいい。遅れたくないで越える方がだめ」
灯は喉の奥が詰まった。
「はい」
言葉は返した。
けれど、胸の奥の焦りは完全には消えなかった。
勝てなくてもいい。
そう言われても、勝ちたい。
遅れたくない。
後ろに戻りたくない。
その感情は、まだ水面の奥で揺れていた。
本番の時間が近づいた。
灯は4号艇に乗り込む。
エンジン音が身体に入る。
水面が近い。
スリットが近い。
心臓の音が速くなる。
勝ちたい。
遅れたくない。
戻りたくない。
灯は、胸の中でそれらの言葉を押さえつけようとした。
合わせる。
線の手前で、最大にする。
6艇がピットを離れた。
進入は展示と同じ。
1号艇、川原。
2号艇、矢野。
3号艇、塚本。
4号艇、灯。
5号艇、白井。
6号艇、名取。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
起こし。
スリットへ向かう。
景色が速くなる。
1号艇の川原。
2号艇の矢野。
3号艇の塚本。
内の艇が横に並ぶ。
灯は4コースから、ラインを見た。
合わせる。
合わせる。
そう思っていた。
けれど、身体は半歩前へ出ていた。
遅れたくない。
その言葉が、最後に残った。
スリット。
通過した瞬間、灯は分かった。
越えた。
ほんのわずかだった。
けれど、越えていた。
時間が、急に薄くなった。
エンジン音は鳴っている。
水面も動いている。
1マークは見えている。
3号艇の出口も、2号艇の差しも、4コースから入れる水面も見えていた。
でも、もうそこへ入る資格がない。
灯の身体から、熱が引いた。
艇は走っている。
けれど、自分のレースではなくなっていた。
1マーク。
川原が回る。
矢野が差す。
塚本が握る。
灯の目には、水面が見えていた。
見えているのに、入れない。
いや、入ってはいけない。
もう結果の中にいない。
自分は、レースから外れた。
灯は、周回を終えるまで、自分の身体がどこにあるのか分からないような感覚だった。
ピットへ戻る途中、場内放送の声が遅れて耳に入った。
「4号艇、風見灯、フライング。返還欠場です」
返還欠場。
その言葉で、灯の中に残っていたわずかな期待が完全に消えた。
分かっていた。
越えた瞬間に、分かっていた。
それでも、言葉にされると違った。
4号艇。
風見灯。
フライング。
返還欠場。
自分の名前と、その言葉が並んだ。
灯は、艇から降りた。
足元が、少し頼りなかった。
控室に戻るまで、誰の顔も見られなかった。
モニターには、レースの結果が表示されていた。
1着、2号艇、矢野航。
2着、1号艇、川原直也。
3着、5号艇、白井健斗。
4着、3号艇、塚本怜。
5着、6号艇、名取蒼。
4号艇、風見灯。
F。
返還欠場。
数字ではなかった。
6着でもない。
5着でもない。
4着でもない。
F。
灯は、その文字を見つめた。
今まで、どれだけ悪くても数字だった。
6着。
5着。
4着。
3着。
2着。
1着。
どれも、レースを走った結果だった。
でも、そこには数字がなかった。
F。
返還欠場。
レースの結果から、自分の艇番が外れていた。
灯は、ノートを開けなかった。
手が動かない。
ペンを持つ気にもなれない。
書くことがない。
そう思った。
レースになっていない。
負けたわけでもない。
届かなかったわけでもない。
沈んだわけでもない。
越えた。
それだけだった。
日向まどかが、近くに来た。
いつものような軽さはなかった。
「風見ちゃん」
灯は顔を上げられなかった。
「……はい」
「座ろう」
灯は、言われるまま椅子に座った。
まどかは隣に座る。
しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
少し離れた場所に、朝倉由芽が立っていた。
由芽も、何も言わない。
ただ、灯を見ていた。
責める目ではない。
でも、逃がさない目だった。
やがて、三島沙耶が来た。
灯は、ノートを閉じたまま膝の上に置いていた。
三島は灯の前に立つ。
「風見さん」
灯は、ようやく顔を上げた。
「……はい」
「書きなさい」
灯の胸が、ぎゅっと縮んだ。
「書けません」
声が掠れた。
三島は表情を変えなかった。
「書きなさい」
灯は首を振った。
「レースに、なってません」
「だから書く」
その言葉は、鋭かった。
灯は三島を見た。
「何を書けばいいんですか」
「なぜ越えたか」
灯は、言葉を失った。
なぜ越えたか。
それだけ。
でも、それがすべてだった。
灯は、震える手でノートを開いた。
ページの上に、しばらく何も書けなかった。
白い紙が怖かった。
勝ったレースを書いた時よりも、ずっと怖かった。
三島は待っている。
まどかも、由芽も、何も言わない。
灯は、ペンを紙に置いた。
4号艇。
4コース。
フライング。
返還欠場。
書いた瞬間、胸が痛んだ。
それでも、続ける。
展示。
スタートが早いと分かっていた。
遅れたくない気持ちが出ていた。
三島さんに、修正するように言われた。
本番。
合わせようとした。
でも、最後に遅れたくないが残った。
スタートラインを越えた。
灯は、そこでペンを止めた。
文字が震えている。
三島はノートを見る。
「もっと書く」
灯は顔を上げた。
「まだ、ですか」
「まだ」
三島の声は静かだった。
「勝ちたい、だけじゃない」
灯の胸が冷たくなる。
三島は言った。
「何が怖かった?」
灯は、ペンを握った。
怖かったもの。
遅れること。
後ろに戻ること。
勝った自分を消すこと。
たまたまだと思われること。
また6着に戻ること。
自分が、ただの一度だけ勝った選手になること。
灯は、少しずつ書いた。
遅れたくなかった。
また後ろに戻りたくなかった。
勝った自分を消したくなかった。
たまたまだと思われたくなかった。
見られている気がした。
何かを見せなければいけないと思った。
スタートで置いていかれたくなかった。
書いているうちに、目の奥が熱くなってきた。
でも、涙はまだ出なかった。
三島が言った。
「フライングは、負け方じゃない」
灯は、ペンを止めた。
三島の声は、いつもより低かった。
「レースを壊すこと」
その言葉が、灯の胸の奥を刺した。
レースを壊すこと。
自分が負けたのではない。
自分が沈んだのでもない。
自分の艇番が、返還になった。
舟券が返還された。
自分はレースの結果から外れた。
灯は、ノートに書いた。
これは負けではない。
レースを壊した。
その文字を書いた瞬間、ようやく涙が落ちた。
紙に、小さな点がついた。
灯は慌てて手で拭おうとした。
三島が静かに言った。
「拭かなくていい」
灯は手を止めた。
三島は続けた。
「怖かった、で終わらせない」
「はい」
声にならないほど小さかった。
「勝った自分を守りたかった」
「はい」
「遅れたくなかった」
「はい」
「だから越えた」
灯は、唇を噛んだ。
「はい」
認めるのが怖かった。
でも、そこから逃げたら、きっとまた同じ場所に戻る。
灯はノートに書いた。
怖かった。
でも、怖かったから越えていいわけではない。
三島は、それを見て短く頷いた。
「それでいい」
けれど、灯は顔を上げられなかった。
「沙耶さん」
「なに?」
「私……戻れますか」
その言葉は、思わず出た。
水面に。
レースに。
スタートラインの手前に。
越えてはいけない線の手前に。
戻れるのか。
三島はすぐには答えなかった。
沈黙が長く感じた。
まどかも、由芽も、何も言わない。
やがて、三島が静かに言った。
「灯」
灯は、息を止めた。
初めてだった。
三島が、自分を名字ではなく名前で呼んだ。
風見さん、ではなく。
灯。
その声は、優しく甘やかすためのものではなかった。
水面から引き上げるための、強い声だった。
灯はゆっくり顔を上げた。
三島は、まっすぐ灯を見ていた。
「ここを書かないと、次の水面に戻れない」
灯の胸が震えた。
「はい」
「逃げるな」
その言葉は厳しかった。
でも、突き放すものではなかった。
灯は泣きそうになりながら頷いた。
「はい」
三島はノートを指した。
「もう一度」
灯は、ペンを握った。
一番下に、震える字で書いた。
遅れたくなかった。
その下に、もう一行。
だから、越えた。
書いた文字を見た瞬間、灯は涙をこぼした。
まどかが静かに息を吐く。
「書けたね」
灯は頷いた。
「はい」
由芽が、少し離れたところから言った。
「Fは、成績にも残ります」
灯は顔を上げる。
由芽の声は冷たくなかった。
ただ、現実を言っていた。
「でも、書かなかったら、それ以上に残ると思います」
灯は、その言葉をゆっくり受け止めた。
「はい」
由芽は小さく頭を下げた。
「私も、忘れません」
その言葉に、灯はまた胸が痛くなった。
自分だけの失敗ではない。
見ていた人がいる。
走っていた人がいる。
買っていた人がいる。
返還された舟券がある。
レースを壊した。
その重さは、簡単には消えない。
三島は言った。
「今日は、ここまででいい」
灯はノートを見る。
4号艇。
4コース。
フライング。
返還欠場。
遅れたくなかった。
だから、越えた。
これは負けではない。
レースを壊した。
そのページは、今までで一番見たくないページだった。
でも、閉じてはいけないと思った。
三島は、静かに続けた。
「初勝利も残る。Fも残る」
灯は頷いた。
「はい」
「どちらかだけ持って走ることはできない」
灯は、初勝利のページを思い出した。
5号艇。
5コース。
1着。
決まり手、抜き。
その次に、このページがある。
4号艇。
4コース。
F。
返還欠場。
勝った水面。
越えた線。
どちらも、自分のものだった。
灯はノートを閉じた。
胸はまだ苦しい。
手も震えている。
けれど、書く前とは違った。
逃げられないものが、形になって紙の上にある。
それは怖い。
でも、見える。
見えるなら、戻れるかもしれない。
灯は、小さく息を吸った。
「沙耶さん」
三島が顔を向ける。
「なに?」
「書きます。ちゃんと」
三島は短く頷いた。
「うん」
少し間を置いて、三島は言った。
「灯」
灯は、もう一度顔を上げた。
「はい」
「次の水面に戻るために、今日はこれを書いた」
灯は頷いた。
「はい」
水面は、もう次のレースへ進んでいる。
場内には、別の艇の音が響いている。
さっきのフライングも、返還欠場も、結果表示も、やがて次のレースの音に押し流されていく。
けれど、灯のノートには残った。
消えない。
消してはいけない。
灯は、ノートを胸に抱えた。
勝った水面の次に、越えてはいけない線があった。
その線を越えた理由を、灯は初めて真正面から書いた。
遅れたくなかった。
だから、越えた。
その事実から逃げずにいることが、次の水面へ戻るための最初の一歩だった。




