最終話 走れない時間
節が終わった。
5日間。
9走。
灯は、ノートの最後にその数字を書いた。
5日開催。
9走。
その下に、1走ずつ結果を並べていく。
5号艇。
4着。
5号艇。
3着。
4号艇。
2着。
5号艇。
1着。
6号艇。
5着。
4号艇。
F。
5号艇。
6着。
5号艇。
4着。
5号艇。
3着。
書き終えてから、灯はペンを止めた。
短い数字の並びなのに、そこには今までで一番長い時間が詰まっているように見えた。
初めて1着を取った。
自分の名前が、一番上に出た。
5号艇。
風見灯。
1着。
決まり手、抜き。
その文字を見た時、胸が熱くなった。
沙耶さんに、勝ちましたと言った。
思わず、名前で呼んだ。
あの日の声は、まだ身体のどこかに残っている。
けれど、その2走後に、灯は線を越えた。
4号艇。
4コース。
F。
返還欠場。
数字ではない文字。
6着でも、5着でも、4着でもない。
レースの結果から、自分の艇番が外れた。
それも、同じ節の中にある。
勝った水面と、越えた線が、同じページに並んでいる。
灯は、その並びを見つめた。
そのあと、6着を取った。
越えないことだけを考えて、線の手前にいすぎた。
水面から遠くなった。
次に4着。
ようやく水面に入れた。
そして、最後に3着。
もう一度、結果の中に戻った。
5日間で、灯は勝った。
壊した。
離れた。
戻った。
その全部が、9走の中にあった。
「終わったね」
日向まどかの声がした。
灯は顔を上げる。
まどかは、いつものように軽く椅子に腰かけた。
「はい」
灯は答えた。
「終わりました」
「濃い節だったね」
灯は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「濃すぎました」
「うん。見てる方も疲れた」
まどかは冗談めかして言ったが、その声は少しだけ優しかった。
灯はノートを見た。
1着。
F。
6着。
4着。
3着。
「まどかさん」
「なに?」
「これ、全部持っていくんですよね」
まどかはノートを覗き込んだ。
「そうだね」
「1着だけ持っていけたら、楽なのに」
言ってから、灯は少しだけ目を伏せた。
そんなことはできない。
分かっている。
勝った自分だけを持っていくことはできない。
Fを切った自分も、6着に沈んだ自分も、線の手前にいすぎた自分も、全部同じ風見灯だった。
まどかは、しばらくノートを見ていた。
それから、静かに言った。
「でも、Fだけ持っていくわけでもないよ」
灯は顔を上げた。
「え?」
「Fを切った選手、で終わるわけじゃない。初勝利を取った選手でもある。3着に戻った選手でもある」
まどかは、灯のノートを指で軽く叩いた。
「全部あるから、全部持っていく」
灯は、ゆっくり頷いた。
「はい」
その時、朝倉由芽が控室に入ってきた。
由芽も、5日間を走り終えた顔をしていた。
疲れている。
けれど、崩れてはいない。
灯はそれを見て、少しだけ胸が痛くなった。
由芽は、今節も数字を積んでいた。
大きく勝ったわけではない。
派手に目立ったわけでもない。
けれど、4着を残し、3着を拾い、沈みすぎずに節を終えていた。
灯が止まり、壊れ、戻ろうとしている間も、由芽は由芽の水面を積んでいた。
「風見さん」
由芽が近づいてきた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
灯は頭を下げる。
由芽は、灯のノートに目を落とした。
「9走、書いたんですね」
「はい」
「全部」
「全部です」
由芽は小さく頷いた。
「私も書きます。全部」
その言い方が、由芽らしかった。
良い着も、悪い着も、数字として残す。
逃げない。
灯は少しだけ笑った。
「朝倉さんは、今節どうでしたか」
由芽は少し考えた。
「足りませんでした」
「足りない、ですか」
「はい。4着は残せました。3着もありました。でも、勝つ水面はまだ遠いです」
由芽は淡々と言った。
けれど、その奥には悔しさがあった。
灯は、由芽のその悔しさを少しずつ分かるようになっていた。
由芽は沈まない。
けれど、沈まないだけで満足しているわけではない。
灯が勝った水面を見たあと、由芽の中にも何かが残っている。
「風見さんは」
由芽が言った。
「はい」
「走りたいですか」
灯は、少しだけ息を止めた。
その問いは、思っていたより深く刺さった。
走りたいか。
節は終わった。
5日間を走り切った。
初勝利も取った。
Fも切った。
そして、もう一度3着に戻った。
今なら、少し休みたいと思ってもおかしくない。
けれど、灯の胸の奥に最初に浮かんだ答えは違った。
「走りたいです」
灯は言った。
「怖いです。でも、走りたいです」
由芽は、静かに頷いた。
「私も、また同じ水面で走りたいです」
灯は由芽を見る。
「同じ水面で?」
「はい」
由芽は、少しだけ表情を和らげた。
「風見さんが戻ってきた水面で、私も走りたいです」
その言葉に、灯の胸が温かくなった。
同じB2。
同じように、まだ足りないものを抱えている。
見ているものは違う。
でも、水面へ戻ろうとしていることは同じだった。
「私もです」
灯は言った。
「また、朝倉さんと走りたいです」
由芽は小さく頷いた。
それ以上は言わなかった。
でも、その沈黙は悪くなかった。
そのあと、三島沙耶が来た。
灯はすぐに顔を上げる。
「沙耶さん」
三島は頷き、灯のノートを見た。
「9走、書いた?」
「はい」
灯はノートを差し出した。
三島は立ったまま、ページを読む。
5号艇、4着。
5号艇、3着。
4号艇、2着。
5号艇、1着。
6号艇、5着。
4号艇、F。
5号艇、6着。
5号艇、4着。
5号艇、3着。
三島は、最後まで読んでから言った。
「よく書いた」
それは、褒め言葉だった。
派手ではない。
けれど、灯には十分だった。
「ありがとうございます」
三島はノートを閉じずに言った。
「初勝利も残った。Fも残った。戻った3着も残った」
「はい」
「この節は、これで終わり」
灯は頷いた。
「はい」
三島はそこで少しだけ間を置いた。
そして、静かに言った。
「でも、Fはこの節だけで終わらない」
灯は、胸の奥が冷えるのを感じた。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
それでも、言葉にされると重かった。
三島は続ける。
「返還欠場で終わりじゃない。ノートに書いて終わりでもない」
「はい」
「このあと、走れない時間が来る」
灯は、ノートを握った。
走れない時間。
その言葉は、Fを切った直後よりも、今の方が重く感じた。
なぜなら、灯はもう一度水面に戻りかけていたからだ。
4着でレースに入った。
3着で結果に戻った。
ようやく、線の手前から水面へ入る感覚を取り戻し始めていた。
その直後に、走れない時間が来る。
「水面には戻れたと思っていました」
灯は小さく言った。
三島は頷いた。
「戻った」
灯は顔を上げる。
三島はまっすぐ灯を見ていた。
「戻った。けど、すぐには走れない」
その言葉は、灯の胸に静かに落ちた。
戻った。
でも、走れない。
それもFの一部。
三島は言った。
「灯」
「はい」
「Fは、切った日だけで終わらない」
「はい」
「走れない時間まで含めて、F」
灯はノートを見た。
4号艇。
F。
返還欠場。
その文字の後ろに、まだ続きがある。
レース中に終わったわけではない。
場内放送で終わったわけでもない。
モニターにFが出て終わったわけでもない。
ノートに理由を書いて終わったわけでもない。
そのあと、水面から離れる時間が来る。
それも、自分が越えた線の先にある現実だった。
「何をすればいいですか」
灯は聞いた。
三島は答えた。
「見る」
灯は瞬きをした。
「見る、ですか」
「うん」
三島は言った。
「走れない時間に、何を見るかで、戻った時の水面が変わる」
灯はノートを開いた。
三島の言葉を書き留める。
走れない時間に、何を見るか。
戻った時の水面が変わる。
「自分のレースはない」
三島は続けた。
「でも、レースはある。水面は止まらない。誰かは走っている」
「はい」
「その水面を、見る。書く。忘れない」
灯は頷いた。
「はい」
「走れない時間を、ただ待つ時間にしない」
その言葉は、灯の中にまっすぐ入った。
走れない。
でも、ただ待つわけではない。
水面に立てない。
でも、選手でいられないわけではない。
三島は、灯のノートを指した。
「灯。水面に立てない日も、選手でいることはできる」
灯は、息を呑んだ。
水面に立てない日も。
選手でいることはできる。
それは、今の灯に必要な言葉だった。
「はい」
声は少し震えた。
それでも、返事はできた。
節が終わり、荷物をまとめる時間になった。
ピットの音が少しずつ遠くなっていく。
艇が片づけられ、工具の音が減り、選手たちがそれぞれの帰り支度を始める。
灯も荷物をまとめた。
カポック。
ノート。
ペン。
着替え。
いつもなら、次の斡旋を考える。
次はどこの水面か。
どの枠になるか。
どんな相手と走るか。
けれど今回は、次の予定を見るのが少し怖かった。
スマートフォンで予定を確認する。
そこに、自分の名前はなかった。
次の斡旋。
その次の斡旋。
しばらく、風見灯の名前はない。
出走表にもない。
控室の予定にもない。
水面に立つ場所がない。
灯は、画面を見たまま動けなかった。
名前がない。
それは、思っていたよりも苦しかった。
レースで6着を取るよりも、別の苦しさだった。
Fで結果から外れた時とも違う。
今度は、出走表に入る前から自分がいない。
走れない。
その現実が、ようやく身体に届いた。
灯はノートを開き、新しいページに書いた。
走れない時間。
その下に、少し間を空けてから続ける。
出走表に名前がない。
斡旋予定にも名前がない。
水面へ行く準備をしても、行く場所がない。
Fは、レース中だけの失敗ではない。
そのあと、自分から水面を奪う。
書いているうちに、胸が苦しくなった。
戻れたと思った。
3着に戻った。
水面に戻れた。
でも、次は水面に立てない。
その矛盾が、灯の中で痛んだ。
数日後。
灯は自宅でモニターを見ていた。
水面には、別の選手たちがいる。
画面の向こうで、起こしが始まる。
スリット。
1マーク。
差し。
まくり。
引き波。
出口。
いつもなら、自分もどこかの水面にいるかもしれなかった。
でも今は、ノートの前にいる。
灯は、三島沙耶のレースを見ていた。
3号艇。
三島は、いつものように落ち着いていた。
スリットで無理に出るわけではない。
けれど遅れない。
1マークで、攻める艇に付き合いすぎない。
差し場を見る。
出口を残す。
バックで2番手。
2周目に前を追う。
最後まで崩れない。
結果は2着だった。
勝ってはいない。
けれど、三島のレースは崩れていなかった。
灯はノートに書いた。
沙耶さん。
3号艇。
2着。
勝っていない。
でも、崩れていない。
スタートで無理をしない。
1マークで全部を取りに行かない。
出口を残す。
2着を守りながら、1着を見る。
灯はペンを止めた。
自分なら、勝ちたいと思った時に前だけを見てしまう。
遅れたくないと思った時に線を越えた。
越えたくないと思った時に置いた。
三島は、そのどれとも違う。
勝ちに行く。
でも、自分の形を壊さない。
灯は、その違いを書き留めた。
別の日。
朝倉由芽のレースを見た。
由芽は4号艇だった。
カドから大きく攻めるわけではない。
けれど、スタートで置かれない。
1マークでは無理をしない。
2マークで1艇を前に置く。
結果は4着。
派手ではない。
でも、沈まない。
灯はノートに書いた。
朝倉さん。
4号艇。
4着。
大きく勝っていない。
でも、残している。
無理に3着を取りに行かない。
4着を雑にしない。
その文字を書きながら、灯は少し焦った。
自分が走れない間に、由芽は走っている。
4着を残している。
数字を積んでいる。
前に進んでいる。
灯は、その焦りも書いた。
私が止まっている間に、朝倉さんは数字を積んでいる。
書いてから、ペンを止める。
止まっている。
本当にそうなのか。
灯は、少し考えた。
自分は水面には立っていない。
けれど、ノートは進んでいる。
見ている。
書いている。
忘れないようにしている。
それを、止まっていると言っていいのか。
灯は、新しく書き足した。
私は走れていない。
でも、見ている。
見て、書いている。
それを止まる時間にしない。
その夜、由芽から短いメッセージが届いた。
今日は4着でした。
まだ足りません。
でも、残しました。
灯は、画面をしばらく見ていた。
由芽らしい文章だった。
余計な飾りがない。
結果と、感情と、次への不足だけがある。
灯は返信を打った。
見てました。
4着を残していました。
私も、ノートに書きました。
少し迷ってから、もう一文を足す。
走れないけど、見ています。
送信すると、すぐには返事は来なかった。
それでよかった。
灯はノートに戻る。
見ているだけの水面。
その言葉を書いて、少しだけ考える。
見ているだけ。
本当に、だけなのか。
画面の向こうで艇が走る。
そこに自分はいない。
でも、水面は見える。
スタートは見える。
1マークは見える。
出口は見える。
人のレースだからこそ、見えるものもある。
自分が走っている時は、怖さで見えなかったもの。
勝ちたい気持ちで見失ったもの。
遅れたくない気持ちで固まったもの。
画面の外からなら、それを少しだけ落ち着いて見ることができる。
灯は書いた。
走れない。
でも、見ることはできる。
書くことはできる。
忘れないことはできる。
その数日後、灯はレース場へ行った。
走るためではない。
見るためだった。
スタンドから水面を見ると、いつもと違っていた。
ピットから見る水面ではない。
艇の上から見る水面でもない。
客席から見る水面。
エンジンの振動は身体に来ない。
ヘルメットもない。
水しぶきも浴びない。
それなのに、スタートの瞬間だけは胸が少し固くなった。
大時計。
0秒。
スリット。
艇が通過する。
灯は、思わず手を握った。
越えないで。
置かれないで。
その感覚は、自分のレースではないのに身体に残っていた。
隣に、いつの間にか三島が立っていた。
「見てるね」
灯は驚いて顔を上げた。
「沙耶さん」
「今日は走らないから、こっちから見える」
三島は水面を見たまま言った。
灯も視線を戻す。
「見え方が違います」
「うん」
「乗っている時より、落ち着いて見えます。でも……」
「でも?」
「悔しいです」
灯は正直に言った。
「自分がいないのが、悔しいです」
三島は頷いた。
「それでいい」
「いいんですか」
「走りたくないより、ずっといい」
灯は、水面を見つめた。
次のレースの展示が始まる。
6艇がピットを離れる。
自分の名前はない。
そこに座っている選手たちが、少し眩しく見えた。
「沙耶さん」
「なに?」
「私、走りたいです」
その言葉は、自宅で由芽に答えた時よりも、はっきりしていた。
「怖いです。でも、走りたいです」
三島は、水面を見たまま言った。
「なら、この時間を使いなさい」
灯は頷いた。
「はい」
「次に戻る時、線の手前で迷わないように」
「はい」
「走れない時間を、ただ待つ時間にしない」
灯は、ノートを開いた。
スタンドの席で、ペンを持つ。
水面の音が遠く聞こえる。
でも、今日はそれでいい。
自分は走れない。
だから見る。
書く。
忘れない。
三島は静かに続けた。
「灯」
「はい」
「水面に立てない日も、選手でいることはできる」
その言葉は、節が終わった日に聞いた時よりも、深く灯の中に落ちた。
水面に立てない日。
出走表に名前がない日。
ヘルメットを被らない日。
それでも、自分は選手でいられるのか。
灯は、ノートに書いた。
水面に立てない日も、選手でいる。
その下に、もう一行。
見る。
書く。
忘れない。
レースが始まった。
1号艇が先に回る。
2号艇が差す。
4号艇が攻める。
6号艇が外から伸びる。
灯は、艇の位置を目で追った。
誰が勝つかだけではない。
誰が無理をしたか。
誰が出口を残したか。
誰が水面に入れなかったか。
誰が残したか。
それを書く。
自分のレースではない。
でも、自分の次の水面につながる。
そう思えた時、走れない時間がほんの少しだけ形を変えた。
夜、灯はノートを整理した。
出走表に、自分の名前はない。
けれど、ノートには名前があった。
5号艇。
5コース。
1着。
4号艇。
4コース。
F。
5号艇。
5コース。
3着。
勝った水面。
越えた線。
戻った水面。
そして、新しいページ。
走れない時間。
灯は、その下にゆっくりと書いた。
それは、止まる時間ではない。
次に水面へ戻るための時間。
書き終えて、灯はペンを置いた。
胸の奥には、まだ焦りがある。
由芽は走っている。
三島も走っている。
まどかも水面にいる。
自分だけが、少し外にいる。
その事実は消えない。
けれど、外にいるから見えるものもある。
今は、それを見る。
次に戻るために。
灯はノートを閉じた。
水面に立てない日も、選手でいる。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、灯はもう一度だけモニターを見た。
次のレースの展示が始まっていた。
そこに自分の艇番はない。
それでも、灯は目を逸らさなかった。
走れない時間は、止まる時間ではない。
水面へ戻るための、長い準備の始まりだった。




