第3話 あと一艇
自分の出走表を見た時、灯はまず息を吐いた。
六号艇。
また、外だった。
けれど、もうその文字だけで身体が固まることはなかった。
怖くないわけではない。
六コースは、今でも怖い。
一マークまで遠い。
前の艇は多い。
少し迷えば、すぐ置いていかれる。
外から全部が見える分、全部を見たくなる。
でも、灯はもう知っていた。
外は、終わりの場所ではない。
一艇を前に置ける場所。
五着を取れた場所。
もう一度、五着を取れた場所。
そして轟朱音にとっては、優勝できる場所でもあった。
灯は出走表をノートに写した。
一号艇、B1。
二号艇、A2。
三号艇、B1。
四号艇、A2。
五号艇、B1。
六号艇、風見灯。
進入は、おそらく枠なり。
一、二、三。
四、五、六。
六コース。
灯は、ペンを止めずに続けた。
見る二艇。
四号艇。
五号艇。
ここまでは、前の開催と同じ。
四号艇が攻める。
五号艇がその内を見ながら残す。
自分は、その後ろ。
まず五号艇。
そのあと、四号艇。
灯は、そこで手を止めた。
そのあと。
その言葉が、今までと違っていた。
前の開催では、五号艇を前に置くことが目標だった。
一艇だけ前へ。
六着を減らす。
五着を取る。
それだけで、胸がいっぱいだった。
でも、今は違う。
五号艇の先に、四号艇がいる。
四号艇の先に、三号艇がいる。
その三号艇の背中に、三着の水面がある。
舟券に、自分の艇番が入る場所。
灯は、ノートにもう一行を書いた。
三着を見に行きすぎない。
まず、一艇。
六着へ落ちない水面を見る。
書き終えた時、隣に気配があった。
三島沙耶だった。
「書けた?」
灯は少し背筋を伸ばした。
「はい」
三島はノートを覗き込む。
「四号艇と五号艇」
「はい」
「まず五号艇。そのあと四号艇」
「はい」
三島は短く頷いた。
「順番は悪くない」
灯の胸が少しだけ軽くなる。
けれど、三島はすぐに続けた。
「でも、三着を欲しがると崩れる」
「はい」
「前の開催でやったね」
「やりました」
五着のあと、もう一艇前を見た。
前を見すぎた。
見る二艇に戻るのが遅れた。
結果、六着。
それはノートにも残っている。
三島は出走表に目を落とした。
「この番組、三着は見えると思う」
灯は顔を上げた。
「見えるんですか」
「見える。ただし、取りに行き方を間違えたら六着まである」
灯は、喉の奥が少し渇くのを感じた。
見える。
でも、間違えれば沈む。
水面は、いつもその間にある。
三島は言った。
「五着を取る時は、一艇だけを見ればよかった」
「はい」
「四着を取るには、二艇目を見る必要がある」
灯はペンを握った。
「二艇目……」
「でも、三艇目まで見ると遅れる」
三島の指が、ノートの余白を叩いた。
「今日の風見さんは、五号艇を前に置いたあと、四号艇を見る。そこまで」
灯は、小さく頷いた。
風見さん。
まだ、その距離でいい。
三島は近くにいる。
けれど、まだ遠い。
師匠のような人。
自分よりずっと上にいる選手。
その距離があるからこそ、三島の言葉は重かった。
「三着は?」
灯が聞くと、三島は静かに答えた。
「見えるなら見る。でも、追いすぎない」
「はい」
「今日は、三着を取りに行くレースじゃなくて、三着の背中を見るレースでもいい」
灯は、その言葉を書いた。
三着の背中を見る。
それだけでいいのだろうか。
そう思った。
でも、すぐに首を振る。
前の開催の最初、自分は五着の背中すら見えなかった。
一艇を前に置くこともできなかった。
それが今は、三着の背中を見るところまで来ている。
焦ってはいけない。
でも、見ないままでは進めない。
少し離れた席で、朝倉由芽がメモ帳を開いていた。
由芽は自分のレースを終えたばかりだった。
五号艇、五コース、四着。
勝ってはいない。
舟券にも絡んでいない。
でも、六着ではない。
派手ではない。
でも、沈まない。
由芽は灯の視線に気づくと、小さく会釈した。
灯も頭を下げる。
「朝倉さんのレース、ノートに書きました」
灯が言うと、由芽は少しだけ目を丸くした。
「私のですか」
「はい」
「恥ずかしいですね」
「すみません」
「謝らなくていいです」
由芽は少し笑った。
「風見さん、次ですよね」
「はい。六号艇です」
由芽は出走表を見る。
「四号艇、攻めてきそうですね」
「はい。五号艇も内を見そうです」
「なら、まず五号艇ですか」
灯は頷いた。
「はい。そのあと、四号艇を見たいです」
由芽は静かに頷いた。
「いいと思います」
「でも、三着も見えそうって三島さんが」
「見えると思います」
由芽は淡々と言った。
「でも、三着を取りに行って六着になると、数字は重いです」
その言葉は、由芽らしかった。
三島の言葉とは違う角度で、同じ場所を指している。
三島は水面の原因を見る。
由芽は数字の残り方を見る。
どちらも、灯には必要だった。
由芽はメモ帳を閉じた。
「四着は、三着じゃないです」
灯は由芽を見る。
由芽は続けた。
「でも、四着を残せるようにならないと、三着を狙う形も作れないと思います」
灯は、その言葉をノートに書いた。
四着を残す。
三着を狙う形を作る。
「ありがとうございます」
「いえ」
由芽は少しだけ微笑んだ。
「でも、私も三着欲しかったです」
その声には、静かな悔しさがあった。
由芽は四着を残す選手だ。
でも、四着で満足しているわけではない。
それが、灯にはよく分かった。
日向まどかが、少し離れた場所から声をかけてきた。
「風見ちゃん、今日は欲張りすぎないこと」
「はい」
「でも、見えたら怖がりすぎないこと」
灯は少し困った顔になる。
「難しいです」
「うん。難しいよ」
まどかは笑った。
「だから、まず一艇」
灯は頷いた。
何度も聞いてきた言葉。
まず一艇。
それでも、今日はその先を少しだけ見る。
展示航走の時間が近づいた。
灯はノートを閉じ、六号艇のカポックを手に取った。
手に重さがある。
いつもの重さ。
けれど、今日は胸の中に別の重さもある。
四着。
三着。
舟券。
B1への数字。
全部が頭の中に並ぶ。
灯は、その全部を一度だけ見て、閉じた。
全部を見ると遅れる。
だから、選ぶ。
四号艇。
五号艇。
まず五号艇。
そのあと四号艇。
展示航走。
六艇がピットを離れた。
一号艇が内へ向かう。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇。
六号艇、灯。
進入は枠なり。
一、二、三。
四、五、六。
六コース。
大外。
灯は、いつもの場所から水面を見た。
全部が見える。
一号艇の起こし。
二号艇の差し構え。
三号艇の握る気配。
四号艇の角度。
五号艇の艇の向き。
外の風。
前の波。
自分の艇の伸び。
全部が視界に入る。
でも、戻る。
四号艇。
五号艇。
展示のスリット。
灯は大きく遅れなかった。
伸びているわけではない。
でも、置いていかれてもいない。
一マークへ向かう。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が握る。
四号艇がカドから攻める。
五号艇がその内を見ながら切り込む。
灯は、まず五号艇を見る。
五号艇の後ろ。
前の開催で何度も見た場所。
五号艇の内へ落とせる水面。
ただし、深く入りすぎれば止まる。
外に残りすぎれば届かない。
出口を残す。
灯は艇を向けた。
波を踏む。
少し跳ねる。
でも、完全には止まらない。
五号艇の後ろにつく。
まだ抜けない。
けれど、追える。
その先に、四号艇が見えた。
四号艇は攻めた分だけ、出口が少し重い。
灯は、思わずそこを見た。
四号艇の背中。
三着争いの外側。
届くかもしれない。
そう思った瞬間、艇の向きが少し散った。
灯はすぐに戻した。
まず五号艇。
展示の二マーク。
五号艇が少し外へ膨らむ。
灯は内へ落とす。
五号艇の内に入る。
並ぶ。
前に出るまではいかない。
でも、形はある。
その先で、四号艇がまだ見える。
展示を終えて控室へ戻った灯は、すぐにノートを開いた。
展示。
四号艇、攻める。
五号艇、内へ切る。
一マーク。
五号艇の後ろ。
出口を残す。
四号艇の背中が見える。
でも、見すぎると艇が散る。
二マーク。
五号艇の内。
並べる。
その先に四号艇。
灯は、最後に書いた。
四号艇は見える。
でも、まず五号艇。
それを見た三島が、短く言った。
「いい」
灯は顔を上げた。
「いいですか」
「うん。展示で迷いかけたことを書けてる」
三島はノートを指した。
「本番で同じことが起こる。四号艇が見える。三着も見える。でも、その前に五号艇を置く」
「はい」
「五号艇を置いてから、四号艇」
灯は深く頷いた。
本番の時間が来た。
水面の音が近づく。
艇に乗り込む。
胸は硬い。
けれど、目は逃げていない。
六号艇。
六コース。
四号艇。
五号艇。
まず五号艇。
そのあと四号艇。
六艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇。
六号艇、灯。
大外。
六コース。
起こし。
エンジン音が変わる。
灯はスリットを見た。
遅れていない。
置いていかれていない。
内の艇が一マークへ向かう。
全部が速い。
全部が近い。
全部が動く。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇。
その全部が灯の視界に入る。
でも、灯は戻った。
四号艇。
五号艇。
一マーク。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が握る。
四号艇がカドから攻める。
五号艇が内へ切る。
灯は五号艇の後ろへ艇を向けた。
ここまでは、前の開催で何度も見た形だった。
深く入りすぎない。
外へ流れすぎない。
出口を残す。
波が来る。
艇が跳ねる。
身体が少し固まりかける。
でも、戻しすぎない。
握りすぎない。
五号艇を見る。
五号艇だけを見る。
バックストレッチ。
灯はまだ六番手だった。
前には五号艇。
その前に四号艇。
四号艇は、攻めた分だけ少し出口が重く見えた。
三号艇の外にいる。
三着争いから少し遅れかけている。
見える。
四号艇が見える。
けれど、灯はすぐに五号艇へ戻った。
まず五号艇。
一艇を前に置かなければ、その先はない。
二マーク。
五号艇が外へ膨らむ。
灯の目に、内の水面が見えた。
きれいではない。
引き波も残っている。
でも、入れる。
灯は迷わなかった。
艇を落とす。
引き波を踏む。
少し跳ねる。
でも、止まらない。
出口を残す。
五号艇の内へ入る。
並ぶ。
半艇身。
そして、前へ出る。
五番手。
一艇を前に置いた。
ここで、前の開催なら頭が白くなった。
追われる怖さに、胸がいっぱいになった。
でも、今日はその先があった。
前に四号艇がいる。
四号艇の背中。
四着の水面。
灯は、五号艇を完全に忘れそうになった。
その瞬間、由芽の言葉が残った。
無理に三着を取りに行って六着になるくらいなら、四着を残したい。
灯は、後ろを切った。
五号艇との差を確認する。
完全に離れてはいない。
まだ来る。
だから、四号艇だけを追いすぎない。
前を見る。
後ろも消す。
でも、全部は見ない。
四号艇。
五号艇。
そこに戻る。
二周一マーク。
四号艇が前で少し重くなる。
三号艇との三着争いから、半艇身ほど遅れた。
灯は内を見る。
四号艇の内。
入れば、四着に届く。
けれど、深く入りすぎれば艇が止まる。
外から五号艇に差し返されるかもしれない。
灯は、息を吸った。
怖い。
でも、行く。
ただし、全部は取りに行かない。
三着ではない。
まず四号艇。
灯は艇を落とした。
四号艇の内へ入る。
波を踏む。
艇が揺れる。
それでも出口を残す。
四号艇の艇先が外から伸び返す。
灯は、押されそうになる。
けれど、艇は止まらなかった。
バックストレッチ。
灯が四号艇の前に出た。
四番手。
初めての四番手。
前には三号艇。
三着。
舟券に絡む場所。
灯の胸が一気に熱くなった。
三着が見える。
本当に見える。
三号艇は前にいる。
遠すぎない。
一艇分。
いや、半艇身ずつ詰められそうな距離。
行けるかもしれない。
初めて、自分の艇番が舟券に入るかもしれない。
その思いが、灯の視界を少し狭くした。
三号艇。
三号艇。
三号艇。
その時、外から四号艇がもう一度迫った。
灯ははっとして、意識を戻す。
四号艇を後ろに置いたままにしなければならない。
五号艇も完全には消えていない。
前だけを見れば、後ろに飲まれる。
二周二マーク。
灯は三号艇を追いたい気持ちを抑えた。
四号艇を差し返させない位置に艇を置く。
出口を残す。
三号艇との差は少し残った。
三周目。
灯は四番手を走っていた。
実況は前の三艇を追っている。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
舟券に絡む三艇。
そのすぐ後ろに、灯がいる。
あと一艇。
あと一艇で、三着。
あと一艇で、自分の艇番が結果に入る。
灯は、歯を食いしばった。
三周一マーク。
三号艇が少し外へ膨らむ。
灯は内を見る。
行けるか。
いや、まだ浅い。
ここで深く入りすぎれば、出口で止まる。
灯は少しだけ我慢した。
距離は縮まらない。
でも、四号艇との差は保てる。
最後の二マーク。
三号艇が先に入る。
少し流れた。
灯には、内が見えた。
狭い。
引き波もある。
でも、見えた。
ここしかない。
灯は艇を落とした。
三号艇の内。
波を踏む。
艇が跳ねる。
胸が冷たくなる。
止まるな。
止まるな。
出口。
出口を残す。
灯の艇は三号艇の内に入った。
一瞬、並ぶ。
本当に、一瞬だけ。
灯は、三着に並びかけた。
けれど、三号艇の出口が残っていた。
三号艇が伸び返す。
灯の艇先は届かない。
ゴールラインが近づく。
三号艇が半艇身前。
灯は追う。
届かない。
ゴール。
一着、一号艇。
二着、二号艇。
三着、三号艇。
四着、六号艇、風見灯。
五着、四号艇。
六着、五号艇。
四着。
灯は、モニターに表示された数字を見つめた。
六号艇、風見灯。
四着。
初めての四着。
六着ではない。
五着でもない。
前に二艇を置いた。
それなのに、胸の奥に最初に来たのは、嬉しさではなかった。
三着に届かなかった。
あと一艇だった。
いや、最後は半艇身だった。
自分の艇番は、払い戻しの中には入らない。
舟券には絡んでいない。
三着の欄には、三号艇の番号がある。
そのすぐ下に、自分はいない。
四着。
灯は、ゆっくり息を吐いた。
悔しい。
五着の時とは違う悔しさだった。
六着ではなかったことが嬉しかったあの日とは違う。
今日は、三着ではなかったことが悔しい。
艇を降りたあとも、その感覚は消えなかった。
控室に戻ると、まどかがまず手を上げた。
「四着」
灯は頷いた。
「はい」
「初めて?」
「はい」
「おめでとう」
灯は、少しだけ迷った。
「ありがとうございます」
でも、その声は小さかった。
まどかは、それを見て少し笑った。
「嬉しいだけじゃなさそうだね」
灯は頷いた。
「悔しいです」
「いいね」
灯は顔を上げた。
「いいんですか」
「いいよ」
まどかは言った。
「悔しい場所が、変わってきたね」
そこへ三島が来た。
「風見さん」
灯はすぐにノートを開いた。
「はい」
「書ける?」
「書きます」
灯はペンを握った。
六号艇。
六コース。
四着。
四号艇と五号艇を見る。
一マーク。
五号艇の後ろ。
出口を残す。
二マーク。
五号艇を前に置く。
二周一マーク。
四号艇の内へ入る。
四番手。
三周二マーク。
三号艇の内が見えた。
入った。
並びかけた。
でも、三号艇の出口が残った。
届かなかった。
初めての四着。
三着まで、あと一艇。
そこまで書いて、ペンが止まった。
三島はノートを見ている。
灯は、少しだけ声を絞り出した。
「四着でした」
「うん。見てた」
「初めての四着です」
「悪くない」
灯は頷いた。
「でも、三着は取れていません」
「そう」
三島の声は静かだった。
「その悔しさは、残していい」
灯は顔を上げた。
「残していいんですか」
「うん」
三島はノートの最後の行を指した。
「三着まで、あと一艇。これを書けるようになったのは大きい」
灯は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「前は、六着じゃなかったことが嬉しかったです」
「うん」
「今日は、四着なのに悔しいです」
「それでいい」
三島は言った。
「四着で悔しがれるなら、次は三着を見に行ける」
灯は、その言葉をゆっくりノートに書いた。
四着で悔しがれるなら、次は三着を見に行ける。
由芽が近づいてきた。
「四着、おめでとうございます」
灯は顔を上げる。
「ありがとうございます。でも、三着に届きませんでした」
「見てました」
由芽は静かに言った。
「最後、惜しかったです」
「届きませんでした」
「はい」
由芽は否定しなかった。
その否定しないところが、少しだけ三島に似ていると思った。
「でも、四着を残しました」
灯は由芽を見る。
由芽は続けた。
「私も、四着で満足してるわけじゃないです」
「はい」
「三着は欲しいです。でも、四着を残せるようになったから、次に三着を狙えると思ってます」
灯は、ノートにもう一行書いた。
四着を残せるから、三着を狙える。
三島が頷いた。
「今日の風見さんは、三着を追いすぎなかった。最後は行った。それでいい」
灯は驚いて三島を見た。
「最後、行ってよかったんですか」
「行ってよかった」
三島ははっきり言った。
「あそこは見えたなら入る場所。結果、届かなかった。でも、行ったことは間違いじゃない」
灯の胸が少しだけ震えた。
失敗ではなかった。
届かなかった。
でも、行ったことは間違いではなかった。
三島は続けた。
「ただし、三号艇の出口が残っていた。だから届かなかった」
「はい」
「次は、三号艇が流れる前から、流れる可能性がある場所に準備する」
灯は、息を呑んだ。
見えてから入るのでは遅い。
それは、前にも聞いた言葉だった。
今日も同じだった。
三号艇が流れた。
見えた。
入った。
でも、遅かった。
三島は言った。
「三着を取るには、三着の艇が崩れてから動くんじゃ遅い」
灯はペンを握る。
三着の艇が崩れてから動くのでは遅い。
崩れる可能性のある場所に、先に準備する。
「はい」
灯は書いた。
何度も書いた。
忘れないように。
逃げないように。
ノートのページが、文字で埋まっていく。
三島は、最後に短く言った。
「今日は、いい四着」
灯は顔を上げた。
「いい四着……」
「うん。でも、次は三着」
灯は、胸の奥でその言葉を受け止めた。
いい四着。
でも、次は三着。
褒められたわけではない。
満足していいと言われたわけでもない。
でも、進んでいると言われた気がした。
灯はノートの最後に書いた。
四着は嬉しい。
でも、悔しい。
三着まで、あと一艇。
その一艇の先に、舟券に絡む水面がある。
書き終えて、灯は窓の外を見た。
水面は、次のレースの波で揺れていた。
五着を取った時、灯は六着ではなかったことが嬉しかった。
けれど、四着を取った今日、灯は初めて思った。
三着に届かなかった。
同じ負けでも、悔しさの場所が違う。
六着の悔しさ。
五着の重さ。
四着の苦さ。
その先に、三着の水面がある。
舟券に、自分の名前が入る場所。
灯は、ノートを閉じた。
まだ届いていない。
でも、もう見えなかった場所ではない。
あと一艇。
その一艇を、次は見に行く。




