1. 女子修道院での日々
女子修道院の朝は早い。
遠くの空が薄く白んできたころから一日が始まる。
低く澄んだハンドベルの音が、石造りの廊下をゆっくりと震わせる。
―― コォーン‥‥コォーン‥‥。
あの夜の、荒い呼吸音とはまるで違う。
静かで、一定で、誰も傷つけない音。
この鐘の音が聞こえるとほっとする。
永遠に続く、満月の夜も朝を迎えるのだから。
シスター見習いが部屋を回り、ハンドベルで皆を起こす。
朝の黙祷。聖書の音読。ミサ。朝食。
私語はほとんどない。
ただ、祈りの声だけが、淡々と空気を満たしていく。
毎日同じルーチン。
変わらないことの安心。
――― 俺、いや私はこの修道院にお世話になっていた。
この修道院は、北のウリアン山脈の雪解け水を源流にするアトム川河畔の都市、ディケイの町外れにある。
ディケイは魔導王国が出来るはるか昔から河川貿易の中継地として発展してきた由緒正しい都市だ。
川の両岸と中洲に町並みが広がっており、交易都市ナムルよりはるかに大きい。ナムルの北東、ルクソンの南東に位置している。
もう一つ、この周辺にあった都市は、既に魔導王国の一部となっていた。
お ――― 私は、ほとんど飲まず食わずに2日間走りっぱなしでこの街へたどり着いた。
「女性なのにはしたない」とシスターに怒られるから、一人称を変えようと努力している。
でも正直に言えば、まだ慣れない。
”私” と言うたびに、自分の中の何かがこそぎ落とされていく気がする。
でもそれは本当に守るべきものだったのか、今となってはよく分からない。
この女子修道院に寄宿している理由は単純だ。他に泊まるところがなかった。
最初は嘘だと思った。こんな大きな街だから宿屋ならいくらでもある。
でもどこの宿屋に行っても宿泊を断られたのだ。
その理由がなんとも意味不明。
女一人だから。
場末の宿泊所は宿泊を許可してくれた。
その代わりと言ってきた話は、あまりに衝撃的で、今でも一言一句思い出せる‥‥。
「姉ちゃん、うちの取り分は6割な! 姉ちゃんべっぴんだからたんまり稼げるだろうよっ! グヘヘッ」
初老のでっぷりした男に、ねーっとりした視線で、脚から腰、胸元まで目で舐められた。
あの男と同じ視線‥‥。
もう顔がひきつってなんの言葉も出てこない。
私の身体は、勝手に凍りついた。
あんな目にあって、それでもまだ、こんな。
まだ、私はこんな扱いを受けないといけないのか‥‥。
何かがちぎれて、どこかへ落ちてしまった感覚。
心の中が麻痺する。
もう涙のかけらも流れない。
私は何をしたというのだ。
本当に神がいるなら教えてほしい。
私が、何かをした?
神はこんな破壊を許すのか?
それとも、ただ見ているだけなのか。
宿探しに疲れ果て、街をさまよっていたとき、声をかけてくれたのが、ここのシスター見習いフローラだった。
「あの時は一目でこの子危ないって思ったのよ! ほんとっ、私が見つけていなかったらどうなっていたことか」
あとで何度も何度も、彼女から聞かされることになるセリフ。
ちなみに彼女はタキオン教のシスター見習いだ。
黒髪のショートカットにニキビ跡が少し残ったブルベ系うさぎ顔の可愛いらしい女の子だ。
つぶらな瞳をしていてその顔には少し幼さが残っている。それは声も同じで、子供のようにきゃらきゃらしているのだった。本人はそこにコンプレックスを持っているらしい。
そう、私は ―――
魔女狩りをいまだに続けている、あの魔術師の天敵、タキオン教に保護されている。
それに気づいたときは正直驚いたが、だからと言っていまさら逃げる気にもならなかった。
いろんなことが重なりすぎて、どうにでもなればいいとしか思えなかったのだった。
――――――
「どう?眠れてる?」
ここは修道院一階一番奥にある相談室。
大きな窓から外の森がよく見える。
窓の前にローテーブルが置かれており、ソファーが周りを囲むように配置されていた。
週に2回、ここでフローラの診察を受けるのが保護された人たちの務めとなっていた。
斜め前に座っているフローラが心配そうに私の顔をのぞきこんでいた。
「んっ‥‥あんまりかな‥‥‥」
私はありのままを話す。
目を閉じると、腕の重みが蘇る。
耳元の荒い息。
胸に触れた指の感触。
太ももにはりつく手のひらの熱。
身体が先に思い出す。
頭より早く、身体が恐怖を再生する。
フローラとは同い年ということもあってなんとなく仲良くなっていた。
シスターと言っても見習いなので魔女狩りの方は心配ない。
診察も、ただ雑談をするだけだった。
「そっか~私にできることがあればいいんだけど‥‥‥。まだ『神の癒し』と『女神の微笑み』だけなんだよね」
神の癒しというのは魔法でいう『ヒール』だ。
シスターは神の護符で信者の祈りの力を借りて奇跡を起こす。
正式な神官になれば自分自身の力でも奇跡を起こすことができるが、それは魔法と変わらないものであった。
神官たちは自分の力の源泉を魔力回路と言わず、神の御印と呼んでいた。
見習いのフローラはまだ神の御印を持っておらず、自分で魔女を見つける能力はない。
「イリィ、ごめんね‥‥‥」
フローラが本当に申し訳なさそうに謝ってくる。
彼女は心根の優しい女の子だ。
神職者にありがちな押し付け的なところがまるでなく、素朴な、ありのままで接してくれる。
聞けば神官の家の次女で、何となくシスター見習いになって、教王庁に言われるまま、宣教師と共にこの街へ布教にやってきたとのことだった。
そして私は男名を隠すため、”イリィ” を名乗っている。
「フローラが謝ることじゃないよ‥‥‥ごめんね、うまく言えないけど、自分のことだから」
「‥‥‥あまり抱え込まないでね。頼りにならないかもしれないけど、これでも話を聞く訓練は受けているから」
「ありがとう‥‥‥」
あの日以来、夜眠るのが怖い。
毎晩夢の中であの日のことがフラッシュバックして、何度も飛び起きてしまう。
街を歩いているときも、男の視線が気になってしょうがなかった。
チラッと胸の方を見られると、この男もアイツみたいに襲ってくるんじゃないかと、心臓が跳ね上がる。
世界中が敵になったみたいだ。
男だった時にこんな思いをしたことは一度もなかった。
もし昔の自分に説明したら、どう言うだろうか。
「大げさな、だって大丈夫だったんでしょ?」
「なんでそんなことで?」
うん、そう言うかもしれない。
そう思ってしまうことが、一番つらい。
私が信じていたものは何だったのか‥‥‥。
男社会。
男仲間。
男らしさ。
次第に街に出ることが億劫になり、私はこの修道院にこもるようになっていた。
夏も終盤に差し掛かり、朝はだいぶ涼しい空気が舞い込むようになってきている。
特にここは、北の山脈から吹いている冷風で夏が短い。
最初はここのシスターやフローラとも関わりたくない気持ちの方が大きかった。
彼女らは自分を責める存在でも品定めする存在でもない。
毎日、朝の日課と夜の日課を一緒に繰り返していくうちに、そのことが徐々に理解できるようになってきていた。
きっとこれが同性ならでは。
修道院の落ち着いた生活で、少しずつ心も落ち着き始めていた。
もう少しここでゆっくりしていれば街に出ることもできるようになるかもしれない、そう思い始めていた矢先のことであった。
その事件が起きたのは ―――。




