佐藤沙織 月夜の連行
診療所の扉を出た瞬間、夜の冷気が頬を打った。
月が、明るい。
星が、綺麗。
「わあ……綺麗ね、陽一」
沙織は引きずられながら、空を見上げた。
「見て、お月様。陽一、お月様好きだったわよね」
笑みが浮かぶ。
「ねえ、陽一。今日ね、良いことがあったの」
村人の手が腕を掴んでいる。痛い。
でも、沙織にはもう分からなかった。
「赤ちゃんができたのよ。嬉しいでしょ? 陽一、お兄ちゃんになるのよ」
引きずられる足が石に躓く。
転びそうになるが、腕を掴まれたまま引っ張られる。
「痛い……でも、大丈夫。赤ちゃん、守らなきゃ」
お腹を押さえる。
また、蹴られた。
「あははっ、元気ね。元気な子。良い子ね」
涙が零れる。
「陽一も元気だった。いつも笑ってた。優しい子だった」
過去形。
――あれ?
「陽一……どこ……?」
振り返ろうとする。
腕を強く引かれて、前を向かされる。
「陽一っ! 陽一、どこっ!」
叫ぶ。
村人が何か言っている。
聞こえない。
「陽一は良い子だから、すぐ来るわ。ね、すぐ来る。だって良い子だもの」
呟きながら歩く。
足が地面を踏んでいる感覚がない。
「四人家族。楽しみね。東京よりずっと良いわ。ここでなら、みんな幸せになれる」
笑う。
「幸せに、なれる、なれる、なれる――」
同じ言葉を繰り返す。
松明の灯りが揺れている。
村人の顔が、笑っている。
――なんで笑ってるの?
「おかしいわね。何がおかしいの?」
沙織も笑った。
「あははは、あはははは」
笑いが止まらない。
「陽一、お母さん笑ってるわよ。久しぶりでしょ? 東京ではずっと泣いてたものね」
涙が止まらない。
「でも、もう大丈夫。ここでなら幸せになれるって、村長さんが言ってたもの」
足が前に進む。
どこへ行くのか、分からない。
「ねえ、陽一。赤ちゃん、男の子かな、女の子かな」
お腹を撫でる。
蹴られる。
「痛いっ――」
顔が歪む。
「やめて、痛い、痛いってば――」
お腹を叩く。
「この子、おかしい。この子、何か、おかしい――」
恐怖が這い上がる。
でも、すぐに忘れた。
視界が滲む。
誰かの声が聞こえる。
何を言っているのか、分からない。
「にくゑ様に――」
「供物――」
「祭り――」
言葉の断片だけが耳に入る。
「祭り? 楽しそうね。陽一、お祭り好きだものね」
沙織は笑った。
「浴衣、着せてあげなきゃ。可愛い柄の、買ってあげるわ」
§ § §
足が止まった。
目の前に、何かがある。
古井戸。
黒い穴が、ぽっかりと口を開けている。
「……綺麗」
沙織は呟いた。
「深いのね。底が見えない」
井戸の縁に、手を置く。
冷たい。
「陽一、ここから覗いたら、お星様が見えるかしら」
笑みを浮かべる。
「一緒に見ましょうね。四人で――」
また、間違えた。
「……二人で」
お腹を撫でる。
「私と、この子で」
胎児が、蹴る。
「あははは、元気ね。良い子ね」
涙が零れる。
「陽一も、元気だった」
過去形。
「俊夫も、元気だった」
過去形。
「みんな、元気だった」
笑う。
「でも、もういない」
笑顔のまま、呟く。
「誰も、いない」
井戸の闇が、見つめている。
「ねえ、陽一。お母さん、疲れちゃった」
井戸に手をかける。
「少しだけ、休んでもいい?」
村人の手が、背中を押す。
いや――押されたような気がした。
でも、沙織にはもう分からなかった。
「あははは――」
笑い声が、夜に響いた。
その声は、途中で途切れた。
縁から身を乗り出した沙織の腰を、村人の太い腕が引き戻していた。
沙織の声は嗚咽に変わり、やがて狂ったような笑いに変わった。
「あははっ……陽一……返して……返してよぉ……!」
「赤ちゃん……できたのに……家族、増えるはずだったのにぃ……!」
悲痛な叫びを残し、村人たちが沙織を引きずっていく。




