↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
にくゑ【ある世界が終焉を迎えるまでの道程。そして――】終焉の探偵  作者: カクナノゾム
第一部 にくゑ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/185

佐藤沙織 見てはいけないもの

 沙織は膝から崩れ落ち、床に手をついた。血が指の間に広がり、爪の先まで染み込んでいく。

 涙が視界を歪めるが、音も匂いも消えてはくれない。

 ――夫が息子を食らう音。

 そのすべてが、沙織の正気を容赦なく削り取っていった。


「あ……ああ……」


 声にならない声が漏れた。

 その時――腹の奥で、何かが激しく動いた。


 鋭い痛み。まるで内側から蹴られるような衝撃。

 お腹を押さえる。もう一度、強く。


 ――この子。


 腹の中の子が、暴れている。

 拒絶するように。怒るように。


「この子……この子は……」


 沙織の声が震えた。

 腹の中で、また激しく動く。


 普通じゃない。

 この子は、普通じゃない。


 恐怖が背筋を這い上がる。

 だが同時に――これだけが残された、唯一のもの。


 さっきまで喜んでいた新しい命。

 でも今は――この子だけが、残されたすべて。


「陽一……陽一……」


 沙織の声は嗚咽に変わった。

 涙が頬を伝い、床に落ちる。


 俊夫が――いや、それは俊夫だったものが――立ち上がった。

 そして、沙織へ向かって歩き出した。


 沙織は動けなかった。

 恐怖で体が凍りついている。


 俊夫の手が伸びる。

 爪が鋭く、血に濡れている。


 吉川先生が前に出ようとするが、間に合わない。


「――止まりなさい」


 冷たい声が響いた。


 次の瞬間、白い影が俊夫の前に立ちはだかった。

 清音。


 巫女服の少女が、静かに立っている。

 その瞳は氷のように冷たく、そして――悲しげだった。


「あなたはもう、人ではありません」


 清音の声に、俊夫の動きが止まった。

 だが次の瞬間、再び襲いかかろうとする。


 清音の手が、俊夫の額に触れた。


「眠りなさい」


 その瞬間――俊夫の体が崩れ落ちた。

 糸が切れたように、床に倒れ込む。その血まみれの身体は、ゆっくりと呼吸をしながら動かなくなった。


「これで供物は完成した」


 供物? 俊夫が? 一体、何を――。

 巫女が何かを口にすると、吉川先生たちが崩れ落ちた。

 何もかもが急で、目眩がする。


「あ……ああ……」


 沙織は目を見開いた。

 息が、できない。

 喉が、詰まる。


 陽一。

 俊夫。

 赤ちゃん。


 言葉が、繋がらない。

 戸口にいた村人たちが、診療所へ踏み込んできた。


「おったぞ! 佐藤の嫁がおる!」

「にくゑ様の供物が逃げおったんじゃ!」


 男たちの声が響く。

 沙織を囲むように、村人が集まってきた。


「この女を連れて行け。祭りに間に合わせんと」


 誰かが言った。

 腕を掴まれる。引きずられる。


「やめて……やめて……陽一……陽一……」


「あ」


 声が漏れた。


「ああ」


 もう一度。


「あははっ」


 笑いが零れた。なぜ笑っているのか分からない。

 涙が頬を伝う。止まらない。


「陽一」


 呼んでみる。


「陽一?」


 返事はない。


「陽一っ!」


 叫ぶ。喉が裂けそうなのに、声は掠れて小さい。


 床に、小さな手。

 動かない手。

 さっきまで、スープのスプーンを握っていた手。

 温かかった手。


「ねえ、陽一」


 沙織は這いつくばった。膝が血に濡れる。


「起きて。お母さんね、赤ちゃんできたの。弟か妹よ。嬉しいでしょ?」


 小さな手に触れる。

 冷たい。


「ねえ、陽一?」


 揺さぶる。動かない。


「起きてってば」


 笑みが浮かぶ。涙が止まらない。


「起きてよぉ」


 声が裏返る。


「あははは、ねえ、赤ちゃんできたのよ? 家族、増えるのよ? 四人になるの。四人で――」


 視界が揺れる。


 ――違う。


 脳の奥で、何かが囁く。


 ――四人じゃない。


「……二人?」


 呟く。


 陽一がいない。

 俊夫がいない。


「二人……あはは、二人? 私と、赤ちゃんで、二人?」


 お腹を押さえる。

 また、激しく動いた。


 痛い。


「痛いっ……何、この子……何なの……」


 胎児が暴れる。拒絶するように。


「やめて……やめてよ……」


 お腹を叩く。


「静かにして! 静かにしてよ!」


 また叩く。


 その時――外から足音。


 沙織の頭が上がらない。

 誰が来たのかも、分からない。


「さぁ、祭りの準備じゃ!」


 誰かの声。遠い。


「陽一……」


 沙織は床の血を撫でた。


「陽一、どこ……どこ行ったの……」


 腕を掴まれる。

 引きずられる。


「やだ、やだっ、陽一っ、陽一置いてけないっ」


 抵抗する。爪を立てる。


「離して! 陽一が、陽一がっ――」


 笑いが込み上げる。


「あははは、陽一ね、お父さんにね、赤ちゃんのこと教えに行ったの。良い子でしょ? 優しい子でしょ?」


 涙が溢れる。


 § § §


「なのに、なのにっ――」


 声が途切れる。


「返してよ……返してよぉ……」


 嗚咽が漏れる。

 引きずられながら、沙織の手が床を掻く。


「やだ、やだやだやだっ、陽一、陽一っ」


 爪が剥がれる。血が滲む。

 声が笑いに変わる。


「あはは、あははは、増えるはずが、減ったの。四人が二人。あははは――」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。