佐藤沙織 つかの間の団らん
それから、しばらくの静寂が診療所を満たした。
千鶴が温かいスープを作ってくれて、陽一が美味しそうに飲んでいる。
梓も一緒に座り、穏やかな時間が流れていた。
沙織は扉を見つめていた。
この先の診察室で俊夫は眠っている。
早く、伝えたい。新しい命のことを。
その時――陽一が毛布をそっと押しのけた。
「陽一?」
沙織が声をかけると、息子もまた扉をじっと見つめている。
「……おとうさんに、教えてあげたい」
陽一がぽつりと呟いた。俊夫は診察室のベッドに寝かされている。今は吉川先生の私室でひと息ついていたが、息子は落ち着かず、廊下の先を何度も見ている。付き添っていた吉川先生は、薬を取りに席を外していた。
「赤ちゃんのこと、教えてあげたいんだ」
その純粋な想いに、沙織の胸が揺れた。止めなければと思いながらも、夫と息子が喜びを分かち合う光景が脳裏に浮かぶ。
「……ほんの少しだけよ」
かすれ声でそう答えると、陽一はぱっと顔を輝かせた。小さな足で廊下を小走りに進む。その後を、沙織も、梓も、千鶴も慌ただしく追いかける。
診察室の前にたどり着いたとき、陽一は振り返って母に笑った。
「お父さんっ、聞いてっ!」
そして扉に手をかけ――。
扉が開いた。
隙間から漏れる薄暗い光。その向こうに、俊夫の影が見える。
陽一が中へ入る。扉が半開きのまま、止まった。
「おとうさん……?」
小さな声が部屋に響く。
「お母さんね、赤ちゃんができたんだって! 弟か妹ができるんだよ!」
陽一の嬉しそうな声が、診療所に響いた。
沙織の胸が温かくなる。
きっと俊夫も、喜んでくれる――。
その時だった。
部屋の中から、低い唸り声が聞こえた。
それは人間の声ではなかった。
獣の――いや、それ以外のもっと悍ましい何かの唸り声。
「……おとうさん?」
陽一の声が震える。
沙織の心臓が跳ね上がった。
「陽一、出てきなさい! 今すぐ――」
甲高い悲鳴が響いた。短く、鋭く、喉を引き裂かれるような絶叫。
沙織の心臓が止まった。
「陽一っ!!」
診察室の戸を乱暴に開いた。
――そこにあったのは、地獄だった。
床の上に小さな体が倒れ、その上に俊夫が覆いかぶさっている。
陽一の喉笛に齧り付いた口が、肉を食んだまま真上に持ち上がる。ブチブチと筋肉と血管が千切れる音が鳴り響くと同時に血潮が弾け、鉄の匂いが一気に吹き出した。
「俊夫さん……?」
沙織の声は震えていた。
振り返った夫の口元は真っ赤に濡れ、歯の隙間から肉片が覗いていた。その目は血走り、理性の光はもうない。飢えた獣の赤い瞳が、沙織を見据えている。
「あなた……俊夫さん……何を……何をしているの?」
言葉が喉で絡まる。涙がにじむ。
「俊夫さん、これは陽一よ……あなたの子どもなのよ……!」
――いや、俊夫だったもの。
「やめてっ! やめてえええっ!! 返して、陽一を返してっ!!」
沙織は駆け寄り、夫の肩に縋りつこうとした。
だが、俊夫はまるで聞いていない。息子を抱きしめる代わりに、その体を貪り続けていた。
「どうして……あなた……陽一を抱いてあげて……陽一は、あなたのことが大好きなのよ……!」
涙で顔が濡れる。
床に広がった血が沙織の手を染め、爪の間にまで入り込む。
「俊夫さん……お願い……思い出して……!」
夫の頬に手を伸ばした。
しかし俊夫は、血に濡れた顔を沙織に向け、赤い瞳で睨みつけただけだった。
その目には、もう愛も記憶もなかった。
「……いやぁぁぁぁっ!!」
沙織の絶叫が診療所に響き渡る。
小さな手が力なく痙攣し、次の瞬間、ぶつりと音を立てて動きを失った。
床に濃い血が滲み広がり、甘ったるい鉄臭さが喉を焼く。
俊夫はなおも咀嚼を続けていた。
それは人の食事ではなかった。生きながら肉親を喰らう、絶対にあってはならない光景。
「陽一……陽一っ……!」




