にくゑ 肆
――幻視。
梓の目の前に広がったのは、夜ではなかった。
そこは明るい野原。花が揺れ、子供たちの笑い声が響いている。
ここは、村だ。過去の、現在の村が全て重なり合っている。
多くの人々の気配を感じる。
見ると、亡くなった村人たちが微笑み合い、互いの手を取り合っていた。
争いも、誤解も、孤独もない。
皆が一つの大きな心の中で溶け合い、穏やかな幸せだけが満ちていた。
にくゑさま……わたしたちは、みなにくゑさまとひとつになる。にくしみも、うらぎりも、こどくもない、こうふくなせかい、えいえんのせかい……
村人たちの声が重なって聞こえる。
一つになる? あの悍ましい肉の塊と?
それが幸せ?
私は、一体何を見ているの?
疑問を浮かべつつ、其の光景を見守る梓の前に一人の女性が姿を現した。その女性は三十代半ばだろうか? 巫女服を纏い穏やかな光を湛えた目で梓を見ている。その女性に重なるように、何人もの巫女たちが姿を現し梓を見つめた。
――ああ、この人は最初の清音。この村で最初ににくゑの巫女を務めた方だ。そして歴代の清音たち。母がなるはずだった清音、にくゑの巫女たち。
何の理由もなく、はっきりと梓には理解できた。
――初代の清音が口を開いた。
(この世界は、私たちによって続いてきました。貴方もどうか、ここで共に……)
幾人もの清音が同じ言葉を重ねる。
(――どうか、貴方も)
梓の胸に熱いものが込み上げる。
このまま溶けて、皆と一つに。もう孤独ではない。ずっと一緒。暖かな感情が胸に満ちてゆく。
だがその温もりと同時に、冷たい拒絶が心臓を突き刺した。
「わからないっ! にくゑってなに!? 巫女って何? どうして皆忘れてしまうの? 掟って何? この村は一体なんなの?」
梓は叫ぶ。清音たちに向かって。
(巫女は蓋。人の世とにくゑの世を隔てる蓋。我々が人の世を守っているのです……)
初代の巫女の言葉は、しかし梓には響かなかった。
(ただし、蓋であり続けるには……代償が必要でした)
清音の声に、かすかな痛みが混じる。
(にくゑを抑え、人の世に溢れさせぬために。私たちは少しずつ、身体を捧げてきたのです。肉に侵され、やがて人でなくなる。それが巫女の定め……)
歴代の清音たちが、静かに頷いた。
その姿をよく見れば――彼女たちの身体の一部が、わずかに歪んでいる。肌が不自然に波打ち、指先が微かに融け合っている者もいた。
梓の背筋が凍りついた。
母は、こうなるはずだったのか。
少しずつ侵食されて、最後には――
(さぁ、貴方も我々と共に。清音の資格を持ち、清音ではない貴方)
巫女が手を差し出す。誘いは甘く、心も体も溶け落ちそうになる。
だが――母はここにはいない。
だから――私は……ここにはいられない。
「――イヤッ!」
それは明確な拒絶の意思。
その言葉を発した瞬間、視界が大きく揺れ、野原も笑顔も花も崩れ落ちていった。




