にくゑ 参
吉川の声は押し殺されていた。
梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。
耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。
意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。
梓は母の日記の最後の一文を思い出した。
――「もう帰らない」
喉の奥が冷たくなり、視界が滲む。
「先生……ここから先は……」
吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。
「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」
梓は頭を振った。
「だめです……誰かが、見ている……」
その瞬間、背後から空気が揺れた。
暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。
――覗かれている。
囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。
二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。
囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥へと広がり、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。
滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。
いや、肉のように、ではない。
それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。
――ぐじゅ、ぐじゅ……。
甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。
梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。
「下がってください!」
声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。
白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。
同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。
ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。
「……これが……にくゑ……」
吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。
だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ。
「――っ!」
次の瞬間、肉の触手は、梓の身体に溶け込み、一体化してゆく。梓の身体が震え、瞳から光が失われていった。
「梓さんッ!」
吉川が抱き留めたとき、彼女の意識はすでに遠ざかっていた。




