にくゑ 弐
洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯りを掲げると、黒い苔が岩肌にびっしりと張りつき、滴が石に落ちるたび鈍い音を立てる。
やがて、岩を削ってしつらえた小さな祠が姿を現した。朽ちた鳥居の先にぽつんと建ち、幾度も祈りを受けてきた気配が漂っている。脇には割れた石灯籠や沈んだ供物の器が並び、甘ったるい匂いがいっそう濃くなった。
吉川は慎重に周囲を確かめ、短く言った。
「ここが……祈りの場所なのですね。にくゑ信仰の中心ですか……」
梓は頷いた。心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
灯りを祠の背後に回すと、そこに三枚の板が立てかけられていた。釘は錆びて抜けかけ、板そのものも半ば倒れかけている。
梓は息を詰め、光を近づけた。裏面には、彫られた文字や墨の跡が浮かび上がっている。
一枚目。子供の拙い字だった。
「みかがえらばれた。かみさまのはなよめになるときゝたり」
声に出すたび、文字の幼さが逆に胸を締めつける。
「うらやまし、わらもえらばれとうござる」
「清音さまはうつくしう、やさし。きっとかみもよろこびて候」
梓は唇を噛み、灯りを握る手を強めた。丸い光に照らされた古い文字を吉川ものぞき込む。
「みかちゃんが選ばれ。神の花嫁になるのだって。うらやましい。私も選ばれたいと願っているの。清音さまは美しくて優しい。神様もきっと喜ばれるでしょう……ですか」
随分と古い書き込みのようですね、と吉川が呟いた。
二枚目。少し大きな子の手で刻まれた文字。
「……寛永、清音、記す」
梓の声が震えた。
「『いちに、にくゑが落とし肉』『さんし、静かな夜の後』『ごろく、喜んで次の子を』『ななはち、早く迎えて』『きゅうじゅう、待ってる、待ってる』……」
それは節を刻むような祈りの歌だった。脇には掠れた注釈がある。
「此れは村に伝はる神聖の歌に候。選ばれし者のみが知るべき尊き真実に候。次の清音にて、誇りとともに伝へ申すべし」
吉川は横で手帳に記録しながら、表情を崩さぬよう努めていた。三枚目。整った大人の字で、墨痕がまだ鮮やかに残っている。
「……『私の使命も終わりに近づいています。神様とひとつになれる日が楽しみです』」
その下には供物の記録が並んでいた。
「『寛文――田中家、神様に喜ばれました』『延宝――佐々木家、豊作をもたらしました』『元禄――高橋家、不完全でしたが、神様は慈悲深く受け入れてくださいました』」
梓の胸は冷え切り、視界が霞む。
そして板の最後に近い箇所に、その書き込みはあった。
梓の目が最後の欄に吸い寄せられる。
そこには――
「……十三代目清音……弓子、名を奉ず」
灯りが揺れ、文字が涙ににじんだ。膝が震え、喉の奥から声が漏れる。
「……お母さん……」
しかし、その整った字を乱すように、下から荒々しい殴り書きが刻まれていた。
「……『間違ってる!』『これは神聖なことじゃない!』『この子は、普通に生きて』……」
激情の跡が木目を抉り、祈りとは正反対の声を突きつけてくる。そしてその下には一番新しいものと見られる書き込みがあった。
「十四代目清音。ここに名を奉ず」
流麗な字で、それは書かれていた。
「清音……」
崩れ落ちそうになる梓の肩を、吉川が支えた。
彼は黙ったまま不自由な手でメモをとり、板を写し取る。冷静を装いながらも、背中を冷たい汗が伝っていた。
「清音、というのが代々の巫女の名前。多くの女性が自分の名前を捨てて清音の名を継いでいます。しかし何人かは、産まれながらに清音という名で産まれているんですね」
「はい……今の清音は、産まれながらの巫女、と言うことなんでしょうか?」
吉川はしばし板の文字を見つめたまま黙り込んだ。答えを探すというより、答えを口にする覚悟を決めているようだった。
「だと思います。清音さんから何か聞いては?」
「いえ、にくゑ様の巫女だということしか……」
梓は首を振った。知らなかった、というより、知ろうとしてこなかったのかもしれない。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
にくゑ、その名前を聞いた時吉川の背中を冷たいものが走った。それは実在する。その怪異を彼は目の当たりにしていた。
「にくゑ……一体何なんでしょう……」
その声は落ち着きを保とうとしていたが、洞窟の湿気に混じって震えていた。
板を写し終えたときだった。
洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。
――ふう、ふう……。
低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。
「……聞こえますか」
「はい」




