にくゑ 壱
懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。
梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。
吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。
「先生……痛むんですか?」
声をかけると、吉川は一拍おいて振り返った。
「大丈夫です。大したことはありません」
吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。
「でも――巻き直した方が」
「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」
梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと手で制した。
「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」
梓は言葉を詰まらせた。
脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。
――『もう帰らない』。
「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」
「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」
静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。
彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。
「先生は……怖くないんですか」
「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」
梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。
その時、道が二つに分かれた。
左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。
右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。
「……井戸?」
吉川は灯りを向け、眉を寄せた。
「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」
梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。
「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」
言い切る声は震えていたが、必死だった。
吉川は短く考え、やがて頷いた。
「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」
二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。
背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。




