にくゑ 伍
「梓さん……! しっかりしてください!」
必死の声が耳に届いた。瞼を開けると、吉川の顔がぼやけて浮かんでいる。腕の中に抱えられているのを知り、梓は瞬きした。まだ胸の奥に、さっき見た光景の残滓が疼いていた。
「……先生……私……」
「――よかった。意識が戻った」
「大丈夫です。怪我はありません。気を失っただけです」
吉川の声は理性的だったが、額に滲んだ汗が冷気の中で光っている。
「肉の触手が貴方の腕に融合していましたが、しばらくすると跳ねるように離れてゆきました」
吉川の言葉に腕を見る。触手が溶け込んでいた場所は、それが嘘のように綺麗な皮膚が見えていた。
「あれが……にくゑ……」
「ええ、触手が離れると同時に、全て壁の中に消えてゆきました。一体何があったんでしょうね」
吉川の声はどこまでも理性的だった。だがその理性は、少し無理をして保たれているようにも見えた。
梓は息を整え、震える声で言った。
「……きっとあれが、本体なんですね」
「ええ。あの触手、眼や口を持つ異形……生物の範疇を超えています。だが、確かに“つながって”いる。おそらく洞窟だけではなく、この村全体に……網のように」
吉川の言葉は冷静だが、その目の奥には恐怖が潜んでいた。
二人はしばらく黙り込んだ。灯りの届かない祠の奥を、どちらも見ないようにしていた。
「……先生、村の外に出られたら……」
「ええ、伝えるべきです。ですが――」
吉川の言葉を受けて、梓はゆっくり首を振った。
「村は……にくゑは……きっと私たちを逃がしません」
その声は確信に満ちていた。
母の名を刻んだ板を見た今、梓には分かる。ここは血と掟で閉ざされた場所だと。
吉川は黙って梓を見つめ、やがて立ち上がらせた。
「……ならば、策を練る必要があります。ひとまず診療所へ戻りましょう」
梓は頷き、灯りを掲げ直した。
洞窟を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。闇は深いままだが、外の空気にはまだ人間の匂いがあった。
二人は互いの影を確かめ合いながら、山道を戻っていった。
背後の洞窟は、何事もなかったかのように静まり返っている。だがその奥で、甘ったるい匂いと囁きは、今も絶え間なく脈打っていた。




