吉川直樹 焦げた匂いの夜
――時は少し遡る。梓が母の日記を読み終える、その少し前のこと。
夜更けの診療所は、静けさの裏に鉄と焦げの匂いをまだ抱えていた。
処置室の惨状を片づけた後も、床や壁には黒い痕が残り、鼻腔には焼けた肉の甘ったるさが残響している。
吉川は左腕に包帯を巻き直しながら、カルテ棚を漁っていた。火傷はじくじくと熱を放ち、衣服に貼りつくたび痛みを呼び覚ます。
それでも視線は外せない。
紙は嘘をつかない。
――森谷健太。
――林田美穂。
二人のカルテは確かにここにある。
日付、症状、処方、診察の記録。どれも自分が記したものだ。
背後で小さな足音がした。
振り返ると、包帯を巻いた腕を押さえた千鶴が立っていた。顔色は青ざめているのに、笑みだけを作っている。手には盆があり、湯気の立つ茶碗が揺れていた。
「先生……少しでも温かいものを」
声は震えていた。
吉川は椅子を引き、受け取った茶を机に置いた。
「千鶴さん。……今日のことを、覚えていますか?」
「……今日?」
彼女の目が揺れた。
吉川はカルテを指で叩く。
「今日起こった、不可思議な出来事です。あの遺体が元はこの村の住人だったことを覚えていますか?」
千鶴の唇がかすかに震えた。
一瞬だけ「知っている」という色が瞳に浮かんだ。だが次の瞬間には消え、柔らかな笑顔に覆われる。
「……誰でしょう、それに不可思議なことって?」
「――ッ!」
「あら、いつの間にこんな怪我……先生も腕を? どうなさいましたの?」
その怪我は! 私たちが目撃したあの怪異は! と喉元までこみ上げてきた言葉を、吉川は飲み込む。
千鶴の言葉は穏やかだった。だが声の奥には怯えが潜んでいる。彼女自身、何かを忘れさせられているのを感じ取っているのかも知れない。
「千鶴さん……」
吉川は呼びかけながら、白衣の襟元を緩める。
――記憶が修正されている。
逆に何故私は、覚えているのだろう? 彼女と私の何が違う?
能面のように無表情になりながら、吉川の脳が全力で回転している。摂取している食物? あるいは環境的な何か? 未知の化合物。いや、それは違う。そんなものまで可能性に入れていたらもう絞りきることは出来ない。彼女と私の差異。性別? 年齢? それとも――。
――程なく答えが出た。直感でしかないが、可能性の高い答えが。
時間、だ。この村に来てからの時間。
私よりずっと彼女の方がこの村に居住している時間がずっと長い。この村に長く居ることによって、何かに汚染されているのかも知れない。それが記憶を曖昧にしている?
だが、明らかに選択的に記憶を操作している。誰が? 何のために? そもそもそんなことが可能なのか?
この村は彼女の記憶さえも削ってゆく。夫を失った彼女が、今度は子供たちの存在すら思い出せなくなる。
左腕の火傷が疼く。千鶴の噛まれた腕からも血がにじみ、包帯を赤く染めていた。
その姿を見た瞬間、吉川は腹の底に冷たい決意を覚えた。
――記録は残る。
ならば、探るべきは記録――だ。
そして残すベきも、また。
吉川は、包帯を解く。腕の内側は、高熱の炎の輻射熱により、酷い有様になっていた。
「先生、何を?」
「すみません、黙って見ていて貰えますか?」
いいながら吉川は、メスを取り出し刃先をバーナーで炙る。瞬間的に赤熱した刃を、負傷していない右腕の外側に突き立てた! 刃先が皮膚を擦ると、湿った肉が焼ける匂いが鼻腔を襲った。ジュッという低い音とともに、切れ目の縁が黒く炭化していく。
「く……うぅ……」
「先生っ! 何をッ!?」
千鶴の声に構わず、そのまま刃を動かす。熱を持つうちに終わらせなければ――。
「――っ、はぁ、はぁ、はぁ」
作業を終えた吉川は、力尽きたようにメスを放り出す。
千鶴が慌てて、その腕に治療を施し始めた。
「先生、どうしてこんなことを?」
「――いえ、保険です。お気になさらずに」
「もう、わけがわかりませんっ!」
千鶴が巻く包帯の感触を感じながら、吉川は自分はもうおかしくなっているのかも知れない、と少し笑う。
だが狂気にも似たこの感情がなければ、もうとても立ち上がることは出来ない。
カルテの文字を何度もなぞっても、頭の中は霧のようにぼやけていた。記録は残っている。だが村人の記憶からは消されている。
診療所の玄関先は、昼の熱を失った夜気に包まれていた。
月明かりが庭石を白く照らし、蝉の声の残響が遠くで消えていく。
不意に外出すると言い出した吉川を、千鶴は訝しげな表情を浮かべながら玄関まで見送っている。
火傷の疼きと、千鶴の傷から滲む血の匂いが、二人の間に生々しい沈黙を漂わせていた。
「……先生、もうやめましょう」
千鶴が震える声で言った。




