吉川直樹 千鶴の願い
「……なんだか怖いんです……何があっても目をつむってさえいれば……」
吉川は眼鏡の奥で視線を細め、低く答えた。
「私も怖いです。しかし、思い出せなくなるのはもっと怖い。林田美穂さん、森谷健太くん。どちらも大切な私の患者でした」
その名を口にした瞬間、千鶴の顔がひきつった。
記憶の霧に抗うように眉を寄せ、だが次の瞬間には怯えを隠す笑みを浮かべる。
「わからない……わからないんです、私……」
言葉が嗚咽に溶けた。
吉川は深く息を吸い、意識して声を落とした。
「だからこそ調べるんです。カルテには記録が残っている。だが村人たちの記憶は消される。――ならば村の公式記録、歴史そのものに答えがあるはずです」
「公式……記録?」
「役場です。戸籍、古文書、この村がどんな掟を抱えてきたのか……。医者が病の原因を探すのと同じです。表に現れる症状だけでは、治すことはできない」
千鶴は目を見開き、首を振った。
「そんなことをしたら……それって犯罪じゃ……」
声が震え、言葉が途切れる。
吉川はその震えを真正面から受け止めながらも、包帯越しの火傷の痛みに顔を歪めた。
「……それでも、行かねばならない」
千鶴は裾を掴み、必死に縋った。
「先生……置いていかないで……ください」
吉川が答えられずにいると、千鶴は裾から手を離し、震える声で言った。
「……先生」
千鶴はその場に立ち尽くしていた。包帯を巻いた腕は赤黒く滲み、髪は乱れて頬に貼りついている。
蒼白な顔に、無理に貼りつけた笑み。けれどその瞳の奥は揺れていた。
「私……怖い……怖いんですっ!」
唇がかすかに震える。
「何か恐ろしいことが起こって……でもそれが思い出せないッ!!」
吉川の胸に冷たいものが落ちた。彼女もまた、記憶を削がれている。
「私……怖いんです……」
千鶴はうつむき、声を絞り出すように続けた。
「……今晩は……一人でいたくない、です」
その言葉を口にした瞬間、彼女の肩が震えた。
夫を待ち続けて既に三か月。だが、今晩は吉川と共にいたい――その罪悪感が、声を詰まらせているようだった。
次の瞬間、千鶴は吉川に縋りついた。
額を胸に押しつけ、両腕で抱きついて震える。
「……先生! どうか危ないことはなさらずに、今晩は私と一緒に……一緒にいてくださいっ!」
熱を帯びた体温が火傷の腕に重なり、鋭い痛みと共に、生々しい温もりが伝わる。
髪から漂うのは女の匂いだった。石鹸の香りに混じって、血と汗と涙が溶け合う匂い。
それは処置室に漂った死と焦げの臭気とは違う、あまりにも生身の人間の匂いだった。
吉川の胸の奥で警鐘が鳴った。人妻に抱きつかれ、恋情と罪悪感が入り交じるこの瞬間は危うい。
それでも、目の前の彼女は追い詰められ、必死に拠り所を求めている。
「……大丈夫です」
吉川は低い声で答え、彼女の背に手を回した。
「私がいます。その怖いことをなくすために、私は行くのですから」
慰めの言葉を口にしながら、自らの胸に誓う。
彼女を、子供たちを、この村から奪わせはしない。
記憶が消されても、記録は残る。
その信念が、罪を犯してでも真実を追わせる力へと変わっていった。
「先生……」
千鶴が瞼を閉じ、顔を上げる。それは吉川の行動を待つ顔だった。それをしてしまえば、もう戻れなくなる行動を。
一瞬、胸の奥が揺らいだ。
だが吉川は千鶴からその手をそっと外し、代わりに包帯の上から指を重ねた。
「大丈夫です。戻ってきます。だから、待っていてください」
瞼を開いた千鶴の瞳に涙が溜まり、やがて頷きに変わった。
吉川は裾を解かれたまま振り返らず、闇へと足を踏み出した。




