日記 弐
――最後の行を読み終えても、梓はしばらくページをめくることができなかった。
目の前の文字は、確かに母の手で書かれたものだ。それなのに、受け止めきれない。
――母は、村長の妹だった。
――母は「予備」と呼ばれ、自分の存在を否定されていた。
――それでも、兄に縋り、愛してしまった。
――そして、私を身ごもり、村を出た。
頭の中で言葉をひとつひとつ並べるたび、胸の奥が冷たく縮む。
母の「ごめんね」という口癖。あれは、この罪の重さから漏れた言葉だったのか。
そして、清音。
もしも母の日記が本当なら――清音は私の、姉?
奥さまのお腹に先に宿った清音は、私より数か月早く生まれたことになる。同じ父を持つ、異母姉。
梓は口元を押さえた。吐き出したいのに声が出ない。
信じられない。けれど、母の震える筆跡は、容赦なく真実を告げていた。
ページをめくる手が震える。
――わたし。この子って、わたしのこと?
胸の奥で、心臓が暴れるように打っていた。
乱れる手で日記をめくってゆく。
その中に、こんな文章が目に飛び込んできた。
――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。そこに私も名を記すことになった。
清音になるということは、にくゑさまと同化するということ。
このお腹の子もろとも、飲み込まれてしまう。
その先には、さっき読んだ決意の言葉が、もう一度書きつけられていた。
しかし、わたしは決めた。
この子を守るために。
にくゑさまの支配から逃れるために。
――もう帰らない。
もう、わたしは巫女の予備ではない。
わたしは母になる。
笑顔の檻に囚われず、この子を抱いて生きるために。
洞窟? あの祠のある洞窟だろうか。
この村に他の洞窟はない。きっと間違いない。
確かめよう。もしそんなものがあるならこの日記は……きっと本当のことだったのだろう。
表紙を閉じると、ひんやりとした感触が掌に吸いついた。
最後に母が記した言葉が、頭の中で反響する。
――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。
「……確かめなきゃ」
かすれた声が、自分のものだと気づくまでに時間がかかった。
母が守ろうとしたもの。にくゑの正体。そして、自分自身が何者なのか。
全ての答えが、あの祠にあるのかもしれない。
梓は震える手で日記を胸に抱いた。
清音の口づけの余韻は完全に消え、代わりに冷たい決意が胸の奥で固まっていく。
立ち上がり、外套を羽織る。懐中電灯を手に取る。
夜の山道は危険だが、もう迷っている時間はない。
玄関で振り返ると、電灯に照らされた居間が見えた。
さっきまで幸せに浸っていた自分が、遠い過去の人のように思える。
「行こう、梓!」
自分に言い聞かせるように呟いて、戸を閉めた。
夜気は冷たく、草の匂いが濃く漂っている。
村の家々は既に灯りを落とし、静寂に包まれていた。
洞窟への道は、清音と歩いた時とは全く違って感じられた。
あの時は恋の高揚感に包まれていたが、今は不安と決意だけが足を前に進める。
石段を下りながら、梓は母の文字を思い返した。
――清音の名を継ぐ板。
それは何を意味するのだろう。
足音が石に反響する。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
一歩一歩、真実に近づいている実感があった。
その時、闇の先に細い灯りが揺れた。
同じように懐中電灯を手にした、背の高い影。
「……吉川先生?」
振り返った男の眼鏡に、光がちらりと反射した。
息を弾ませた声が、夜気を震わせる。
「どうして、こんなところに?」
「先生こそ?」
闇の中、二つの灯りが重なった。
それぞれ違う理由で、同じ真実を求めて。




