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にくゑ【ある世界が終焉を迎えるまでの道程。そして――】終焉の探偵  作者: カクナノゾム
第一部 にくゑ

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日記 壱

 村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。

 

 初めての口づけ。

 短く、けれど永遠のように長い時間。

 清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。


 足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。


 玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。


「ただいま……」


 誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。


 居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。

 天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。


 清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。


「はぁ……」


 大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。


 幸せを確かめるように部屋を見渡す。

 ――と、床の間に置いたままの母の日記が、ふと目についた。まだ通しては読めていなかった、あの一冊。


 今夜はなぜか、手が伸びた。


 表紙を撫でると、指先に違和感があった。革が、二重になっている。よく見れば、表紙の裏地がわずかに浮いて、薄い紙が挟まっていた。


 剥がすと、震えた走り書きが現れた。


 ――床の間、右奥の板。


「……隠し場所?」


 床の間の右奥に手を這わせると、板の一部が浮いている。とっさに指をかけると、板がすっと持ち上がった。


 床板の下に、小さな空間があった。

 そこに、古い革表紙の手帳が七冊。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。


 梓の胸に、予感が走った。

 さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。


 表紙には、かすれた文字で――


 ――『弓子』


 母の名前だった。


 梓の手が震えた。

 これは母の日記だ。東京に出る前の。

 日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。

 でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。


 一番下にあった手帳から、恐る恐るページを開く。

 そこには、こどもの筆跡でびっしりと文字が記されていた。


『わたしは ここにいても いいのでしょうか』


 最初の一行を読んだだけで、梓の血が凍りついた。

 清音との口づけの余韻は、跡形もなく消えていた。



 § § §



 震える手で、梓は革表紙を開いた。

 乾いた紙の匂いが立ちのぼり、胸の奥を締めつける。インクの滲んだ筆跡は、確かに母のものだった。


しちがつみっか

わたしは ここにいても いいのでしょうか

なぜ、わたしにはとうさまもかあさまもいないのですか

でも、きょうは にいさまが てをにぎってくれました

うれしくて、ないてしまいました

おかみさんは こわいめで わたしをみます

でも おにいさまは わらってくれます

それだけがうれしいです


 ――文字を追う梓の頬を、涙がすっと伝った。母にも、こんな幼い孤独があったのか。


七月十五日


きのう、きよねさまから、ふしぎな話をききました。

このむらの人は、しんだらみんな、にくゑさまのなかへいって、ずっとしあわせにくらせるのだそうです。

わたしは小間づかいだから、しんだらどうなるのだろう。

でも、にくゑさまはやさしい神さまだときいたので、きっとわたしも、みんなと同じところにいけるのだと思いたいです。


けれど、この家には、わたしと血のつながった人はひとりもいません。

兄さまも、ほんとうは兄さまではありません。

だからこそ、みんなと同じ場所に行けると信じたいのです。


 ――梓は唇を噛んだ。母が語らなかった過去の重さが、紙の一行ごとに押し寄せてくる。何冊か飛ばして拾い読みをする。


九月二十日

おつとめは日に日にたいへんになります。

井戸の水を運び、畑の草を抜き、清音さまのお世話もします。

兄さまは「よう頑張っとる」と声をかけてくださいます。

その言葉だけで、胸が熱くなります。


けれど、奥さまはいつも冷たい目でわたしを見ています。

前の村長さまも、村の古い人たちも、わたしにだけよそよそしい。

どうしてでしょう。わたしはよそ者だからでしょうか。

「遠縁の娘」と言われても、心のどこかで居場所を失っていくようです。


 ――梓は、さらに後の一冊を手に取った。そこにはこう書いてあった。


六月二日

今夜のことを、どうしても書かずにはいられません。

夕立に濡れて震えていたわたしを、兄さまが抱き寄せてくださったのです。

その温かさに縋ってしまい、わたしは……自ら一線を越えました。

小間づかいなのに。

罪だと知りながら、身体は兄さまを求めてしまいました。

嬉しくて、怖くて、死んでしまいたいほどに愛おしい。


八月十日

虚木の家に残された古い記録を見ました。

そこに書かれていたのは、恐ろしい事実――

わたしは先代清音様の娘――清一兄様の実の妹であり、兄様に子供が出来なかった時に新しい清音になるための、“予備”として生まれたということ。

そして、この村のすべては、にくゑさまを封じ、同時に愛し続けるためにあるのだと知りました。

大旦那様――お父様に尋ねると、知ってしまったのか、と苦い顔で呟かれました。なんということ!

そうと、そうと知っていればあんなことは――。

いいえ嘘です。たとえ知っていたとしても私は恋に落ちていたでしょう。そして罪を犯したと思います。


十月十一日

奥さまのお腹に、新しい清音が宿ったことを知りました。

その同じ頃、わたしの母――先代の清音さまは亡くなりました。

村は静かに揺らぎ、わたしの胸もまたざわめいています。


そして今、わたし自身の腹の奥にも、小さな命の鼓動を感じています。

実の兄との……子供です。このことはお父様しか知りません。

これは罪の証なのでしょうか。

それとも赦しなのでしょうか。


 最後の一冊、村を出る直前の記述に、梓は目を留めた。


大旦那――父は私にこう告げた。

「村を出るとええ」と。

罪を抱えて、誰にも知られぬように。

奥様の悋気は、私とこの子を殺すかも知れない。

儀式を経ていない私とこの子は、本当の意味で死ぬことになる。

ならば――と。

祭りの前に村を出るならば、お前のことは誰にも気がつかれない。何故なら、今の村には清音がいないから。


生活の面倒は村で見よう、と。

それは父が私に見せた、せめてもの愛情だったのだろうか?

しかし儀式を終えていない私が村を出て大丈夫なのだろうか?

父はいった。

虚木の強い血を持つお前なら、村の外でも生きていける、と。

だが、成人の儀を経ていない私は、長くは生きられないかも知れない。


しかし、わたしは決めた。

この子を守るために。

わたし自身の罪を隠すために。

にくゑさまの支配から逃れるために。


――もう帰らない。

もう、わたしは巫女の予備ではない。

わたしは母になる。

笑顔の檻に囚われず、この子を抱いて生きるために。

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