佐藤沙織 清一の来訪
昼を過ぎた頃、道の向こうに畑から戻ってくる人影が見えた。鍬を担いだ農夫たちに混じって、村長の清一の姿もある。俊夫の農作業の指導役でもある清一は年長のはずなのに腰はまっすぐで、身のこなしは若者に劣らない。
「今日はどうしたね?」
真っ先に声をかけてきたのはお福だった。籠を提げ、にこやかに笑っている。
「俊夫さん、来んかったのぉ」
沙織は一瞬ためらったが、正直に答えた。
「具合が悪くて……まだ寝ています」
「ほうか、そりゃ仕方ないのう」
清一がゆっくりと頷いた。深い皺に笑みを刻み、声は穏やかだった。
「都会から来たもんは、最初はよう疲れるけぇな」
庄司が鉄砲を背負った肩を軽く揺らし、笑い声を漏らした。
「昨日は遅うまで飲んどったしな。しばらくは体が慣れんじゃろう」
和やかに見えた空気の中、沙織は勇気を振り絞って口を開いた。
「でも……熱が高いみたいなんです。今朝吉川先生に診てもらったんですけど……また午後からお願いした方が……」
その瞬間、三人の笑顔がわずかに固まった。
日差しが強くなったせいでもないのに、空気が重くなる。
やがて清一が口を開いた。
「先生はのう、今はちいと手が離せんのじゃ」
「村のはずれでな、若いもんの死体が見つかったんじゃ。それも二人じゃって」
お福が言葉を継ぐ。柔らかい声なのに、耳に重く沈む。
外から来た若いもんらしい、と庄司がさらりと付け足す。
「獣にでもやられたんかもしれん……二人ともまだ子供のようじゃったが、なんとも惨い姿じゃった」
清一が言葉を引き取った。その表情は沈痛なものにみえる。村の人間ではなくとも、その死を悼んでいる様子が見て取れた。
村の人々の言葉を聞いた沙織の心臓が冷たく縮んだ。
今朝、吉川先生が急いで戻ってったのはそういうことだったのか。
この平和な村で……あまりにもそぐわない、それは言葉だったからだ。
「……死体、ですか? 二人も」
震える声が自分のものとは思えない。
お福はすぐに笑顔を取り戻し、調子を和らげるように言った。
「まあ、都会とは違うけぇな。旦那さんは寝ときゃようなるわ。心配せんでええ」
お福がそう言って笑顔を繰り返したとき、清一がふと思い出したように懐に手を入れた。
「……そうじゃ、これを渡しとこうかの」
掌に載せられたのは、小さなガラス瓶だった。
昼の光を受けてなお黒ずんで見えるほど、濃い赤がねっとりと揺れている。血のようでいて、粘りを含んだその色は、視線を外せないほど異様だった。
「昔から村に伝わる薬じゃ。よう効くけぇ、安心せえ」
清一は穏やかな笑みを崩さず、瓶を沙織の手に押し込む。
掌に触れた瞬間、沙織の指先から血の気が引いた。
あまりに鮮やかな赤。薬というより、まるで誰かの体から抜き取った血のように思えてならなかった。
「……ありがとうございます」
それしか言えず、沙織は頭を下げて戸口を閉めた。
居間へ戻ると、俊夫はまだ布団に沈んでいた。汗に濡れた額、荒い呼吸。沙織は瓶を見つめ、言葉を選びかねた。
吉川先生が言いかけた「赤い――」が、頭をよぎる。けれど、その続きを知る人は、ここにいなかった。
「あなた、村長さんから……こんなものをもらったの。飲んでみる?」
俊夫はその言葉に、まるで待ちかねていたかのように身を起こした。伸ばされた手は震えながらも力強く、瓶を掴むとすぐに栓を抜いた。
「……っ」
赤い液体を喉に流し込む。ごくり、ごくりと飲み下す音がやけに大きく響いた。瓶はあっという間に空になり、俊夫は唇の端から滴った赤を拭おうともしなかった。
その顔は陶酔にも似て、目の充血がさらに濃く燃えているように見えた。だがしばらくすると、呼吸が落ち着き、汗も引き、布団に横たわったまま穏やかな寝息を立て始めた。
「……俊夫さん……あなた?」
返事はなく、俊夫は安らかに眠っている。安堵が胸に広がる。けれど同時に、瓶の底に残った赤黒い痕跡が、目に焼き付いて離れない。
沙織は小さく震える手で空瓶を握りしめ、昼下がりの白い光を受ける窓の外を見つめた。
日が傾き始めた頃、戸口が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
陽一が駆け込んできた。頬は赤く上気し、汗に濡れた前髪が額に貼りついている。
「お父さん! お母さん!」
その声に俊夫が布団から身を起こした。もう顔色は朝とは別人のように明るく、背筋もすっと伸びている。
「おう、陽一。心配かけたな。今日はちょっと寝すぎただけだ」
「大丈夫なの?」
陽一が目を丸くして駆け寄る。
「大丈夫だ。お前の顔を見たら元気になった」
そう言って俊夫は陽一をひょいと抱き上げ、胸の中でぐるりと回した。陽一が歓声をあげ、笑い声が居間いっぱいに広がる。
「こら、汗だくじゃないか。風邪ひくぞ」




