佐藤沙織 診察
居間に入った吉川は、布団に伏した俊夫の顔を覗き込んでいた。
赤く充血した眼、汗で濡れた髪、胸の上下は不規則に荒い。
吉川は黙って脈を取り、額に手を当てる。眉間の皺が深く刻まれていく。
「……熱は高いですね。宴会の時も具合を悪くされていたようなので、気にかかっていたのですが」
低くつぶやき、聴診器を胸に当てる。俊夫の呼吸音が部屋に広がり、沙織は思わず両手を握りしめた。
そんな話は初めて聞く。沙織は、自分が思っている以上に夫婦のコミュニケーションがとれていないことに驚いていた。何でも話し合っていると思っていたのに。
「どうなんでしょうか……?」
震える声に、吉川は眼鏡の奥から穏やかな視線を向けた。
「熱は三十九度ほどありますが、呼吸はしっかりしています。胸の音もきれいですし、脈も落ち着いている。今すぐ命に関わるような危険はありません」
沙織の表情に安堵の色が差すのを見て、吉川はさらに言葉を重ねた。
「おそらく疲労からくる一過性の熱でしょう。まずは水分をしっかり摂らせて、布団で休ませてください。しばらく安静にして、様子を見ましょう」
その言葉に沙織の膝から力が抜けた。床に崩れ落ちそうになる彼女を、吉川が静かに支える。
「大丈夫です。私が見ています」
――自分ひとりではない。この家に、村に、寄り添ってくれる人がいる。
吉川は往診鞄を閉じ、立ち上がる。
「体を冷やすために水枕を使ってください。食事は消化の良いものを。熱が下がらなければ、また知らせてください」
沙織は深く頭を下げ、声を震わせた。
「ありがとうございます……本当に……」
「そういえば、村長というか村の人から赤い――」
吉川が、その言葉を口にした直後、玄関が激しく開け放たれた。
千鶴が駆け込んできたのだ。顔は蒼白で、肩で荒く息をついている。
「せ、先生! 大変なんです、大変で……!」
畳に膝をつき、取り乱した様子で吉川にすがりつく。
吉川が怪訝な表情で身を屈めると、千鶴は震える唇を寄せ、耳元に素早く何事かをささやいた。
その瞬間、吉川の顔色が変わった。
眼鏡の奥で瞳が鋭くなり、唇は硬く結ばれる。
「申し訳ありません、緊急の用事ができまして……ご主人の容態は安定していますから安心してください。それではこれで失礼いたします」
立ち上がり、早口で言葉を残す。
「何かあれば、すぐ診療所まで来てください。遠慮はいりません」
沙織が呼び止める間もなく、吉川は鞄を抱え、千鶴と共に玄関を飛び出していった。
戸が閉まる音が、妙に乾いて響いた。
居間に残された沙織は、布団の端を握りしめたまま立ち尽くす。
夫の荒い呼吸と、遠ざかる足音だけが耳に残り、不安が胸に広がっていった。




