佐藤沙織 回復した父
俊夫がそう言いながら頭を撫で、額に頬をすり寄せる。その仕草は過保護なくらいで、陽一はやめてよと、くすぐったそうに身をよじった。
良かった、すっかり治ったみたい、と俊夫の様子を見て胸を撫で下ろす。
「学校はどうだった?」
「うん! 今日は山のことを教えてもらったんだ。みんなで絵を描いたんだよ」
目を輝かせて話す陽一を、俊夫は膝の上に座らせて熱心に聞き入る。
「そうかそうか……絵を見せてくれよ。お前は昔から上手かったからな」
その声には誇らしさが滲み、沙織の胸にじんわりと温かさが広がった。
台所で煮物の鍋をかき混ぜながら、沙織はふと息を吐いた。
――やっぱり、この村に来てよかった。
東京では病弱な陽一の体調を気にし、夫も心をすり減らしていた。今、家の中に響く笑い声は奇跡のようだった。
煮物の鍋がことことと小さな音を立てていた。里芋と人参、鶏肉を出汁で炊き合わせ、醤油と砂糖を加えると、ふわりと甘じょっぱい香りが立ちのぼる。
味噌汁には刻んだ大根と油揚げ。木杓子でひとすくいすれば、湯気とともに味噌の香りが立ちのぼり、狭い家の中に広がった。
白米も炊きあがった。蓋を開けた瞬間、もわりとした湯気が立ちのぼり、粒のひとつひとつが光って見える。しゃもじでよそうたびに、つややかな音がした。
浅漬けにしたきゅうりを小鉢に盛り、豚肉とピーマンの味噌炒めを皿に移す。油と味噌が絡んで香ばしい匂いが漂い、居間まで届いていった。
「お母さん、いい匂い!」
陽一が椅子に座り、目を輝かせて身を乗り出した。
「ほら、手を洗ってから」
沙織が言うと、俊夫が笑いながら息子を押しやった。
「ほら陽一、母さんの言うことを聞け。俺だってもう待ちきれんけどな」
三人で食卓につく。湯気の立つ茶碗を前に、そろって手を合わせた。
「いただきます」
陽一は夢中でご飯を頬張った。まだ熱いのに「あちち」と言いながらも、口いっぱいに詰め込む。
「ゆっくり食べろ。喉につかえるぞ」
俊夫が笑って茶碗を支えてやる。
「陽一、ピーマンも食べなさい」
沙織が箸で炒め物をつまみ、息子の皿にのせた。
「やだ、苦いから」
陽一は顔をしかめて、箸で端に寄せようとする。
「好き嫌いしてたら大きくなれないわよ」
沙織の声が少し厳しくなる。
「まあまあ、いいじゃないか。俺だって子供のころは嫌いだったんだ」
俊夫が笑いながら陽一の肩を抱き寄せる。
「な? 陽一」
「うん!」
甘やかす声に、陽一は嬉しそうに笑った。
「だから病気がちになるのよ」
沙織は呆れたように息をついた。だが、二人の笑顔を見ていると心の奥が温かくなる。
きゅうりの浅漬けをぽりぽり噛む音、味噌汁をすする音、箸の触れ合う軽やかな響き。
食卓に響く音の一つひとつが、東京では遠ざかってしまっていた家族の時間を取り戻してくれるようだった。
沙織は煮物を茶碗によそいながら、胸の奥で小さく呟く。
(……幸せって、こういうことなのかしら)
陽一の笑い声、俊夫の柔らかな表情。それを目に焼き付けながら、沙織は心からそう思ったのだった。




