佐藤沙織 夜明け前の異変
夜明け前の薄闇。
沙織は居間の片隅に腰を下ろし、布団に沈んでいる俊夫を見つめていた。まだ寝息は荒く、布団の上には夜の熱がこもっている。
昨夜は遅くまで宴が続き、村長の家から戻ったのは月が真上を過ぎたあとだった。これでは朝は寝過ごすに違いないと覚悟していたのに――。
「あら……?」
外から人の気配がした。まだ夜も明けきらないというのに、ざわめきが広がっている。
鍬が土を打つ金属音、畝を返す鈍い響き。そこに笑い声まで混じっていた。
沙織は立ち上がり、窓をわずかに開ける。白い川霧が漂うなか、人影が列をなし、闇に溶けるように畑へと歩んでいくのが見えた。
思わず襟を合わせる。昨夜あれほど遅くまで酒を酌み交わしていたのに、どうしてこれほど早く動けるのか。東京では夜遅く働いた翌朝に、村全体が揃って畑に出るなど考えられないことだった。
「起きて……ねぇ、あなた、起きてよ」
布団の脇に戻り、俊夫に声をかける。返事はなく、ただ荒い息だけが布団の下から漏れていた。
――現代の暮らしとは思えない。それでも「こういうものだ」と言い聞かせるしかなかった。
居間へ戻ると、俊夫の隣で陽一は小さな寝息を立てていた。子供の呼吸は規則正しく、夜明け前の静けさに調和している。
問題は俊夫だった。布団に沈み込んだまま、身じろぎもしない。
沙織はしゃがみ込み、肩を軽く揺する。
「俊夫さん、起きて。もう皆、畑に出てるわよ」
この村への移住プログラムで、俊夫は自分の畑を貰う予定になっている。最初の一年は村の農家の手伝いと見習い。技術と知識を身につける期間だった。皆が働き出しているのに、俊夫だけが寝ているなどとんでもないことだった。
「ねぇ!」
身体を布団の上から揺さぶる。
だが、返事はなく、布団の中から荒い呼吸だけが漏れた。
手を伸ばすと、掌にまとわりつくほどの汗。布団までぐっしょり濡れていて、熱気が立ちのぼっている。
「あなた……俊夫さん……?」
額に触れた瞬間、沙織の心臓が跳ねた。火鉢のそばに指を置いたような熱さ。
俊夫がうめき声をあげ、ようやく瞼を開く。
薄暗い明かりの中、その瞳は赤く充血していた。血管が網のように浮かび、白目はにじむように濁っている。昨夜の宴のせい、と笑うにはあまりに異様だった。
「うう……大丈夫。飲みすぎただけだ」
かすれた声。無理に笑みを作ろうとするが、口元の端が震えている。
外からは、早起きの村人たちの笑い声が響いていた。その朗らかさと、目の前の夫の赤い瞳が、どうしても結びつかなかった。
朝靄がまだ濃く、川霧が道を覆っていた。山の端が白み始めただけで、日は昇っていない。
居間に戻ると、俊夫はまだ布団に伏したままだった。夜明け前に汗をびっしょりとかき、目の充血も昨夜より濃い。
「村のお医者さんに診てもらった方がいいんじゃ?」
そう言うと、俊夫は顔をしかめて掠れ声を絞り出した。
「大丈夫だ……飲み過ぎただけだ。そんなことで医者を煩わせたら、笑われる」
「でも――」
「行かん。絶対に」
その頑なさに胸がざわついた。村の目を気にする気持ちは理解できる。だが、この熱は尋常ではない。
「……じゃあ、往診を頼んでくる」
決意して立ち上がると、俊夫は薄く笑った。
「やめろ。俺のことは放っとけ」
「駄目、大人しく寝ててっ!」
二人のやりとりを聞いてか、陽一が目を覚まし起き上がった。
「ううん……どうしたの?」
「お父さんの具合がちょっと悪いからお医者様を呼んでくるわ。陽一はお父さんの様子を見ててね」
「わかった、任せて!」
陽一の頼もしい返事を聞いて、沙織は夜も明けきらぬ薄暗い道を、診療所に向かって駆けだしていた。
川霧がまだ濃く、道の先は白いもやに呑まれている。朝鳥の声がかすかに聞こえるばかりで、人の気配はなかった。男衆はもう畑に出ているのだろう、家々は戸を閉ざし、村は不気味なほど静まり返っている。
胸を押さえながら角を曲がったとき、前方に人影が現れた。大きな盆を抱えた榊千鶴だった。飯の香りが霧に混じり、彼女の足取りは診療所へと向かっている。
「佐藤さん……ですよね? この前越していらっしゃった」
千鶴が驚いたように声を上げる。その声音を聞いて沙織は少し安心する。訛りがない。この人は外から来た人だ。
「榊商店の店員さん?」
「千鶴です。どうしたんです、そんなに血相を変えて」
沙織は息を切らし、必死に言葉を吐き出した。
「夫が……高熱で、目まで真っ赤に充血して……! どうか先生に診てもらえませんか」
千鶴の表情が強張った。だがすぐに沙織の腕を取る。




