林田美穂 月光の下で
清音が一歩、また一歩と近づいてきた。
月光に頬が照らされ、瞳の奥がかすかに揺れた。
そして――吐息のような声が夜に落ちた。
「……美穂……健太……」
小さな呟き。
ただ、美穂の胸を真っ直ぐに貫く、どうしようもなく悲しい響きだった。
清音の言葉が夜気に沈んだ。
美穂は頭を振る。
「……いやよ。もう戻らん。ここまで来たんじゃけん、絶対に!」
健太も声を震わせながら叫んだ。
「清音……僕たちはもう決めたんじゃ。村を出て、街に行くって」
清音の瞳が揺れた。
哀しみの色を帯びて、それでも大きな影を背負っている。
その姿は月光に照らされて、神々しくすらあった。
――巫女?
にくゑ様の……そんな単語が美穂の脳裏をよぎる。
清音は「戻って」とは言わなかった。けれど、その沈黙が二人の前に壁のように立ちはだかった。
「行こう、美穂」
健太が腕を引く。
美穂は迷わず頷き、二人は駆け出した。
《《夜道は》》――《《中央を歩け》》。
掟の言葉が頭をよぎったのは一瞬だった。
前に立つ清音を避けるように、二人は無意識に夜道の端へ追いやられ、草の茂る縁を走っていた。
次の瞬間、胸の奥で熱いものが蠢いた。
美穂は息を呑み、足をもつれさせる。
「……な、に……これ……」
腹の奥がかき回される。血管の内側を何かが這い回り、熱と寒気が同時に襲いかかる。
健太も額を押さえ、苦悶の声をあげた。
「体の……中で……何かが……!」
二人は互いに手を取り合いながら、必死に前へ進もうとした。
けれど、体は言うことを聞かない。内側から裂けるような痛みが、一歩ごとに鋭く突き上げてきた。
背後で、清音の声がした。
「……端を歩いてしまったのね」
責める声ではなかった。ただ、事実を告げるような静けさだった。
続けて、清音が祈りの言葉を紡ぎはじめる。その声は冷徹な響きを帯び、夜の空気を震わせていた。
「ごめんなさい」
その声が落ちた途端、美穂の腹の奥がざわりと揺れた。
胸が詰まり、呼吸が乱れる。膝ががくりと折れ、地面に手をつく。
「な、に……これ……? 体が……熱い……」
喉から勝手に声が漏れる。
健太も隣で顔をゆがめ、肩を震わせていた。
「美穂……僕も……っ、体が……おかしい……」
「嫌……行くんよ……街まで……!」
必死で立ち上がり、健太の腕を引いて駆け出した。
これは、清音がやっているの?
何故、どうして、という疑問も全ては痛みが塗りつぶしてゆく。
けれど足はもつれ、真ん中を歩く余裕もなく道の端へ追いやられる。
草を踏んだ瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
「――ああああッ!」
美穂は地面に転がり、爪で土を掻いた。
隣で健太も地を叩き、苦悶の声をあげている。
「あああ……あ、があああああッ!」
健太の全身が膨れ上がる。その右腕の袖が破れ、三倍ほどの大きさに膨れ上がった二の腕から、ギロリと眼球が生えた。
「ひっ! な、なんなん、これ――」
その時、静かな声が夜を満たした。
清音の声。低く、祈るように、確かな調子で。
「……《《おやすみ》》、《《健太》》」
言葉と同時に健太の身体がビクンと跳ね上がり……動かなくなった。
「健太!? 健太ッ!? 清音! あんた健太になにしたんっ!」
「……」
血を吐くような美穂の叫びは沈黙で迎えられる。
美穂は理由も分からないまま、涙と汗に濡れた顔を上げた。
「清音……どうして……?」
視界が滲み、月の光が揺れる。
清音の姿だけがはっきりと、揺るがずにそこに立っていた。
「健太……っ!」
隣で倒れている健太に、必死に手を伸ばす。
美穂の顔は汗と涙で濡れ、息も荒い。
それでも彼女の指先は健太を探していた。
「健太……わたし、ずっと……ずっと好きじゃった……」
声にならない声。喉の奥が裂けるみたいに痛いのに、それでも伝えずにはいられなかった。
健太は、もう答えない。
半ば異形の姿になった健太は、もう何も答えることはない。
「一緒に……外の世界……見たかったな……」
美穂の手が健太の手に触れる。
と、握る力がふっと弱まった。
次の瞬間、手が美穂の指から滑り落ちる。
胸が引き裂かれるように痛み、涙が滲んで止まらなかった。
そのとき、清音の声が届いた。
「……健太のポケットを……見てあげて」
美穂は戸惑いながらも、思うようにならない身体を引きずり、震える手で彼の懐に触れた。




