林田美穂 逃げ場はない
月光に照らされたその横顔は、どこか晴れやかだった。けれど眉根にはかすかな心配の影も宿っていた。
「街に行っても、きっとまた帰ってくるよね。その時、話を聞かせて」
美穂は唇を噛んだあと、深くうなずいた。
「梓ちゃん……ありがと」
健太も頷き、ここまで来てくれて助かったと短く言った。
三人は一瞬だけ笑顔を交わす。
橋の上に広がる夜の風が、その笑みを静かにさらっていった。
振り返ると梓が小さく手を振っている。
ほんの数週間、一ヶ月あまりの短い付き合いだったけど、いい友達だった、と美穂は胸の中に暖かなものを感じた。
その暖かさを頼りに、夜の橋を歩き出す。
梓が闇に溶けて見えなくなると、橋の上には美穂と健太だけが残された。
夜風が川底から吹き上げ、二人の衣を揺らす。谷を渡る音に包まれながら、美穂は健太の手を強く握った。
「……ほんとに、僕ら二人きりになったんじゃな」
健太の声は小さく震えていた。
「そうよ」
美穂は微笑み、握った手にさらに力を込めた。
「でも二人なら、どこへだって行ける。ここまで来れたんじゃけん、街までだってきっと」
胸の奥に積み重なってきた日々が一気にあふれてきた。
母のいない健太の世話をし、弁当をつくり、熱を出せば雑炊を運んだ。
遠足で泣きそうになった時、ためらいもなく自分の荷物を半分背負った。
健太が笑った顔、泣いた顔、必死に前を見ようとする顔。全部をずっと見てきた。
「健太……あんたのことは、わたしが支えてきた。母さんがいない分、わたしがって、ずっと思っとった」
声が震え、目に熱いものが込み上げる。
健太は下を向いたまま、懐を押さえた。
「美穂……」
言葉はそこで途切れた。布の奥に隠された何かを握るように、指が懐を強く押さえていた。
美穂はその仕草に気づいていた。けれど、問いただす代わりに未来を口にした。
「街に出たら、大きな病院がある。健太の目も……きっと診てもらえる。絶対、治せるはずじゃ」
健太の瞳がかすかに揺れた。暗闇の底に、かすかな光が差すように。
「……ほんとに、治るじゃろうか」
「治るよ。だって、まだ若いんじゃけん」
迷いなく言い切ると、胸が張り裂けそうなほどの願いがそのまま声になった。
健太は目を閉じ、唇を噛み、やがて頷いた。
「……ああ。一緒に、外の世界を見に行こう」
美穂は涙をこらえながら笑った。
二人は橋を渡りきり、外の世界へと続く細い道へ足を踏み出す。
橋を渡り切ると、道は再び森の中へと続いていた。
風で雲が流れ、月が顔を隠す。辺りは真の暗闇に包まれ、二人はお互いの顔も見えない中、道を進んでゆく。
街へ向かう一本道――そのはずなのに、歩を進めるたびに足が重くなっていく。
「……美穂、なんか……」
健太の声が途切れる。
美穂も同じだった。膝から下に鉛を括りつけられたように、次の一歩が出ない。
「どうして……? 疲れたんじゃろうか」
額に汗がにじむ。息が上がり、胸の奥で心臓がきしんだ。
まるで体そのものが村から離れるのを拒んでいるみたいだった。
二人はついに立ち止まり、互いに顔を見合わせた。
「……進めん」
「わたしも」
恐怖よりも先に戸惑いが込み上げる。
街へ向かおうとする心は確かにあるのに、体が言うことを聞かない。
どくん、どくんと心臓が大きく早鐘を打つ。
おかしい、何か変だ!
美穂が感じたその瞬間。
風に、白檀に似た香りが混じっていた。
――風が止んだ。背後の谷底から吹き上げていた風が、ピタリと止む。
突然の静寂に、美穂は立ち止まった。虫の音も、川の音も、すべてが消えたような錯覚。
風が吹き、雲から月が顔を出す。
月光に照らされ、一本道の先――何もなかったはずの闇の中に、人影が浮かび上がった。
美穂は思わず息を呑んだ。
まるで闇から生まれ出たように、清音がそこに立っていた。
白い襟のセーラー服が月光に浮かび、まっすぐに伸びた黒髪が夜風にも揺れない。
瞳の奥に、底知れない深さを湛えて二人を見つめる。
「……清音?」
思わず名を呼ぶ。声が震えているのが自分でもわかった。
どうしてここに。
村の男衆はみな村長の家の宴にいるはず。女たちも家にいるはず。
それなのに、まるで最初からここで待っていたように、彼女は立っている。
待ち伏せされていた? そんな筈はない。梓は清音と話していたといっていた。
追い越してきたなら必ずすれ違う。
うなじの毛が逆立つのを感じて、美穂は健太の袖を掴んだ。
逃げ場はない。村長の娘である清音が二人を見逃すはずがない。村に戻るしかないのか?




