林田美穂 夜道の別れ
梓の声が静けさを破った。
梓こそ、こんな時間に何故、と問うと清音に夜の村を案内してもらっていたのだという。
この場に清音がいなくて良かった。村長の娘である清音がいれば、きっと引き留められる。
美穂は自分たちの幸運に感謝しつつ、鞄の紐を強く握った。
「私たち、もう我慢できんの。今夜、村を出る」
梓は息を呑み、それから小さくうなずいた。
「美穂ちゃんと健太くんがそう決めたなら……きっと止められないよね。私で良ければ、村の外れまで見送らせて」
「そんな……夜じゃのに」
「二人とも、とても仲良くしてくれた友達だもん。せめて見送らせて」
その真剣な瞳に、美穂は胸が熱くなり、深くうなずいた。
「……ありがと」
あゆみは唇を噛み、視線を落としたまま呟く。
「……心配じゃけぇ。私も行く」
その声音は小さく、けれど美穂には微かな躊躇いが感じられた。仕方なさを取り繕うような響き。
健太はちらりとあゆみを見たが、頬を赤らめることもなく、淡々と視線を逸らした。
――どうして。
美穂の胸に小さな疑問が灯る。かつてなら、あゆみの名を口にするだけで顔を赤らめていたはずなのに。いつから健太の瞳は、こんなにも諦めたような色を宿すようになったのだろう。
宴の声は遠ざかり、虫の音と川のせせらぎが濃さを増す。
月は高く、道の白い石を淡く照らしていた。
美穂は鞄の紐を握りしめ、歩みをそろえる。隣の健太の手がほんの少し触れ、熱が伝わった。
――行こう。ここを抜けて、街へ。
胸の奥で、希望と不安がせめぎ合いながら燃えていた。
夜道は、昼間よりも狭く感じられた。木々が闇を深く落とし、四人の足音だけが土を叩いて響いていた。
「やっぱり、夜は怖いね……」
梓が声を潜める。
「あんたは気にしすぎなんよ」
あゆみがすぐさま笑った。
「今晩は月が出とるけぇ、真っ暗よりずっと歩きやすいじゃろ」
「でも、木の影が揺れると……人が立っとるみたいに見える」
「はは、梓ちゃんらしいわ。清音と歩く時は怖がらんくせに」
からかうような調子に、美穂と健太は思わず吹き出した。
怖さを紛らわすように、四人は次々と口を開いては笑い合った。
月の光が頭上から降り注ぎ、夜道をやわらかく照らしている。暗闇に呑まれそうになるたび、光を見上げると少し安心できた。
やがて、道の先に石碑が浮かび上がった。苔むした石肌に月光がかかり、境界を告げる文字がかすかに光る。
「……着いたんじゃね」
健太が立ち止まった。
美穂は無意識に息を呑む。ここを越えれば、もう村の守りはない。
その時、あゆみが口を開いた。
「……わたしは、ここまでにするわ」
「え……?」
梓が驚いて振り向く。
「あんたらはよう行きんさい。でも私は、やっぱり村から離れすぎるのは……」
あゆみの目が一瞬だけ、石碑の向こうの闇を見つめた。まるで何かを恐れるように。その表情に、美穂は違和感を覚えた。
「嫌なんよ。母さんも心配するじゃろうし」
強がるように笑ったあゆみの声には、わずかな震えが混じっていた。
「ここまで一緒に来てくれて、ありがと」
美穂は素直に頭を下げる。
健太も助かったと礼を言う。
あゆみは三人に背を向け、月光の中を振り返りもせずに歩き出した。けれど美穂には見えた。あゆみの足音が妙に急いていることに。まるで何かから逃げるように。
影が闇に溶けるまで、美穂は目で追い続けた。
「……じゃあ、ここからは三人で」
梓がかすかに笑みを浮かべ、歩を進める。
石碑を越えた夜道は、月に照らされてなお深い闇を抱えていた。
木々が途切れ、谷の口がひらけた。
月光を受けて、長い吊り橋が川を跨いでいる。鉄骨は錆び、ワイヤーは夜風に唸り声をあげていた。
「……ここを渡れば、村の外じゃね」
健太が息を呑む。
橋はバスも通れる幅があったが、欄干の板はところどころ欠けている。車輪の跡が土埃に刻まれ、つい先日も誰かが渡った気配が残っていた。
「すごい……高い谷」
梓は下を覗き込み、慌てて顔を引っ込める。月明かりの下で川の流れが白く泡立ち、轟く音が足元を震わせた。
美穂は橋を見つめ、胸を張った。
「ここを渡れば、もう街へ続く。行こう、健太」
「うん」
「梓ちゃんはもうお帰り」
「え?」
意外そうな表情を浮かべ、梓は二人を見る。
「この先は、森を抜ける道じゃし、危ないけんね」
「でも、それならなおさら」
「ふふ、もう十分じゃけん。ね、健太」
「ああ、ありがとな!」
健太も笑みを浮かべ、梓に軽く手を振った。
「……うん、わかった。それじゃ、ここで見送るね」




