出会い 参
村長の家を出て、梓は清音の案内で坂道を上っていく。たどり着いたのは、母の実家だったという小さな平屋。
「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」
清音がそう言って、玄関の戸を開けた。畳の匂いが鼻を打つ。
瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。
梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。
「……あれ、扉に鍵がないですね?」
「ふふ、小さな村じゃけん、どこも開けっぱなしやね」
清音が小さく笑う。思わず赤くなりながら、梓は考える。母の故郷は、不便かもしれないけれど、安心できる場所みたいだ。
流し台の前に立つと、清音が蛇口をひねってくれた。
「……居間で少し待って」
小さなちゃぶ台と座卓。清音がお湯を注ぐと、真新しいお茶の良い香りが立ちのぼった。
程なくして清音が盆にのせて、急須と湯飲みを二つ持ってきた。
「お茶、入った」
「あ、ありがとう、虚木さん」
「清音、でええよ?」
「……清音さん」
「清音」
「……清音」
頬を染めながら梓が呼ぶと、清音は我が意を得たりと笑みを深める。
「はい、どうぞ。長旅お疲れやったね」
湯のみを渡してもらう時、二人の指先がほんの少し触れ合う。
「――あ」
思わず声が出る。ひやりとした感触が、熱い湯気よりも強く梓の皮膚に残った。お互い何も言わず、清音は少しだけ微笑み、目を伏せて手を離す。
そのしぐさ一つで、梓の心臓がまたどくんと跳ね上がる。
居間の窓を開けると風が吹きこんで、薄いカーテンが大きくふくらんだ。外には畑が広がっていて、その向こうに山が何重にも緑を重ねている。
夕日が差しこんで、畳の上に長い影を落とす。とても美しい光景のはずなのに、なぜかさびしく見える。
お茶を飲み終わると、清音はすっと立ち上がった。
「今日は、これで」
梓は振り返って、深々と頭を下げた。
「あ、ありがとう」
清音は何も言わず、ただこくりと頷いた。その横顔は夕暮れの光にほんのり照らされている。
戸を閉める直前、清音の唇がかすかに動いた。
「好いたらしい子やね」
それが梓に聞こえたのか聞こえなかったのか――。
静かな足音が遠ざかって、家の中には梓一人きりが残される。
好き? 私のことが?
清音の残した言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
やがて、足音が遠ざかり、梓一人きりが、この家に残された。母が生まれ育った家で迎える、最初の夜だった。




