佐藤沙織 静かな盆地
沙織は思わず声を漏らした。東京では見たことのない景色だった。灰色のビルの狭間で押しつぶされていた毎日とは正反対の、広く澄んだ光景。山々に囲まれた盆地に、まるで時が止まったかのような静寂と美しさ。遠くには雲がかかった峰々が連なり、近くの斜面には野草が風に揺れている。
ここから、新しい生活が始まる。
村の入り口にさしかかると、軽トラの音に気づいたのか、道端に大勢の人々が並んでいた。老人も中年も、揃ってこちらに顔を向けている。
「よう来なさったなあ!」
「よくおいでくださいました」
声が次々に飛び、笑顔が一斉に広がる。
「すごい歓迎じゃないか! こりゃあ気合いが入るな!」
俊夫が驚きつつも声を弾ませた。
「こ、こんにちは……」
陽一もはにかみながら小さな声で返事を返す。
見知らぬ土地、見知らぬ人々。それでも――いや、だからこそ、こんなにも歓迎してもらえることが嬉しかった。東京では誰も自分たちを気にかけてくれなかった。隣人の顔すら知らないアパートで、家族三人だけが寄り添って生きてきた。
この村でなら、私たちはきっと上手くやっていける。沙織ははしゃぐ陽一と俊夫を見ながら、久しぶりに心の底から笑みを浮かべていた。
新しい家の前に軽トラックを着けると、すでに何人もの村人が待っていた。
「おいでなったなあ、よう来んさった」
「さあさあ、荷物はわしらが手伝うけぇ」
声が重なり、次々と腕が伸びてくる。
段ボールや家具を軽々と抱えていく逞しい背中。老婆までが小物を抱えて笑顔を見せる。
「こんなに……ありがとうございます!」
沙織が頭を下げると、口々に「ええんよ、仲間じゃけぇ」「これから一緒にやっていくんじゃ」と返ってきた。
荷下ろしがひと段落すると、年配の男が声をかけてきた。
「今日は引っ越しでたいぎかったろう。村長さんが食事を用意してくださっとるけぇ、皆で行きんさい」
「そんな……ご迷惑じゃないですか」
沙織が戸惑うと、
「何を言いんさる。新しい仲間を迎えるんは村の喜びじゃけぇな」
柔らかな方言に包まれ、胸の奥に温かさが広がるのを感じていた。
村長の屋敷に案内され、広い座敷に通されると、正面に村長本人が座っていた。
虚木清一は、前に見学で訪れたときと同じ作業着姿だった。色あせた上着に土のついたズボン。肩書きに飾られた人ではなく、畑に立つひとりの人間。その姿に、沙織は改めて好感を覚える。
「よう来なさった。これからは仲間じゃ。ここでよう暮らしてくだされ」
日に焼けた顔に穏やかな笑みを浮かべる村長の声は、落ち着きと力強さをあわせ持っていた。
この人がいるなら、大丈夫かもしれない。
沙織は胸の奥でそう思った。
広間にはすでに料理が所狭しと並んでいた。
籠盛りの山菜、味噌で和えたゼンマイやワラビ。香ばしく焼かれたヤマメが大皿に積まれ、皮はぱりりと光り、腹の白身がほろりとこぼれていた。
大鍋からは湯気を立てる芋煮汁の匂い。小鉢には胡麻和えや漬物。土の匂いを含んだ野菜の甘さが、そのまま味になっている。
「さあ、よう食べんさい。今日は特別に、手間ぇかけとるんじゃ」
「これは川で獲れたばっかりのヤマメじゃけぇ、骨ごといけるで」
「うちの畑の芋でこしらえた煮物じゃ。やわらこう煮えてるじゃろう」
村人たちが次々と勧めてくる。
「すごいな……ありがとうございます!」
俊夫が箸を伸ばし、豪快に白身を頬張って「うまい!」と声を上げる。
「ほんによう食べなさる。ええこっちゃ」
笑い声が座敷に広がる。誰も彼もが同じ笑顔を三度ずつ浮かべるのが、少し気になった。
陽一も最初は緊張して母の袖をつかんでいたが、山菜の煮物を一口食べると顔がぱっと明るくなった。
「おいしい!」
その声に、村の老婆が目を細めた。
「まあ、よう食べんさるのう。元気にならっしゃい」
頭を撫でられて、陽一が照れ笑いをする。
沙織は胸が熱くなった。
東京では咳き込み、給食も残しがちだったこの子が、今はこんなに楽しそうに食べている。小さな口が一生懸命に動き、目を細めて味わっている姿。それがたまらなく愛おしくて、涙がこみ上げそうになった。
やっぱり来てよかった。ここでなら、この子は元気に育つ。
そう確信すると、頬が自然と緩んでいた。
引っ越しの片づけが一段落したら、歓迎の宴まで開いてくれると聞き、俊夫は目を丸くしていた。
もっとも、その宴は男衆だけのものだと聞き、沙織は少し複雑な気持ちになっていたのだが。




