吉川直樹 村長宅にて
夜、吉川は村長宅を訪ねた。胸の内で、前任者のカルテの最後のページが燃えている。
虚木清一は穏やかな笑みを浮かべて迎えた。だが、その笑みの奥に氷のような冷たさが潜んでいる。
「先生、どうなさったんじゃ」
「単刀直入に聞きます。村の者に配っているあの赤黒い液は何ですか」
清一の笑みが、一瞬だけ凍りついた。
「山の恵みを煮詰めたものじゃが」
「嘘をおっしゃい」
吉川の声は低く、怒りを帯びていた。
「前任者のカルテを読みました。二十年前から同じことが繰り返されている。子どもたちに正体不明の液体を飲ませ、異常な症状を引き起こす」
「異常な症状とは、何のことじゃ?」
清一は茶を一口含んだ。その仕草があまりにも余裕に満ちていて、吉川の怒りが燃え上がる。
「梓さんの幻聴、榊さんの急速な回復もそうなんでしょう……医学では説明のつかない症状です」
「医学で説明がつかんからといって、害があるとは限らんじゃろう」
「害がない? 前任者は発狂寸前まで追い詰められていた。そして、忽然と姿を消した」
「それは……そうじゃな」
清一の目が、ぎらりと光った。
「あなた方が何かしたのですか?」
静寂が落ちた。清一の目が、獲物を見据える獣のように変わる。
「先生、あんたは都会で居場所を失うた身じゃったろう。ここでも同じことになりたいんか?」
「何故それを……」
「村においでになる先生の履歴くらいは調べるのが当然じゃろう。カルテ改竄の件も含めてな」
清一の声は穏やかだったが、その内容は氷のように冷たい。
吉川の喉が渇いた。自分の過去を、この村長が知っている。
それは明確な脅しだった。だが、吉川は一歩も引かなかった。むしろ一歩前に進み出る。
「私は医師です。患者を守るのが使命だ」
「この村では、わしたちのやり方で皆が幸せに暮らしちょるんじゃ」
「幸せ? 子どもたちを薬漬けにして?」
「薬漬けとは心外じゃな。あれは村に馴染むための……儀式じゃよ」
「儀式?」
吉川は立ち上がった。
「前任者のカルテには、最後にこう書いてありました。『もう人間として耐えられない』と。この村で一体何が行われているんですか」
清一も立ち上がった。穏やかだった表情が、底知れない深淵を覗かせる。
「先生。あなたも〈笑顔で〉お過ごしくださいな。それが掟じゃ」
その言葉には、明確な殺意が込められていた。
吉川は背筋を伸ばし、清一を見据えた。
「私は事実を記録します。どんな圧力があろうとも」
「そうですかな……」
清一の笑みが戻ったが、その奥に底知れない暗闇が口を開けていた。
「では、ごゆっくりお考えくださいな。ただし、前任者の二の舞にならんよう、お気をつけなされ」
吉川は振り返ることなく、村長宅を後にした。夕闇が濃くなった村の道を歩きながら、前任者の最後の記録が頭の中で響いている。
『もう逃げなければならない』
果たして、逃げることができるのだろうか。そして、逃げずに戦うことはできるのだろうか。
診療所に戻った吉川は、机に向かってペンを取った。今日の出来事を記録に残さなければならない。前任者のように、狂気に飲み込まれる前に。
しかし、ペンを握る手が震えているのを、吉川は気づかなかった。
§ § §
【筆者後書き】
健太くんと美穂ちゃんの不安、そして吉川くんの決意。
二つの視点を並べて書いてみました。
村長さんの穏やかさの裏側を書くのは、少し怖かったです。
笑顔のまま脅す、というのが一番恐ろしい気がして。
吉川くんの意地、ここからどうなるでしょうか。




