吉川直樹 赤黒い液体
日が傾き、夜の気配が診療所に忍び込んできた頃、入口の戸が軽やかに開いた。お裾分けの野菜を持った千鶴が顔を出す。
「先生、お疲れ様です。今日は大根が安くて……」
千鶴の言葉が途切れた。吉川の顔を見て、眉をひそめる。
「どうなさいました? 真っ青ですよ」
「千鶴さん、前の医者のことで」
吉川はカルテを手に取った。千鶴の目が、一瞬だけ鋭く光る。
「ですから、ずっといなかったっていいませんでしたっけ?」
千鶴の首のかしげ方が、まるで演技のように見えた。
「ええ、このカルテには昭和五十八年の記録があります。二十年ほど前のことですよ」
「二十年間も前?」
千鶴は驚いたような顔をした。だが、その驚きは表面だけのもののように思えた。
「でも、誰も何も言いませんけど……」
「前任者のことは何か?」
「いえ、そんな昔のことは……ただ『いつの間にかいなくなった』って、そう言われてました」
曖昧な答えが返ってくる。まるで記憶に霧がかかったように。
「最近、子どもの患者が少なくないですか?」
「そうでしょうか。みんな元気そうですけど……ああ、そういえば」
千鶴は何かを思い出したように言った。
「村長さんのお宅で、健康に良い飲み物を分けていると聞きました。山の恵みを煮詰めたものだそうです」
「健康飲料……ですか」
吉川の喉が渇いた。前任者の記録にあった「赤い液体」のことだろうか。
「ええ。それで子どもたちも元気になってるのかもしれませんね」
千鶴は何の疑いもなく微笑んだ。三回。その笑い方が、村の他の人間と全く同じだったからだ。吉川の背筋に悪寒が走る。
§ § §
千鶴が帰って間もなく、戸を叩く音がした。
「失礼します」
恐る恐る、といった風に梓が入って来る。学校帰りなのだろう、制服のままだ。顔色は良いが、瞳の奥に不安が宿っている。
「どうしました、梓さん」
「あの……相談があって」
梓は胸ポケットから小瓶を取り出し、机の上に置いた。赤とも黒ともつかぬ濃い液体が、瓶の中でゆらりと揺れている。
「これを、清音からいただいたんです」
吉川の心臓が跳ね上がった。前任者のカルテにあった「赤い液体」。まさに、これだ。瓶を手に取ると、瓶にこびりついている液体がどろりと動く。まるで生きているかのように。
「体調を崩していたら、清音が心配して……でも、飲んでから変なんです」
「変といいますと?」
「胸がざわざわして。それに、夜中に水音が聞こえるんです。家の中にいるのに」
梓の声が震えている。
「この薬について、何か説明は?」
「山の恵みを煮詰めたものだって。とっても甘くって……でも、何だか変な感じがして……」
梓の目に恐怖が宿っている。吉川は瓶を光にかざした。粘り気を帯びた液体が不気味に光った。
「検査してみましょう。成分がわかれば……」
空の瓶だ。付着した液体だけでは限界がある。だが、懇意にしている研究施設に送れば、何かわかるかもしれない。
その時、入口の戸が勢いよく開かれた。
「先生! お願いします!」
美穂が息を切らして駆け込んできた。その顔は青ざめ、瞳に恐怖が宿っている。後ろから健太がよろめくように続く。
「健太が……文字が読めんって言うとよ」
「落ち着いて。こちらに座って」
吉川は診察台を指し示した。梓も立ち上がる。
「昨日までは普通じゃったのに、今朝から急に……本も、ノートの字も、全部黒い線にしか見えんって言うとよ」
美穂の声が上ずっている。必死さが痛いほど伝わってくる。
吉川は健太を診察した。瞳孔の反応は正常、眼底にも異常はない。だが、視力表を見せても健太は首を振るばかりだ。特に原因は思いあたらないそうだ。
「これが見えますか?」
吉川は紙に「あいうえお」と書いた。健太は首を振る。
「ただの線にしか……見えんとよ。いや、あ、だけ読める」
一文字だけ認識できる? それはおかしい、理屈に合わない。吉川は脳内の症例を総閲覧する。専門は外科医だが独立する時のために、一通りのことは学んでいる。
その時、美穂が思いついたように立ち上がった。
「待って」
美穂は自分のノートを取り出し、鉛筆で一つの単語を書いた。
「あゆみ」
「これは?」
健太の目が一瞬で輝いた。
「読める……これだけ、はっきりと見えよる」
吉川の血の気が引いた。ありえない!?
選択的文字失読。医学では説明のつかない症状だ。しかも、特定の文字だけが読める……精神的なものか? ならば説明がつかないこともない。だが――。
「訳がわからない。あり得るとしたら精神的なものだと思うが……」
「もしかしたら、薬を飲めば治るかもしれん」
美穂が思案深げに呟く。そしてその言葉を吉川は聞き逃さなかった。
「薬?」
「そうね、村長さんが時々くれるんよ」
「君も、その薬を飲んだことが?」
健太は弱々しく頷いた。
「みんな……飲まされるんじゃ。元気になるって言われて」
前任者のカルテの記録が脳裏に蘇る。子どもたちの異変。原因不明の症状。そして「赤い液体」。
だが、そんな万能薬が存在するのだろうか?
存在するとして、それは一体どんな薬理で効果を及ぼす?
吉川の拳が震えた。すべてが繋がっていく。前任者の狂気じみた記録が、梓の持参した瓶が。この村で何が行われているのか。
「今日はもう帰りなさい。しばらく安静にして、明日も同じならまた診せに来ること。いいね、健太君」
健太は弱々しく頷いた。隣で支える美穂も、緊張で肩をこわばらせたままだった。
「……ねえ、健太くん」
梓は声を掛けかけて、唇を結んだ。何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。
三人は互いに視線を交わしながら、足早に診療所を後にした。
残された静けさの中で、赤黒い液体が照明を受け、鈍い光を返していた。




