表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【にくゑ】ある田舎の村が焼失するまでの全記録。【禁断の因習村百合ホラー】  作者: カクナノゾム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/26

帰郷

 矢野梓は十七歳になったばかりの高校生だ。

 黒いカーディガンに紺のスカート。地味な格好は、まだ葬式の名残だった。



 § § §



 虚木村に向かうバス揺られながら、梓は東京での暮らしを思い出していた。


 ――母親と二人暮らし。

 夜になると古い団地の一室は静かだった。


「おかえり」


 母親の弓子の声は柔らかい。年齢の割には若々しく、整った容姿をしていた。だが、病魔に侵された頬は痩せこけ、瞳にはどこか寂しげな光が宿っている。


「今日、どうだった?」


 弓子が尋ねる。


「ふつう」

「そっか」


 食卓の上に、白い湯気が立つ。

 質素だが温かい食卓。


「……ねえ」


 突然、母が言う。


「ごめんね」

「なにが?」

「ううん。ごめんね」


「お母さん、私にちゃんと話して。何を謝ってるの? 私、お母さんのこと何も知らない」


 母は困ったように微笑む。


「梓が大きくなったら、きっと」

「いつ? いつになったら話してくれるの?」


 母は答えず「ごめんね」を繰り返した。

 梓は大根を口に運ぶ。「薄い味」と思いながら、実際にはちょうどいい塩梅だった。舌に遅れて、胸がじわりと温かくなる。


 弓子はよく咳をした。透明な咳が響く。


「病院、行こう?」

「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

「でも」

「梓が心配するほどじゃないの……それに病院じゃきっと治らない」


 笑顔の奥に何があるのか、梓は知らない。

 団地の部屋は二部屋。

 リビング兼母親の弓子の部屋と、梓の部屋だ。


 机の引き出しから、角の丸くなった古い文庫本を取り出す。

 神田の古本市で母が買ってくれた本。

 『七瀬再び』。心が読める超能力者の女性が主人公の古いSF小説。


 紙の匂い。ページの縁のざらざら。

 七瀬は人の心が読める。読めてしまうがゆえに、居場所を失う。梓はページの七瀬に自分の輪郭を重ねた。


「自分は人の輪に入れない」


 母譲りの人並み外れた美貌を持つ梓は、逆に人付き合いが苦手だった。


 ある晩、弓子が部屋のドアをそっと開けた。


「もう寝なさい」

「うん」


 母は本を見た。


「好きなの?」

「うん」

「古いお話が好きなのね」

「だってお母さんが好きだった本だし。それに主人公がね、居場所のない感じが……」


 私に似てるの、と続けると母は悲しげに微笑んだ。


「梓もそう思うことがあるの?」

「……うん」


 沈黙。ページの音だけが、二人の間を行き来する。


「……でも、もう帰れない。帰りたくない」

「お母さん?」


「梓に、ずっと言えないことがあるの」


 梓は顔を上げた。


「なに?」

「ごめんね」


 また、それだった。


「いつか、話せたらいいな」

「うん」


 季節がひとつ過ぎたころ、母の咳は深くなった。

 朝、母の背中がひとまわり小さく見える。


「病院、行こう」

「うん……」


 今度は拒まれなかった。診察の後、スケジュール表を手渡され、梓は日付を見つめた。


 通院の日、帰りのバスの中で母は窓の外を見ていた。


「桜、遅いね」

「うん」

「今年は見られるかな」

「見られるよ」


 根拠はなかったが、言葉は灯りになった。

 そんな生活が数年続いた。

 弓子は故郷には決して戻ろうとしなかった。


 ――高校に入っても友だちをつくることもできず、梓は本と母親だけを会話の相手としていた。


 しかし、そんな生活も悪くはなかった。

 中学の時のあの悪意。あれに比べれば孤独の方がずっといい。


 そしてその夜も、母は布団の上で呼吸を整えようとしていた。

 梓は濡れタオルで額を拭きながら、何度も水を替えた。


「苦しい?」

「大丈夫」

「梓」

「うん」

「ごめんね」

「なにが?」

「ほんとに、ごめんね」


「……ありがとう」


 最後にそう言って、静かに目を閉じた。

 梓は何も言えなかった。


 告別式の日、黒い服が部屋を満たした。

 「若いのに、ねえ」「気の毒に」「いい人だった」

 花の海に沈む母の顔は眠る人の顔だった。梓は指先で、棺の縁をそっと撫でた。木の手触りは固く、温度のない優しさがあった。


「……ごめんね」


 声に出す。梓は胸の奥が縮むのを感じた。


「……これで本当にひとり」


 何日かして、梓は一人になった部屋の真ん中に座っていた。

 テーブルの上に、母の遺したものが段ボールに積んである。


 梓はひとつひとつに触れ、匂いを嗅いだ。

 そこにあった古い日記。

 母が東京に出てからつけたものだった。


 そこに記されていた、母の故郷。銀行の口座には、毎月その村の男性から振り込みがあった。


 虚木義隆。前の村長で、母はこの人の家で働いていたらしい。母の死を告げると、義隆は老いた声ですすり泣いていた。


 その後、村長の清一から手紙がきた。義隆は亡くなったと。村への移住を勧めていた。母の実家の古い家が残っている。成人するまでの生活費は村で持とう、と。


 梓は母の日記を読み返した。


「もう二度と村へは帰らない」


 日記の表紙には「8」とだけ書かれていた。一から七は、どこにもない。きっと、あの村に残してきたのだろう。


 ――なぜ?


 答えは、きっと村にある。

 母親が出奔した何かが。そして帰らないと誓った何かが。


 机の引き出しから文庫本を取り出す。『七瀬再び』

 灯りの下でページを開く。

 七瀬は逃げる。追われる。嘲られる。それでも彼女は歩く。


「わたしも」


 梓は小さな声で言った。


「わたしも、歩かなきゃ」


 そして彼女は歩き出す。

 これは彼女と彼女たちの物語。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ