帰郷
矢野梓は十七歳になったばかりの高校生だ。
黒いカーディガンに紺のスカート。地味な格好は、まだ葬式の名残だった。
§ § §
虚木村に向かうバス揺られながら、梓は東京での暮らしを思い出していた。
――母親と二人暮らし。
夜になると古い団地の一室は静かだった。
「おかえり」
母親の弓子の声は柔らかい。年齢の割には若々しく、整った容姿をしていた。だが、病魔に侵された頬は痩せこけ、瞳にはどこか寂しげな光が宿っている。
「今日、どうだった?」
弓子が尋ねる。
「ふつう」
「そっか」
食卓の上に、白い湯気が立つ。
質素だが温かい食卓。
「……ねえ」
突然、母が言う。
「ごめんね」
「なにが?」
「ううん。ごめんね」
「お母さん、私にちゃんと話して。何を謝ってるの? 私、お母さんのこと何も知らない」
母は困ったように微笑む。
「梓が大きくなったら、きっと」
「いつ? いつになったら話してくれるの?」
母は答えず「ごめんね」を繰り返した。
梓は大根を口に運ぶ。「薄い味」と思いながら、実際にはちょうどいい塩梅だった。舌に遅れて、胸がじわりと温かくなる。
弓子はよく咳をした。透明な咳が響く。
「病院、行こう?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「でも」
「梓が心配するほどじゃないの……それに病院じゃきっと治らない」
笑顔の奥に何があるのか、梓は知らない。
団地の部屋は二部屋。
リビング兼母親の弓子の部屋と、梓の部屋だ。
机の引き出しから、角の丸くなった古い文庫本を取り出す。
神田の古本市で母が買ってくれた本。
『七瀬再び』。心が読める超能力者の女性が主人公の古いSF小説。
紙の匂い。ページの縁のざらざら。
七瀬は人の心が読める。読めてしまうがゆえに、居場所を失う。梓はページの七瀬に自分の輪郭を重ねた。
「自分は人の輪に入れない」
母譲りの人並み外れた美貌を持つ梓は、逆に人付き合いが苦手だった。
ある晩、弓子が部屋のドアをそっと開けた。
「もう寝なさい」
「うん」
母は本を見た。
「好きなの?」
「うん」
「古いお話が好きなのね」
「だってお母さんが好きだった本だし。それに主人公がね、居場所のない感じが……」
私に似てるの、と続けると母は悲しげに微笑んだ。
「梓もそう思うことがあるの?」
「……うん」
沈黙。ページの音だけが、二人の間を行き来する。
「……でも、もう帰れない。帰りたくない」
「お母さん?」
「梓に、ずっと言えないことがあるの」
梓は顔を上げた。
「なに?」
「ごめんね」
また、それだった。
「いつか、話せたらいいな」
「うん」
季節がひとつ過ぎたころ、母の咳は深くなった。
朝、母の背中がひとまわり小さく見える。
「病院、行こう」
「うん……」
今度は拒まれなかった。診察の後、スケジュール表を手渡され、梓は日付を見つめた。
通院の日、帰りのバスの中で母は窓の外を見ていた。
「桜、遅いね」
「うん」
「今年は見られるかな」
「見られるよ」
根拠はなかったが、言葉は灯りになった。
そんな生活が数年続いた。
弓子は故郷には決して戻ろうとしなかった。
――高校に入っても友だちをつくることもできず、梓は本と母親だけを会話の相手としていた。
しかし、そんな生活も悪くはなかった。
中学の時のあの悪意。あれに比べれば孤独の方がずっといい。
そしてその夜も、母は布団の上で呼吸を整えようとしていた。
梓は濡れタオルで額を拭きながら、何度も水を替えた。
「苦しい?」
「大丈夫」
「梓」
「うん」
「ごめんね」
「なにが?」
「ほんとに、ごめんね」
「……ありがとう」
最後にそう言って、静かに目を閉じた。
梓は何も言えなかった。
告別式の日、黒い服が部屋を満たした。
「若いのに、ねえ」「気の毒に」「いい人だった」
花の海に沈む母の顔は眠る人の顔だった。梓は指先で、棺の縁をそっと撫でた。木の手触りは固く、温度のない優しさがあった。
「……ごめんね」
声に出す。梓は胸の奥が縮むのを感じた。
「……これで本当にひとり」
何日かして、梓は一人になった部屋の真ん中に座っていた。
テーブルの上に、母の遺したものが段ボールに積んである。
梓はひとつひとつに触れ、匂いを嗅いだ。
そこにあった古い日記。
母が東京に出てからつけたものだった。
そこに記されていた、母の故郷。銀行の口座には、毎月その村の男性から振り込みがあった。
虚木義隆。前の村長で、母はこの人の家で働いていたらしい。母の死を告げると、義隆は老いた声ですすり泣いていた。
その後、村長の清一から手紙がきた。義隆は亡くなったと。村への移住を勧めていた。母の実家の古い家が残っている。成人するまでの生活費は村で持とう、と。
梓は母の日記を読み返した。
「もう二度と村へは帰らない」
日記の表紙には「8」とだけ書かれていた。一から七は、どこにもない。きっと、あの村に残してきたのだろう。
――なぜ?
答えは、きっと村にある。
母親が出奔した何かが。そして帰らないと誓った何かが。
机の引き出しから文庫本を取り出す。『七瀬再び』
灯りの下でページを開く。
七瀬は逃げる。追われる。嘲られる。それでも彼女は歩く。
「わたしも」
梓は小さな声で言った。
「わたしも、歩かなきゃ」
そして彼女は歩き出す。
これは彼女と彼女たちの物語。




