村の日々 壱
診療所を出ると、学校へ向かう道すがら、次々と声をかけられた。
「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」八百屋の前に立つおばあさんが手を振る。
「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」
雑貨店の店主が顔を出す。
「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」
通りがかりの女性が籠を抱えたまま立ち止まる。
一人、また一人と声をかけてくる村人たち。みんな笑顔で、親切で、梓のことを本当に気にかけてくれている。その温かさは確かで、嘘ではなかった。
だからこそ、胸の奥に小さなざわめきが残る。
昨日の朝のことを思い出す。玄関に置かれていた籠。菜っ葉と茄子、それから米袋。葉の裏にはまだ露が残り、泥も乾ききっていなかった。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に手を動かしてくれていた。その重みは確かで、込められた労力も気持ちも、籠を持ち上げただけで手のひらに伝わってきた。
母の古い日記にあった一文を思い出す。
――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。
なぜだろう。この親切は、まるで決められた手順のように感じられる。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から静かに決められてしまうような気がした。
§ § §
学校に着くと、昨日の友人たちが手を振っていた。
「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」
あゆみが小走りに駆け寄り、両手で梓の手をぎゅっと握ってくる。その体温がじかに伝わって、梓の頬がほんのり暖まった。あゆみの手は小さくて、けれど思いのほか力強くて、握り返さずにはいられなかった。
「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」
美穂が委員長らしい調子で尋ねながら、何の躊躇もなく鞄からハンカチを取り出して、梓の袖についた埃をそっと払ってくれる。その手つきは慣れたもので、きっと普段から誰かの世話を焼いているのだろう。
梓は「ありがとう」と小さく呟いた。
「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」
健太は分厚い本を抱えながら言って、ためらいがちに文庫本を差し出した。
「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」
受け取ってページをめくると、インクの匂いが懐かしく立ち上る。胸の奥が、温まってゆく。
「ありがとう」
梓が小さな声で礼を言うと、健太の耳は見る見る赤くなった。その様子があまりにも純粋で、梓は思わず微笑んでしまう。
あゆみはそんな二人を見て「わたしも何か貸したい!」と言いながら、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「これ、かわいい付箋がいっぱい付いとるんよ。勉強のとき便利とよ!」
表紙に散りばめられた小さな花柄の付箋が教室の光を受けてきらめいて、あゆみの笑顔も弾んだ。
その輪の中に自分もいる。梓はふと気づいて、胸の奥がじんと熱くなった。東京の生活で凍り付いていた心臓が、少しずつ、本当に少しずつ動き出している。そのことがこんなにも嬉しいなんて、思ってもみなかった。




