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【にくゑ】ある田舎の村が焼失するまでの全記録。【禁断の因習村百合ホラー】  作者: カクナノゾム


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吉川直樹 退職の日

 数ヶ月後、吉川は病院を去った。形式上は『自己都合退職』とされたが、実際は退く以外になかった。……都心の喧騒の中で次の勤め先を探す気力はもう残っていなかった。


 それから一年以上、何もできずに日々を過ごした。 蒸し暑いアパートの六畳間で、自分が医師免許を握っている意味すら見失い、ただ天井の染みを数えるような毎日。


 その暗闇の中で、不意に、泥の底から浮かび上がるように思い出したのは、あの夜の久我の言葉だった。


 ――虚木。珍しい名字。


 その発祥の村が無医村となり、国の支援を受けて医師を求めている。


 雪が降りしきる日、吉川はその村に降り立った


 バスの扉が閉まり、重たいエンジン音が山に吸い込まれていく。残されたのは、濡れたアスファルトと、白一色に閉ざされた静寂だけだった。


 キャリーケースの取っ手は冷たく、金属の芯が骨に響いた。白衣と器具を詰め込んだ重みは、過去から背負ってきた罪そのもののように感じられた。


 停留所の屋根の外で、三人がこちらを見ていた。年老いた女と、若い男と、壮年の男。三人とも笑っていた。雪が睫毛に積もり、表情の細部を覆い隠している。残るのは同じ角度に吊り上がった笑みの形だけ。


「ようおいでなさった。わしが村長の虚木清一じゃ」

「吉川です。本日から診療所を担当します。お世話になります」


 声は柔らかかったが、型どおりの響きがあった。老婆が顔をほころばせる。


「ほんにありがたいことよ。冬は転ぶもんがおるけぇなあ」

「子供らも、風邪ひくんです。先生がおってくださるのが一番心強い」


 若者の言葉に続いて、三人の吐く息が同じ白さで揺れた。


 歩き出す途中で、村長がふと立ち止まり、振り返った。


「先生、村には昔からのしきたりがある。難しいことではない。ただ――夜道は中央を歩くこと。端は水が流れとるけぇな。それと、人に会うたら、三度は笑みを交わすこと。笑顔は心を守るけぇ」


 老婆も若者も、同じ笑顔で頷いた。

 その言葉に不自然なほどの調和があり、吉川の胸に冷たいものが落ちた。


 坂を下り、黒ずんだ木の外壁を持つ診療所に辿り着くと、村長が鍵束を手渡した。


 倉庫を開けると、金属と油と湿った木の匂いが押し寄せる。壁際に発電機が置かれ、その隣には赤いタンクが二つ並んでいた。キャップを少し緩めると、油の甘く鉄を帯びた匂いが強く立ちのぼり、喉の奥が縮んだ。


「燃料は十分に?」

「当分は持つ。雪の間は車が入りにくいけぇ、節約はしたほうがええ。追加はわしが段取る」


 ありがたい。

 停電が多い村だそうだ。検体は小型遠心機で分離し、発電機があれば冷蔵も保てる。


 吉川は頷きながら、掌に残った冷えを感じた。

 火は敵にも味方にもなる。油の匂いが、そう告げているように思えた。



 § § §



 それは雪解けを待つ前の、冷え込みの厳しい朝だった。


「榊の旦那が、木に押し潰されたんじゃ!」


 血相を変えた村人が診療所に飛び込んできた。


 榊は商店の主人だが、この村では男衆が持ち回りで伐採を担う決まりになっていた。今日は彼の番で、数人の村人と山に入っていたのだという。


 吉川は反射的に救急バッグを掴んで駆け出した。坂道を下り、森の方へと急ぐ。吐く息が凍りつき、雪の上に白い靄を残した。


 森の奥では、伐採中の大木が倒れ、男の胸を押し潰していた。その傍らで、女が必死に夫を支えていた。髪は乱れ、頬には枝で裂かれた傷から血が筋を作っていた。指先まで真っ赤に染め、声にならない声で泣き叫んでいる。


「助けて……! お願いです!」


 女――榊千鶴の声だった。外から嫁いできた彼女の標準語は、この山奥で異質に響いた。


 吉川は膝をつき、男の呼吸と脈を確認した。胸郭は歪に陥没し、浅い呼吸がかろうじて続いている。


「……千鶴……」


 掠れた声が夫の口から洩れた。方言が混じり、途切れ途切れに響く。


「わしは……もう、あかんか……」


「まだ助かる。落ち着け!」


 吉川は短く告げ、応急処置に移った。酸素を当て、胸部を固定し、周囲の村人に倒木を持ち上げさせる。その間も千鶴は夫の手を握り締め、涙で濡れた頬を彼の胸に埋めていた。


 やっとの思いで診療所に運び込むと、夜を徹しての治療が始まった。


 男は肋骨の複雑骨折と軽い内出血。吉川は止血とドレーン処置を行い、呼吸を安定させた。


 千鶴も腕と脚に深い裂傷を負っていた。麻酔を打つと、彼女はわずかに眉をひそめ、震える唇で夫の名を呼んだ。


「あなた……がんばって……」


 縫合の針が皮膚を通るたびに、吉川は指先に緊張を溜め込んだ。久しぶりに命を救うために全力を尽くす。


 ――夜明け前、男がうめき声をあげ、目を開けた。


「……わしは……」


「大丈夫です。命に別状はありません」


 吉川が答えると、男の視線は隣のベッドへと動いた。


「千鶴は……?」


「奥さんも無事です。あなたを助けようとして怪我をされましたが、傷は浅い」


 男の目に涙がにじんだ。


「ほんまに……ありがとぅございます……」


 朝の光の中で、千鶴も目を覚ました。最初に発したのは夫の名だった。


「あなた!」


 視線が確かに交わり、二人の目から同時に涙が溢れた。

 その横顔を見ながら、吉川は思った。


 本当に二人を助けられて良かった。

 吉川は、医師としての自分を久々に褒めたのだった。

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