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【にくゑ】ある田舎の村が焼失するまでの全記録。【禁断の因習村百合ホラー】  作者: カクナノゾム


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吉川直樹 夜の電話

 その夜、吉川は携帯を握りしめ、指先が汗ばむのを感じていた。誰かに心を打ち明けなければ、胸の奥で何かが潰れてしまう――そう思って、半ば衝動的に番号を押した。


 呼び出し音のあと、軽い声が返ってきた。


「よぉ、久しぶり」


 数年ぶりに聞く声だった。高校時代から何かと肩を並べてきた友人、久我樹。フリーランスのライターで、取材のためにあちこちを飛び回っている。いつも飄々としていて、人の心を突く時でさえ笑っているような男。


 仕事を終えた吉川は、紺のスーツ姿で街を歩く。肩口に皺が寄り、きちんと締めたネクタイがかえって息苦しさを語っている。


 待ち合わせたのは繁華街の片隅の飲み屋だった。ガラス戸を引くと、油と煙草の匂いが混じり合い、カウンターの上で氷の当たる音が絶え間なく響いていた。昼夜の感覚を失った病院の白とは正反対のざわめきが、吉川の耳を覆った。


「あんまり、待たせるなよな」


 カロン、と言葉と共に掲げたグラスから、氷が当たる澄んだ音が響く。

 既にカウンターに腰掛けた久我は、吉川とは対照的にジャケットを椅子の背に引っかけ、シャツのボタンを二つ外したままカウンターに肘をついていた。


 取材帰りなのか、鞄が足元に転がり、原稿用紙の角が覗いている。飄々とした笑みを浮かべ、煙草の匂いをまとっているのに、なぜか人を安心させる男だった。


 彼はカウンターの隣を吉川のために確保していたようだった。空いている席に、力なく腰掛ける。彼はグラスを指で転がしながら、吉川に片目を上げて笑みを見せた。


 信用できる。愛すべき友人だ。

 ――もっとも、高校時代に俺の初恋をさらっていった盗人でもあるが。


「そういえば引っ越したんだ。これ新しい名刺な」

「引っ越した? 彼女とは?」

「察しろよ」


 そうか、彼女とは別れてマンションを追い出されたんだな。

 吉川は心の中で少しだけ同情する。


「……やつれたな。白衣が似合わん顔になってるぞ」


 吉川の顔を見た久我が真顔で呟く。

 吉川は笑い返せなかった。深く座り、目の前のグラスを握りしめると、氷が小さく鳴った。


「……助けられたはずの患者を、死なせた」


 久我はすぐには言葉を返さなかった。グラスを揺らし、ただ聞く姿勢を示す。

 吉川は言葉を止められなくなっていた。


「追加検査をすべきだと口にしただけで、“若いのは黙ってろ”と押さえ込まれた。夜明け前に容態が急変した時も、上席は“想定の範囲だ”の一点張りだった。あの子は――“生きたいです”って、はっきり言ったんだ」


 指先がグラスを握り締め、氷が小さく悲鳴を上げた。


「それでもカルテには“判断は正しかった”と書けと命じられた。数字を削り、時刻を寄せ、行間に言葉を足して……紙を現実に合わせるんじゃない。現実を紙に従わせたんだ」


 息が荒くなっているのを自覚しながら、吉川は続けた。


「結局、責任を取らされたのは俺だった。院内政治ってやつだ。上は無傷で、俺だけが外に弾き出された」


 久我は煙を吐き、細い目で吉川を見た。

「で、なんて名前だったんだ、その子」


 吉川はしばらく黙っていた。氷の解ける音だけが二人の間に落ちていた。


「……」


「お前だけは、その名前を覚えていろ。絶対に忘れちゃいけないだろ」


「ああ……わかってる。虚木……虚木真弓さん、だ。まだ中学生だった」


「虚木、変わった名字だな」


 久我の声には淡い響きがあった。軽口のようでいて、どこか確かめるような響き。


「その名字、昔俺の仕事関係で見た覚えがある。奇妙な掟を守る村が発祥の名字だった」


「……村」


「ああ、そういえば、そこは無医村だそうだ」


「医者が……いないのか」


「だな、ちなみに移住には国の支援もあるそうだぞ」


「……」


「……お前みたいな医者なら歓迎されるかもな」


 吉川はグラスの底を見つめた。氷が溶け、水面が揺れていた。

 この街には、もう居場所がない。

 助けられたはずの命を失った自分が、まだ医者でいる意味を試すなら――。


 決意の言葉はまだ口に出せなかった。だが胸の奥で、火種のように熱を持ちはじめていた。

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