吉川直樹 東京の記憶
東京から来た少女……か。
診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、東京での日々に戻ってゆく。
そう、あれは忘れもしない、数年前のあの日の病室。決して忘れることが出来ないあの日。
§ § §
蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。
病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。
壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。
その一角に、少女が横たわっていた。
痩せすぎた肩はシーツに沈み、頬の線は鋭い。十代のはじめだ。髪が汗で額に貼りつき、呼吸のたびにかすかに揺れる。
その瞳だけが異様に大きく、真っ直ぐに吉川を射抜いてきた。
「……生きたいです」
声は糸のように細かった。だが言葉はかすむことなく、空気を切り裂くように響いた。
吉川は頷いた。頷くしかなかった。触れた皮膚は氷のように冷たく、指先で探る脈は、ときどき抜け落ちるように消えていく。血液検査の数値も悪化の一途をたどり、数字の列が死の影を裏打ちしていた。
上席医が白衣の裾を払って入ってくる。
「想定の範囲だ。経過観察。痛み止めを調整して、朝まで様子を見よう」
「検査を追加しましょう。数値が合いません」
「若いの、そうやって何でも疑っていたらキリがない。家族も不安になる」
吉川は口を閉じた。舌の裏に血の味がした。
カルテに打つ文字が小さくなる。点滴速度、体温、酸素濃度、脈拍。数字は書ける。数字は感情を持たない。けれど数字は嘘もつかない。
夜明け前、少女の目が一度だけ大きく開いた。
警報音が鳴り、止む。別の音が鳴り、止む。看護師が走ってきて、吉川が呼吸を確認し、上席医が短く指示を出す。動きは意味を持っていたが、時間は意味を失っていた。
朝に間に合わなかった。
廊下のベンチで、少女の母親が両手を膝に置いたままこちらを見上げた。顔は泣き腫れているのに、声はかすれて乾いていた。
「大丈夫だと言ってたじゃないですかっ!」
吉川は頭を下げた。下げた姿勢のまま言葉が見つからず、背中の方から自分の呼吸の音だけが聞こえた。
その日の午後、上席医が診察室の扉を閉めた。
「記録は整えておけ。判断は正しかった、そう書けるだろう」
「……時刻が合いません」
「合うようにすればいい。臨床は現場なんだ。紙の上の時間は現実とは違う」
指示は短く、声は低かった。
ペンを持つと、手の甲の血管が自分のものではないみたいに浮いた。数字の端を削り、時刻を寄せ、行間に小さな言葉を足す。紙は何も抵抗しない。
最後の欄に、患者の名字があった。虚木。珍しいと一瞬思い、次に進んだ。




